「コラム」カテゴリーアーカイブ

シュイナードの作った2つのブランド

カリフォニア州のヨセミテの大絶壁「エルキャピタン」での”クリーンクライミング”など、ヨーロッパのクライミングからアメリカへ流れを変えたた立役者でもあるクライマーのイヴォン・シュイナードは同時に「現ブラックダイヤモンド」や「パタゴニア」の創業者でもあります。

イヴォンは少年の頃、狩猟のために鷹やハヤブサを調教する南カリフォルニア鷹狩団体に所属しており、岩壁の鷹の巣を取るための懸垂下降を教わったりしたことからクライミングに目覚めていきます。

1年中、週末にはどこかの岩を登るような日が続きますが、やがて舞台をカリフォルニアのヨセミテに移します。

ヨセミテ国立公園は「エルキャピタン」をはじめ渓谷にそそり立つ白い花崗岩の岩壁が特徴でクライマーのメッカにもなっている所でした。「エルキャピタン」は谷床から千メートルもある一枚岩でピトン(ハーケン)の量も半端ではなかったので、自作でビトンを作り始め、繰り返し使うことができるクロムモリブデン鋼を使ったピトンを開発します。イヴォンの作ったピトンは評判がよく、山仲間にどんどん広がり、1個1ドル50セントのピトンに注文が殺到するようになります。ピトンを作りながらクライミングする日々が続いていきます。やがて手作りでは製造が追い付かなくなり、道具や金型、機械を整えての量産の必要に迫られます。

そこで1965年、クライマーであり、鋭いデザイン感覚と美的感覚を持ち合わせた航空技師のトム・フロストとパートナーシップを結び、「シュイナード・イクイップメント」(後のブラックダイヤモンド)を立ち上げることになります。

1968年、当時既に「ザ・ノースフェイス」を売却していたダグ・トンプキンスに南米パタゴニアへの旅に誘われます。2人は南米を目指して未舗装のパン-アメリカン・ハイウェイをひたすら南下しパタゴニアを目指す旅に出ることになります。当時、人の気配がなく全くの未開の地だったパタゴニアの自然は2人の男に衝撃を与えました。その後、イヴォンとダグの人生は大きく変わっていくことになります。

1970年までには、シュイナード・イクイップメントは米国最大のクライミング・ギアのサプライヤーとなっていました。クライミング人気は同時にピトンなどによる岩の破損など環境が問題化されていきます。

自分たちの作ったギアが愛している自然を壊していることを目の当たりにして、ピトンの製造から段階的に手を引くことを決断します。

同時に登山ウエアとしてラグビーシャツを導入するなどウエアにも商品をシフトしていきます。ウエアも評判が良く、1972年アパレル部門の新たなブランドの「パタゴニア」を立ち上げることになります。

パタゴニアは順調に成長し、グローバルなブランドに成長していきます。その頃、製品の販路拡大を狙っていた「モンベル」の辰野勇はドイツでのパーティーで日本での販売代理店契約が終了していたことから日本から来たアイガーの2登を果たしたクライマーでもあった「モンベル」の辰野勇に声をかけ、相互に信頼を得てパタゴニアの製品の販売を任せることを即決します。1984年には相互に製品の販売を開始することになります。(その後1987年独自ブランドに全力を傾注する路線変更に伴って契約は円満解消することになります。)

1989年、ガイドを伴ったクライミング初心者がトイレ後のハーネスを正しく装着していなかったため雪崩事故により死亡するという事故が起こります。遺族が支払い能力のないガイドには請求できない補償をメーカーに請求してきたことから、保険金を賄うためにシュイナード・イクイップメントをマネージャーを中心とした社員に売却し、パタゴニアの経営に傾注することになります。シュイナード・イクイップメントは「ブラックダイヤモンド」へと進化していきます。

2011年にはダグラス・トンブキンスとイヴォン・シュイナードとの伝説のパタゴニアの旅をリスペクトして作られたドキュメンタリー映画「18℃SOUTH」が公開されていますが、これに1968年の記録や映画作成当時の二人も出演しています。

ザ・ノース・フェイスを創業したダグラス・トンプキンス氏との交友は長く続いていましたが、2015年、一緒にパタゴニアのヘネラル・カレラ湖で6人でカヤックを楽しんでいた時に強風と高波のために一緒に乗っていたカヤックが転覆し、イヴォンは助かりましたがトンプキンスは亡くなってしまいました。

トンプキンスの冒険は終わってしまいましたが、シュイナードの冒険はまだ続いていきます。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

「コロンビア」のゴッドマザー

ウエアからシューズ、バック、アクセサリーまで製作販売するアウトドア用品のメーカーであるコロンビアスポーツカンパニーの創業者はポール・ラムフロム。

彼はドイツでシャツの縫製工場を営んでいましたが、1938年にアメリカのオレゴン州ポートランドへ移住します。はじめは帽子問屋の権利を買い取り、近くを流れる川の名前からコロンビアハットカンパニーという名称の会社を立ち上げます。

ラムフロムの次女ガー・ラムフロムは10代だった頃から家業を手伝うことになります。後に社長を引き継ぐことになるニール・ボイルは1950年からコロンビアの事業に参加し、ガートと結婚します。

ガートは夫ニールとその友人のためにポケットのたくさんついた釣り用ベストを考案しミシンを使って仕上げます。この釣り用ベストがとても好評だったので、1960年にはそれを社の製品とし生産してヒット商品になります。

しかし、マルチポケットフィッシングベストの生産から4年、軌道に乗ってきた矢先に創業者のラムフロムが逝去してしまいます。コロンビア社はガートの夫が社長を引き継いでいきますが、そのニールも1970年に47歳にして急逝してしまいます。

ガートは3人の子供と多額の借金を抱え、社を売却することも考えますが、会社はガートの思っていたよりも評価が低く、高額な借金の返済には至らなかったため、当時大学4年だった息子のティム・ボイルと一緒に思い切った拡大路線を据えて再建の道を選びます。

商品開発も積極的に行い、1982年アウタージャケットとインナージャケットをジッパーで着脱できるツーインワンジャケットという気候に合わせて3WAYで着ることができるシステムを開発します。これがアウトドアファンに人気の商品開発などにより、アウトドアブームもあってコロンビアはアウトドアメーカーとして成長していくことになります。

その後もタフなガート・ボイルはコロンビア社で剛腕を振るい、息子のティムを社長に据えて現在も会長としてコロンビア社の「マザー」として活躍しています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

辰野勇の「モンベル7つの決断」

28歳、資金ゼロからの起業を決断

高校卒業後スポーツ用品店に住み込みで働き始めますが、店主からロッククライミングは危険だからやめるように言われ、父親が亡くなったことを理由にして会社を辞めます。その後、山好きの恩師の紹介で登山用品専門店の白馬堂に就職します。営業成績も良く本店の店長を任せられたそうです。仕事の傍クライミングを続け、4ヶ月の休暇をもらって21歳にしてアイガー北壁の第2登を果たします。白馬堂主催での登山学校を開設し、日本で初めてのロッククライミングスクールを運営することになります。

23歳で結婚しますが、会社の先輩と喧嘩をして店を辞めることになります。その後、白馬堂の顧客で山岳部のOBでもあった方の紹介で総合商社に就職し繊維部門の仕事に就くことになります。商社で仕事をしていく中で、自分でものづくりをしたいという気持ちが強くなり28歳で退社、起業を決断します。母親から200万円を借りて会社を登記し、銀行から引き出して母親に返し実質資本金ゼロからのスタートを切ります。アウトドア関係の会社モンベルの設立です。その後山仲間二人が加わりますが、はじめはスーパーの買い物袋の企画製造納品という仕事だったようです。その後、デュポンの素材で寝袋の製作に仕事がシフトされていきます。

小さな世界戦略に打って出る決断

創業3年で海外市場へ飛び込みで打って出ます。「ランズエンド」や「シェラウエア」などとの契約を取るなど徐々に売り込みに成果が出てきます。寝袋を欧米会社の下請けで製作するものの別の工場へ仕事を持っていかれたり、「マウンテンハードウエア」には特許を侵害されたりといろいろな苦労もあったようです。そんなこともあって、独自ブランドでの製作の必要性を痛感します。

パタゴニアとの決別を決断

ブランドの販路を世界に求める中で、当時日本での販売契約が切れていた「パタゴニア」の創業者のイヴォン・シュイナードとパーティーで会い、意気投合してパタゴニア製品とモンベルの製品の相互販売契約を取ります。しかし、パタゴニア製品の販売割合が増えるにつれて独自ブランドの重要性を思い、パタゴニアとの販売契約を円満解消し、独自ブランドに傾注するようになります。当時珍しかったオリジナルカタログの製作、オリジナル素材の開発などにも力を入れることを決断します。

直営店の出店を決断

直営店の出店、同時に在庫の解消のためアウトレットショップの立ち上げることを決断します。

価格のリストラを決断

メーカーの小売希望価格(定価)の2、3割安く売っていた小売店の価格と定価で売る直営店との価格の差を解消するために卸値はそのままにして小売価格を2割から3割に全国一斉に値下げすることを決断します。

モンベルクラブ会員制度の発足を決断

通信販売と同時に有料会費によるモンベルクラブを立ち上げ、会報誌の作成配布、フレンドショップシステムの開設、各種イベントを主催したり、割引の代わりにポイント制度を取り入れることを決断します。

アウトドア義援隊の発足を決断

阪神淡路大震災や東日本大震災などを契機にアウトドア義援隊などのボランティアを組織して活動することを決断します。

山岳雑誌「岳人」の発刊を決断

山岳雑誌「岳人」の休刊という事態に際してモンベルが引き継ぐことを決断します。


ヤマケイ新書 辰野 勇著「モンベルの7つの決断」山と渓谷社 刊から要約して掲載しました。是非一度お読みください。

アウトドア用ポータブルストーブの歴史

「さかいや」の72㎝のキスリングのタッシュに入れた凹んだ灯油臭いラジウスの四角い缶とゴーと唸る青い光を懐かしく思う方も多いのではないでしょうか。

灯油やホワイトガソリンを用いたポータブルストーブはプリムス、スベア、オプティマス、ラジウス、ホエーブスと、いろいろなメーカから作られています。特に当時の日本ではラジウスがかなり普及していたようです。

さて、このアウトドア用のポータブルストーブですが、オーストリア製のホエーブスを除きどれもスエーデン製なのをご存知だったでしょうか。

スエーデンではプリムス社が初めて灯油(ケロシン)を用いたコンパクトストーブを生産しました。フラン・ヴィルヘルム・リンドクヴィストが1862年に圧縮空気を利用した無煤煙のケロシン(灯油)ストーブを発明しました。そして、1892年、プリムス株式会社を設立し、プリムスストーブの量産を開始しました。ナンセンやアムンゼンが北極や南極に携帯していったのがプリムスストーブであり、ヒラリーとテンジンがエベレストで使っていたのもプリムスストーブでした。1910年代には年間50万個以上のストーブが生産されていたそうです。

1913年、プリムス社内で労働争議が起こり、当時組合の委員長だったヨハンソンらが会社を飛び出してストーブやランタンを製造する会社を創業したのがラジウス社でした。後発で知名度のないラジウスは日本やアジア諸国に販路を求めたようです。

プリムスのリンドクヴィストがケロシンストーブを発明した頃(前後?)、カール・ニーベリはブロートーチを考案し、幾つかの安全機構を組み込んだ強力で直接加熱できるブロートーチを完成させます。そして1882年、ブロートーチなどの機械や器具を作るニーベリ読書灯工場を設立しますが、プリムスがブロートーチの製造を始めるとニーベリは同じようにケロシンポータブルストーブを造ることになります。「ヴィクトリア」と呼ばれる最初の型はそれほど売れなかったようですが、後の「スヴェア」は良く売れたということです。ニーベリは製品の多くをロシアに納品するようになり、間もなく週に3,000個を製造するようになったそうです。しかし、1922年に会社はマックス・ジーヴェルトに売却され、ジーヴェルト読書灯工場に移行していきます。

1930年代にジーヴェルト読書灯工場ではキャンプス3型ストーブを生産していました。風防と調理用鍋にもなるアルミニウム製の蓋が組み込まれた自己加圧式ストーブでした。キャンプス3型は「ハイカー、サイクリスト、旅行者全般にとっての恩恵」と宣伝されたようでが、1955年には爆発的なヒットになるスベア123が開発されることになります。最初の携帯型トレッキング用ホワイトガソリン・ストーブで、今でも人気のあるアウトドアストーブの一つになっています。

1899年設立の調理器具メーカーであったオプティマス社では1930年代には6型ストーブを発売しており、大きさ、重量、容量、操作性と構造の面でスヴェア123とほぼ同じものでした。

1930年代にはプリムス、スベア、オプティマス、ラジウスなどスエーデン製のポータブルストーブが海外市場を席巻していたようです。

1930年にはストックホルムの小島リラ・エッシンゲンのプリムスの工場では名500名以上の従業員が働いており、この中には後のスエーデン首相ななるペール・アルビン・ハンソンも働いていたということです。スエーデンは伝統的に製造業が盛んで、特に1930年代は国策により合理化と振興が推進された結果、サーブ、ボルボ、ボフォース、エレクトロラックス、ハッセルブラッドなど世界的な競争力を有するようになった企業も複数存在しています。

すでに1939年の日本の登山技術書にもプリムスとラジウスの記述が登場していることから、この頃には既に日本にも輸入されていたようです。

スベアを開発したジーヴェルトは1962年にエッソに買収されます。

オプティマス社は6型ストーブの生産を1940年代に廃止し、コンパクトストーブやランタンの生産からは手を引いていましたが、1963年ラジウスがストーブの生産をやめ、商標をオプティマス社に譲渡することになります。しかし、オプティマス社はラジウスの商標は使うことなくラジウスの歴史は終わってしまいました。その後1969年にオプティマス社はスベアブランドを買収し、以後スベアはオプティマスが生産販売することになります。

ホエーブスはヨーゼフ・ローゼンタール金物製作所というコンパクトストーブやランタンを製造するオーストリアのメーカーによるコンパクトストーブのブランドでガソリンも灯油も部品交換により使用できるものでした。1920年から1992年までまで製造されました。

現在、オプティマスからは”スベア123R”、オプティマス”NOVA”が日本の代理店であるスター商事から販売されています。イワタニ・プリムスからガスバーナーの“2243バーナー”、”153ウルトラバーナー”、”ウルトラ・スパイダーストーブII”、ガソリンや灯油を燃料とした”オムニライトTi”などが販売されています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

アウトドアブランドの創業

アウトドア生産販売のモンベルのオーナー社長である辰野勇氏の著作「モンベル7つの決断」(ヤマケイ新書)を読んで創業者として製作販売にかけた思いを感じました。

現在世界各国からいろいろなアウトドア用ブランドが生産されていますが、いつ頃どのような経緯で作られてきたのかアウトドアブランドの創業を年表にまとめてみました。

登山用品メーカーの起業

「伝統的登山を広めたワンダーフォーゲル部」  城島紀夫著

「部誌」と「周年誌」にみる学生登山の歴史

1,学生登山の近代と現代

近代に生成発展した山岳部

近代の学生登山の歴史は、その始期を帝国大学運動会が発足して学校の遠足や修学旅行が広まる契機となった1886 (明治19)年と捉えると、太平洋戦争が終結した1945(昭和20)年までの約60年間の活動であった。

1919年に施行された大学令によって私立大学の設立がはじまり、次々と山岳部の設立する学校が増えて学生登山が普及した。

1921年頃までは学生登山は、日本人が日本の山を歩くという古くからの伝統的登山が続いていた。

やがて登山方法に、もう一つ流れが生まれた。それは西洋から移入された雪と氷に挑む冒険的登山の流行であった。西洋の用具と登山技術が紹介され、学生山岳部の大勢は登山方法を先鋭化させてアルピニズムの時代とも呼ばれ、初登頂、新ルートなどの新記録に挑む先鋭的な活動が盛んにもてはやされた。

冒険心、登山技術、体力などの差異から個人山行が主体となっていた。次いで海外高山の雪と岩に憧れる風潮が強まり、活動がさらに先鋭化した。

一方で、1930年頃からわが国の伝統的な登山を愛好する学生が次第に増加し始め、山岳部の衰退が始まった。伝統的な登山を愛好する学生たちが山岳部から遠ざかっていったのである。しかし分化して山岳部と並ぶ新種目を組織することは困難なことであった。課外活動において「部」を認可する基準に「一種目につき一部」とい言う原則があったためである。

1936年にわが国で初めて明治大学ワンダーフォーゲル部が学友会・運動部への加入を承認され、スポーツの新種目が誕生した。近代において既にワンダーフォーゲル部が萌芽していたのである。これに先立つ1935年に立教大学と慶應義塾にワンダーフォーゲル部が設立されていたが共にともに体育会への加入が成らずに文化会に所属していた。1938年に、3大学による全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が結成され、ワンダーフォーゲル部の普及活動が始まっていた。

近代という時期は、西欧から多くのスポーツが学校に移入されて、学生たちがその先導役を務めた時代であった。

 

現代に生まれたワンダーフォーゲル部の設立の波

現代の学生登山は、太平洋戦争が終結した後の1946 (昭和21)年から現在までの約70年間の登山活動の歴史である。

現代は「山岳部に入らなくても登山が出来る時代がやってきた」といわれて、ワンダーフォーゲル部が興隆し学生登山の本流となった時代である。学生登山は戦後直ちに復活したが、冒険的志向の山岳部は衰退現象が続き、伝統的登山を志向するワンダーフォーゲル部は大量の部員を迎えて発展への道をたどった。

戦後(近代)にはわが国の教育制度が大幅に変更され、全ての都道府県に新制大学が設置されるなどの教育の大衆化が始まった。近代における旧制高等学校への進学率は同世代の男子のうち1%以下であり、登山を行うのは経済的に恵まれた少数の学生であったが、現在で高校生の大学への進学率は50%を超えており登山を行う学生は大幅に増加した。

戦後の最初に復活したもんだフォーゲル部は明治大学体育会ワンダーフォーゲルであり、後続して設立されたワンダーフォーゲル部は、体育会に所属することが通例となり山岳部と並んで登山系の種目として定着した。

新制大学において体育実技が必修科目とされたことに伴って、キャンプを行う登山が人気を呼びワンダーフォーゲル部は急速に部員が増加した。現代の初期にはサイクリングやキャンプなどの青少年育成運動が行われており、ワンダーフォーゲル部の普及はレクレーションの普及とほぼ同期したものであったと見ることができる。

ワンダーフォーゲル部は1950年から1960年代の間に全国の大学の約160校に普及した。この普及の波は、戦後に新制大学に起こった新しい学生登山の普及の大波であった(拙著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」を参照)。

各大学のワンダーフォーゲル部は多数の部員を迎え、それぞれに集団活動のための組織化を図り、夏山全員合宿を中心とした年間計画と実習訓練計画を定例化し、部誌を定例発行するなどの活動スタイルを築き上げた。戦後の教育の大衆化と共に生成発展した新しい登山文化の生成発展であった。

 

伝統的登山を受け継いだワンダーフォーゲル部

戦後に学生ワンダーフォーゲル部がたどった道は、冒険的な山岳のスタイルではない伝統的な登山を静かに普及させるあゆみであった。山岳部は「より高く、より困難へ」というイズムを掲げていたが、ワンダーフォーゲル部にはイズムというものはなかった。ワンダーフォーゲル連盟を通じて登山を「逍遥の山旅」などとしてわが国の伝統的な登山を広めていた。

ワンダーフォーゲル部の各部の活動内容はさまざまであったが、全員が参加して行う夏山合宿が例外なく行われ、年間活動の主行事として今日まで継承されて、ワンダーフォーゲル部の伝統となっている。

山旅は日本の文化であると広く言われている。登山の態度について記されたものを次に紹介したい。

田辺重治は述べている。「山旅という言葉は、日本の登山を表すのに好適な表現だと、私は前から信じている。ヒマラヤやアルプスの登山を山旅と称することは、決して適切な表現とは思われない。しかし日本に於いては、登山の旅は、単に山頂だけでなく、峠、高原、山湖、渓谷、森林、時には山村などをも対象とする、山岳地方の旅を含み、且つこれ等のものは、山頂に劣らず、それぞれ独立の価値をもって、登山者を誘引する魅力を持っているので、山頂およびこれ等一切のものを含む登山の旅を、山旅という言葉をもって表現することは極めて適切であると思う」(「わが山旅五十年」より)。

田口二郎は「アルピニズムの新しい波は、それ以前の伝統的登山を蹴散らしたのではなく、その堅牢な潮流の上に乗って進展した。日本の登山の流れを見ると、伝統的登山は登山の基層として存在し、アルピニズムはその上層として発展している」(「東西登山史考」より)としている。

これらの見解は、今日まで冒険的な登山に憧れる山岳部の出身者たちから無視されてきた。したがって、これまでに山岳部出身者などによって書かれた日本の登山史やそれに類する書物には大学ワンダーフォーゲル部の登山活動の歴史とその登山史的な価値は書かれて来かったのである。

2, 「部誌」と「周年誌」が語るワンダーフォーゲル部の歴史

1960あたりまでに創部した大部分の大学ワンダーフォーゲル部は、創部した直後から年刊の「部誌」を継続的に発行していた。このほかに発行されていたものは合宿報告書、部誌、周年記念誌、連盟の機関誌などである。これらの図書には、ワンダーフォーゲル部の活動の歴史を描き出す数多くの記録が残されており、これらは後世への文化遺産として貴重な資料であると思われる。

また各資料がそれぞれの時代の社会的な背景を映し出している点においても真に興味深いものがある。

本調査は筆者が数年間にわたって多くの大学ワンダーフォーゲル部のOB・OG諸氏の協力を得て入手もしくは借用したものをもとに行ったものである。この資料が日本山岳史を俯瞰する上で何等かの役割を果たすことができれば幸いである。

 

部 誌

ワンダーフォーゲル部では「部誌」と呼んで集団合宿などの集団活動の全記録を掲載しており、OB OGたちの若き日の活動記録を部員全員で執筆する伝統が継承されていた。OB会の絆の原点はここにあると思わせるものである。山岳部では「部報」と呼んでおり個人記録に重点が置かれていた。

部誌の主な内容は基本方針、年度活動方針、年間活動計画、役員・分担責任者、活動報告(全員合宿とフリー合宿)、随想、紀行、部規約、OB会員・部員住所録、部歌、地域研究などである。

大部分のワンダーフォーゲル部は1960年代の前半頃まで、年度ごとに「部誌」の発行を続けていた。発行が途絶えた時期には、学生の体育離れが始まり、同好会やサークルが多数発生し、これまでの集団的な活動が受け継がれなくなっていた。

その後に復刊して、現在も発行しているワンダーフォーゲル部には明治大学、早稲田大学などがある。以下に、ワンダーフォーゲル部が発行していた部誌名を紹介する(創部年順)。

なお山岳部が発行していた部報名については日本山岳文化文献分科会編「学校部会報」(2005年)に報告されている。

(部誌名一覧は省略)

 

周年記念誌

創部以来の歴史を集約してOB会が編集・発行した「周年記念誌」が2000年代を中心に多数発行された。部誌を基にして活動の歴史を巧みに要約した労作が多い。

創部以来の山行の全記録を一覧表としたものもがある。その代表的なものは、東京大学、明治大学、金沢大学、慶應義塾大学などのものであり、合宿回数、個人参考回数、日程、山域、コース、参加者名などの記録があって活動の時代的な推移も読み取ることができる。

また、部誌が休刊となって以降の登山記録を補って収録している点においても重要な価値がある。

ワンダーフォーゲル部と山岳部の周年記念誌の発行状況ならびに国立国会図書館と日本山岳会資料室に収蔵されている状況を【表・1】として報告する。

ワンダーフォーゲル部の「部誌」43編は、国立国会図書館収蔵が20編、日本山岳会資料室収蔵が5編となっている。山岳部の「部報」36編は、国立国会図書館収蔵が18編、日本山岳会資料室収蔵が24編である。

山岳部は、この他に海外遠征登山や山岳遭難を題材にした記念誌を別途に発行している。

(表・1は省略する)

 

連盟機関誌

全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が機関誌(年刊)を1960年から1965年まで毎年発行した。

「ワンダーフォーゲル年鑑」と1964年から名称を変更した「ワンデルン」である。

各部の「内容一覧表」として、加盟している部の創立年月、部員数、部長・監督・主将名、加入局名(体育・文化)、部誌名、部室の有無、山小屋、部費、学校補助金、遭難対策金、合宿回数・日数、ワンダリング回数、個人山行の可否、などが記されており、大学のワンダーフォーゲル部が発展期から成熟期に向かっていた当時の模様が浮き彫りにされている。

この連盟は、大学ワンダーフォーゲル活動の情報交換の役割を終えて、1965年に解散した。

 

OB会が歴史資料を電子化

前記の「周年記念誌」などの歴史資料を収集して電子化(アーカイブなど)している東京大学ワンダーフォーゲル部OB会などの例が見られるようになった。

また横浜国立大学ワンダーフォーゲル部OB会は、ホームページに「歴史資料館」を開設して、公式ワンダリングの全記録、部誌の全集などを収録している。

右の様な電子媒体を利用した記録集はまだ少ないが、OB会が現役のホームページとリンクさせてホームページを開設する例は増加しており、現役とOBとの交流の機会が多くなりつつあるようだ。

「OB会報」を会員に印刷発送する方法から電子版で閲覧提供に切り替えるOB会が増加しているのも最近の状況である。

 

3, 両部の活動状況は

大学のワンダーフォーゲル部と山岳部の両部が活動している現況は【表・2】に示すとおりである。

調査対象とした大学は全国117校の総合大学であり、大学並びに各部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して行った。

戦前にはすべての大学に山岳部があったが、現在は様変わりとなり山岳部は大幅に減少している。

ワンダーフォーゲル部が活動している割合は国立大学の方が高く約90%である。公立・私立の方が約60%と低くなっているのは、レジャーブームといわれた1960年以降に新設された大学にはワンダーフォーゲル部が非常に少ないことが原因である。サークルや同好会などの多発による現象だと思われる。

部の公式ページに年間活動計画や活動内容の詳細を記載した部は半数以下であった。これらを見ると両部の活動内容が類似しており、この傾向は次第に進んでいるものと見られる。「山岳ワンダーフォーゲル部」が設立された大学も現れている。

調査対象とした大学名は拙著「課外活動に見る学生登山の現状と課題」日本山岳文化学会編集論第14号を参照されたい。

【表・2】は省略

活動が多様化

部誌の発行が途絶えた頃から、団体や組織を忌避する自己中心的な行動が広まり、個人主義が強まった。1960年代後半から部活動よりも自由な行動ができる同好会やサークルが多数発生し始めた。夏合宿の全員参加の伝統が崩れ始めたのもこの頃である。

70年代には大学進学率が25%を超えて、私立大学が増設され、続く80年代には大学のレジャーランド化が話題となりワンダーフォーゲル部の部員数も減少した。

1990年代から再び部員が増加し始めた。新入部員を獲得するために、登山以外の各種の野外活動を採用することが流行して、活動内容がますます多様化した。

近年では大学がキャリア教育の一環として、任意団体のサークルの結成を奨励し、届け出があれば大学が認可することが通常化している。学生にコミュニケーション能力を習得させることなどが目的とされている。

このような状況の中で、活動の目的が不明確化するワンダーフォーゲル部が増加しているのもものと見られる。

近年では、部活動の目的を「登山です」と明示するワンダーフォーゲル部が国立大学を中心にして次第に増加していることに注目したい。

 

おわりに

共同体意識にもとづく伝統的な記録文化としてのワンダーフォーゲル部の「部誌」の発行が、広く復活することを切に望みたい。


城島紀夫氏は1935年佐賀県生まれ。日本山岳会会員。日本山岳文化学会会員。

この稿は城島紀夫氏の承認のもとに日本山岳文化学会機関紙「山岳文化」第18号に掲載された表題を全文掲載させていただきました。

「大学ワンダーフォーゲル部の発足」 城島紀夫著

〜学生登山の戦後史と現況〜

日本山岳会「山岳」第百十二年 2017年8月 掲載資料


今から80年前の1936年(昭和11年)にわが国で初めて大学生のワンダーフォーゲル部が、課外活動において体育系の1種目として公認された。

ここに誕生したワンダーフォーゲル部(以下、WV部)は太平洋戦争終結後の1946(昭和21)年から新制大学において設立が全国に拡がり、大きく発展した。

 

I 学生登山の流れ

旅行部から山岳部へ

学生登山は、1910年代(大正時代初期)に旧制高校を中心に一高旅行部や三高旅行部などが設立されて、山旅が広まった。この年代に学校(中・高・大学)に設立された山岳系の部は、21校のうち10校が旅行部や遠足部やスキー部と名乗り、11校が山岳会や山岳部や登嶽部と名乗っていた。

この当時の我が日本人の伝統的な登山は、夏山を中心とした山旅であった。いくつもの社会人山岳会も、同様に夏山登山の活動を行っていた。

1919 (大正8)年に大学令が公布されて、私立大学の設置が認可されるようになり、続く約6年の間に旧制大学や旧制高校に次々と山岳部が設立された。1920年代には、部の名称も山岳部が多くなった。

1921 (大正10)年に槇有恒がアイガー東山稜の初登攀に成功した頃から、わが国に西洋流の登山思潮(アルピニズム)が移入され、当時の西洋憧憬の気風も手伝って、雪と氷の冒険的な登山が学生登山のなかでハイライトを浴びるようになった。

学生山岳部の活動は、数年のうちに雪と氷に加えて岩壁にも挑むようになり、冒険の度合を強めて先鋭化した。

学生登山が分岐した

次第に伝統的登山の愛好者たちの入部が少なくなり、山岳部の部員が減少していった。課外活動における学生登山の分岐の始まりであった。伝統的登山を愛好する学生たちにとっては山岳部から分化した新しい登山系の部が発生することが望まれていたのだが、大学の課外活動においては、新たに部を認可する基準の中に(一種目、一部)という原則があったために、新しい登山系の部を創設することは困難であった。

このような背景から、多くの山岳部においてアルピニズムを愛好する部員たちが大半を占める結果となっていた。

また当時の課外活動においては、部以外の任意の同好会やサークルに対する援助が一切認められていなかったのである。一方で社会人の山岳会においては登山思潮や登山スタイルに応じて分化が進み、新しい集団が生まれていった。

このような流れを、田口二郎は次のように述べている。「大正後期にアルピニズムが渡来した時、学生登山は従来のスタイルのものと新しいものとに分岐した。新思潮のアルピニズムを奉じて新生した山岳部があり、また古くからある山岳部で新旧の二つの内容を持って発展したものなど、さまざまであった」と。(「東西登山史考」)

スポーツの新種目とっなたWV部

1936 (昭和11)年2月に、わが国で初めて明治大学WV部分が体育系の登山種目として認可され、学友会運動部会への加入を果たした。

この年に設立して活動を開始していた立教大学と慶應義塾大学のWV部は、両部とも体育会への加入を認可されていなかった。

このあと間もなく太平洋戦争が始まり、大学における全ての課外活動は休止の状態に追い込まれた。WV部の活動も、後続の設立を見ないうちに中断された。

II  WV部が本流となった現代

山岳部との違い

WV部と山岳部との相違について、従来から対比的に言われてきた数々の説明を要約して紹介しよう。

山岳部・・氷・雪・岩に挑む、海外遠征、自然と対決する、冒険主義、アルピニズム、ヒロイズム、登頂や登攀が第一(記録主義)、より高く・より困難を目指す、少数、個人、などである。

WV部・・夏山合宿、部員全員合宿、縦走登山、自然に親しむ、安全に、尾根や渓谷や深林や里山等を辿り景観を得る、厳冬期の登山は行わない、多数、共同行動、などである。

ただし山岳部の活動が前期のように先鋭的になったのは、西洋式の氷や雪に挑む登山方式がわが国に移入されて以降のことである。それ以前の山岳部は、夏山と山旅を中心としており、今日のWV部と似通った活動を行っていた。

深田久弥も「昔の山岳部は、多分にワンゲル的であった」と述べている。(「瀟洒なる自然」)

戦後に発足・発展したWV部

わか国において大学WV部が発足した状況は【表・1】として表し示す一覧表のとおりである。これらの事実は、これまでに書かれた登山史にはほとんど記されていなかったものである。この表は、戦後の学生登山の歴史のうちWV部にかかる資料として、多くの部誌や周年記念誌などを基に筆者が作成したものである。

WV部設立の大きな波は、関東から関西へと及んだ。関東地区では私立大学が先行し、その他の地区では国立大学が先導役割を果たした。

太平洋戦争が終結した翌年1946(昭和21)年に、明治大学WV部(体育連合会加入)、と慶応技術大学WV部(文化団体連盟加入)が活動を開始した。両校ともに戦時中に休止していた部活動の再建、復活であった。

続いて1948 (昭和23)年に中央大学において戦後初めてWV部が創設され学友会体育連盟に加入した。

後続してして設立したWV部は、体育会で加入することが通例となった。

同年に、前期の大学WV部が全日本学生ワンダーフォーゲル連盟を結成して、関東地区の大学に向けてWV部の設立奨励運動を開始した。併せて大学関係者に、山岳部との相違点を周知させることも同連盟の使命であった。

その後1949年に早稲田大学WV部創設(体育会加入)、1950年法政大学WV部創設(体育会加入)と続き、1951 (昭和26)年に東京大学において国立大学で初めてWV部が発足した。東京大学WV部は1955 (昭和30)年に全日本学生WV部連盟に加入し、1960(昭和35年)年にはOB会を結成、1961 (昭和36年に運動会(体育会)への加入を認可された。

国立大学におけるWV部の設立は、東京大学WV部が先例となってお茶の水大学、北海道大学と続き、全国に普及した。

女子大学における最初のWV部は、1954 (昭和29)年にお茶の水大学で誕生した。次いで東京女子大学、津田塾大学、女子美術大学、奈良女子大学にWV部が誕生し、女子大学においても登山系の部活動が盛んになった。

女子大学の山岳部は、この前年1953(昭和28年)年に東京女子大学において誕生していた。【表・1】に見られるように、大学WV部の普及は、終戦直後の1946(昭和21)年から1955 (昭和30)年までの10年間に関東を中心とする20の大学に拡大して、新しい登山文化が構築されていった。

続いて1965(昭和40)年までの10年間の間にはさらに数137の大学でWV部が設立された。この結果1965(昭和40)年当時には、わが国の国立大学73校のうちで56校においてWV部が活躍するという盛況となった。

戦後の教育制度の変革によって、教育の大衆化が進み大学への進学率が上昇するとともに大学が増設された。これに連れて1960年代にはWV部の活動が全国的な人気を呼び、各大学WV部において山岳部を超える多数の入部者を迎えた。1960年代後半から1970年代前半が、WV部の大量部員時代とも呼ばれた時期である。

1965(昭和40)年当時の部員数は大阪大学・316名、関西学院大学・84名、神戸大学・112名、中央大学・142名、東京大学・107名、明治大学・97名、横浜市立大学・44名となっていた。

また部員数の推移について東京大学WV部に例をとって見ると、1970年に70名、1980年に66名、1990年に46名、2000年には27名と推移しており1965年頃が最多であった。他の大学WV部においても、ほぼ同じ傾向で推移した。

1960年代の後半あたりから、体育系の各部の部員数が減少し始めた。大学生たちの課外活動における体育離れと呼ばれた現象が始まった。規律を求められる部活動よりも任意性の高い同好会やサークルの方に人気が集まるようになった。多くのWV部において、夏合宿を部員全員参加制から任意参加制に変更するようになった。

以上に述べたように戦後に大発展した大学WV部の活動は、戦前に山岳部から分岐した伝統的登山の愛好者たちの大きな流れが、アルピニズム移入以前のわが国旧来の伝統的登山を、課外活動の中に回帰させた現象であったと捉えることができる。

田口二郎も「大正後期に登山界がアルピニズムを主流とするようになってからも、日本の登山の牢固とした底流として生き続け、日本の土壌に育まれたそれ(伝統的な登山・筆者注)は、戦後にはアルピニズムと並ぶ登山の二本の本流の分一つとしての地位を築いて来たのである」と指摘している。(「東西登山史考」)

急速に発展した背景は

1949 (昭和20)年の新制大学の発足と同時に、教育課程において大学生の体育実技が初めて必修となったため、WV部、山岳部、野球部等が行う実習行事が単位認定のための正式課目として取り扱われた。大都市にある学生数が多い大学は体育施設や指導者が不足しており、体育実技の単位を与えるための臨時の処置を必要としていた。

正式課目として認定されたWV部、山岳部、野球部等の部員には、部長や監督の証明によって体育実技の単位が授与された。またこれらの部が主催する実習に一定時間以上の参加をした学生には、実習の責任者の証明によって単位が授与をされた。この実習において、ワンダーフォーゲル部が主催したキャンプと登山が人気を集め、WV部の入部者が増大し始めたのであった。

このような状況に加えて、大学数と学生数の増加が続いたことや、経済成長による娯楽の普及などを背景として大学のWV部は大きく発展した。

高等教育を受ける学生の登山は、戦前は少数の富裕階層の若者に限られていたが、戦後は教育の大衆化によって多数の学生に登山活動が行き渡ったのである。

合宿先と参加者数

大学WV部が発足した初期の夏季合宿は部員が全員で参加することが原則とされており、その行き先と参加者数は次のようなものであった。

東京大学においては、1953年・南アルプス(26名)、54年・奥秩父(20名)、55年・志賀高原(50名)などと記録されている。明治大学の場合は、1953年・戸隠山(7日間、118名)、54年・奥日光(8日間)、55年・笹ヶ峰(8日間、117名)などと実施された。夏季合宿以外の山行もテント合宿を原則として、縦走登山を中心に活動していた。

山小屋の設立とOB会の結成

戦前には、大学が管理する山小屋は、山岳部の活動施設として大学が建設していた。

わが国で最初のWV部専用の山小屋が、1954 (昭和29)年に明治大学WV部のOB会によって建設された。これが前例となって、大学のWV部は山岳部とは個別の山小屋を建設することが通例となり、山岳部と並んで登山活動を行うWV部の伝統として定着した。

山小屋の建設は、明治大学に続いて1956年に中央大学、1958年に慶應義塾大学、1959年に工業学院大学と続き、一橋大学、京都大学、九州大学、東京大学、金沢大学、などの国立大学を含めて全国にWV部に及んだ。

多くの大学WV部のOBたちが、山小屋の建設事業を契機としてOB会を結成し小屋の建設資金の拠出や設備の寄付や現役部員の活動費を補助する事業が始まった。新しくWV部を創設して活動する現役役員にとってOB会からの補助金は、テントなどの装備調達費用や年間活動費の一助となる欠かせない資源であった。

WV部は部員数が多いため卒業年次ごとの同期会がそれぞれに会の名称を掲げて集う例が多く、この同期会が伝統的に継続されているWV部は全体のOB会も盛況となっているようだ。これらのWV部OB会は、OB会報を発行している例が多い。最近では、会員への郵送に代えて電子化して配信する例が東北大学などに見られる。現役部員とOB会が創部以来の「部誌」を会員から収集し電子化して、会のウェブサイトで公開する事業が始まっている。横浜国立大学、東京大学などである。

部誌と周年記念誌

発行されていた部誌の名称、ならびに近年に発行された周年記念誌は、【表・1】に示すとおりである。

1946 (昭和21)年に慶応義塾大学と明治大学のWV部が年刊の「部誌」の発行を再開した。続いて創部したWV部は、ほぼ例外なく設立直後から部誌を毎年発行していた。

当初には多くのWV部が、部誌によって各種の情報交換を行い、また地域ごとの連盟の結成や合同山行(合同ワンダリング)などを始める契機となっていた。

部誌には年間の活動記録が参加者氏名とともに詳細に記録され、合わせて部員が全員で紀行や随筆などを執筆していた。巻末には部員名簿(卒業年次、氏名、住所など)が必ず搭載されており、OB会の活動資料として活用されていた。

部誌は1960年代の後半あたりから、部員数の減少によって発行が途絶える状態となった。現在も年度ごとに部誌の発行を続けているWV部は、慶應義塾大学、明治大学など少数だと見られる。

部の創設以来50周年を迎えて「周年記念誌」を発行するWV部が2000年代に増加した。OB会が発行したこれらの周年記念誌は、過去に発行した年刊の部誌をベースとして創部以来の歴史が編纂されているため、部の伝統や年次ごとの特徴的な活動が伝えられており、時代背景を映し出しているものが多い。年度ごとの部誌の発行が途絶えると、将来には密度の濃い記録としての周年記念誌の発行が困難になるのではないだろうか。

Ⅲ学生登山の現況

WV部と山岳部の活動状況

現在の大学のWV部と山岳部の活動状況は【表・2】に示すとおりである。

全国の総合大学117校を調査対象として、各大学並びに両部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して調査を行った。

山岳部は近代(戦前)まではほぼ全ての大学で活動していたが、戦後には休部や廃部が続いたために部数は年々と減少しており、今日ではWV部の方が多くなっている。

活動している両部の部数を国立大学について見ると、51校のうちでWV部が45校(約90%)で活動しており、山岳部が29校(約57%)で活動している。

国立と公・私立の合計で見ると、WV部が84校(組織率・約72%)であり、山岳部が55校(組織率約・47%)となっている。

最近のWV部の部員数(2016年度)を見ると、大阪大学・31名、金沢大学・53名、関西学院大学・37名、九州大学・69名、京都大学・35名、慶應義塾大学・42名、中央大学・43名、東京大学・27名、北海道大学・22名、明治大学・49名、早稲田大学・18名等となっており、全国的に幾分増加の傾向にあるものと見られる。

活動多様化の模様

昨今の年間活動内容は各部によってまちまちであるが、大きく次の三つに区分することができる。①登山を中心とするもの、②登山のほかにアウトドア種目を取り入れて、年度ごとに部員の意向に応じて企画するもの、③登山活動は行わず、他のアウトドア種目の中からその都度企画するもの、である。このうち②と③は年間計画が不明確であり、年度初めに年間計画を定めない分も多く見られる。

①の例として明治大学ワンダーフォーゲル部の年間(計画(2016年度)を見よう。次の三種類の活動が企画されている。

(1)全員参加生の公式合宿(7回)、(2)自由参加制の公式合宿(6回)、(3)部員同士で行うフリープランが月一回程度、である。

(1)の全員参加合宿の内容は、新人歓迎ハイク、新人養成・2泊、初夏・2泊、夏期・7〜10泊、小屋整備・2泊、秋期・2泊、春期・2〜4泊として構成され、(2)の自由参加の公式合宿は、OB会と共同の小屋合宿、リーダー養成、正部員養成、秋期、山小屋整備、ゲレンデスキー、春期の各合宿とされている。厳冬期登山は禁止している。

多くの大学において、近年ではWV部と山岳部がほぼ同様の活動を行っている例が増加しており、この傾向は年とともに進んでいるものと見られる。私立大学において登山を行わない前記③の区分に属するWV部の中には活動内容を「アウトドア全般」とするものもある。

また、山岳部の中には登山に代えてフリークライミングを中心に活動する部も出現している。

大学WV部が登山の他に採用している種目は、サイクリング、フリークライミング、ボルダリング、カヌー、無人島合宿など種々雑多となっている。

教育の一環として行われている課外活動としては、各部ごとに一定の目標を定めることが必要だと思われる。

最近では、活動内容を「登山ですと」と明示する例が国立大学において増加している。WV部と言う名称は活動の内容を表していない。活動種目を特定して、活動種目名を部の名称にすることもWV部の今後の課題だと思われる。

参考資料

各大学のワンダーフォーゲル部ならびに山岳部の「周年記念誌」

城島紀夫「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」(古今書院)


この研究論文は「ワンダーフォーゲル部のあゆみ」の著者である城島紀夫氏が日本山岳会の機関紙「山岳」に掲載したものです。本人の了承を得て本ホームページに掲載させていただきました。

山でバテない体づくり(食物編)

【1】登山前のスタミナ食は筋グリコーゲン
 「さあ、明日は山だからスタミナつけなくちゃ。」と登山を前にして、ご飯も食べないで焼肉をもりもり食べるのはNG。
肉類中心の脂肪やタンパク質が多い食事はダメで、糖質中心のご飯や蕎麦などの穀類、魚や肉などのタンパク質源、野菜というバランス食が効果的なようです。
糖質は体内に入るとブドウ糖になり、筋肉と肝臓に取り込まれ、多くが筋グリコーゲンとして蓄えられます。
ご飯を抜いたような脂肪や高タンパク食では筋グリコーゲンは普通食の約1/3に低下してしまうそうです。ポテトサラダやカボチャなどの煮物を加えた高糖質食の場合の筋グリコーゲンは約2倍になるのだそうです。
筋グリコーゲンは筋肉を動かすエネルギー源で、この量が多いほど長く運動が継続できバテにくいとされます。
また、消耗した筋グリコーゲンは運動直後に糖質を補うことで2時間後には急激につくり出されるそうです。
したがって、連泊するような場合にも夕飯には筋グリコーゲンを十分摂ることが翌日の行動に影響を与えるようです。
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【2】山の行動食にはドライフルーツが効果的
山行中の行動食も筋グリコーゲンを源とする甘い飴や羊羹、チョコレートなど糖質が多く含まれているものを摂取する必要があます。山行中は1日3食という概念は捨てて、お腹が減ってきたら適時補給することが必要のようです。
エネルギー不足が急激に疲労につながるいわゆる「シャリバテ」にもなりますので、簡単に補給できるものを用意しこまめに補給することが必要となります。
昔の山行では、氷砂糖や羊羹、飴やレモンなどを行動食として使ってきましたが、近年はドライフルーツを用いることも多くなっています。
果物の甘味は果糖で羊羹やアメなどに含まれる砂糖に比べ3倍も早く吸収されるそうです。また、果物の酸味にあたるクエン酸とビタミンは疲労回復させる成分で、乳酸を取り除く効果が期待できます。
果物の中でもグレープフルーツ、オレンジ、ミカン、ネクタリン、リンゴなどは特に酸味が強く効果的ですが、重たかったりかさばったりするためにそのままでは山に持っていく気はしません。
しかし、近頃はドライフルーツになったものがスーパーなどでもたくさん並べられるようになってきたので、容易にミックスしたものを持っていくことができます。
また、干しブドウ、プルーン、アンズ、リンゴ、パナナ、イチヂクなどのドライフルーツと「ナッツ」や「柿の種」などを組み合わせたものを行動食とするのもいいようです。
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【3】登山者にお勧めのアミノ酸系サプリの摂り方
夏場の水分やミネラルの補給に「ポカリスエット」や「アクエリアス」などの各社から出されているいろいろなスポーツ飲料が一般化しています。また、ゼリー状のスポーツエネルギー補給剤なども近年多く用いられています。
加えて最近はコンビニやドラッグストアでもアミノ酸系サプリが目につく棚に並んでいます。さて、アミノ酸系サプリとはどんなものなのでしょうか。
マラソンや自転車などの持久力系のスポーツも盛んになってきたせいでしょうか、スポーツ時の筋力や持久力をアップさせる働きや疲労回復の効果が期待できるということでアミノ酸系サプリが広まってきています。
アミノ酸は乳酸の発生を抑制させる働きがあり、また披露した筋線維を修復させる効果があります。久しぶりに山登りに出かける人や、下山した翌日の筋肉痛などを軽減させる効果効果が期待できるようです。
ただし、使うタイミングがあります。アミノ酸サブリは体内に入ってから2時間程度しか効果が持続できないので、登り始める30分前に飲むのが効果的だということです。
また、下山した直後に飲むことで翌日の筋肉痛を和らげることができるとうことです。
ゼリータイプや水に溶かして使うタイプ、タブレットなど形状も様々ですし、同じメーカーから同じ商品ブランドでも成分やバランスを変えて何種類もの商品が販売されています。
何がどう違うのかよく分からないで使ったりすることも多いようですが、タイプと使い方に違いがあるので、表示をよく確かめて効果的に使う使う必要があります。
例えば「味の素」のamino VITALのゼリータイプで言えば、、運動前には「SUPER SPORTS」、運動中にはエネルギー補給も兼ねた「パーフェクトエネルギー」、運動後には「GOLD」という具合に使い方を想定して作られているようです。

熱中症と脳梗塞の見分け方と対処の仕方

脳梗塞による症状の場合には右か左か半身に症状が出るようですが、国立循環器病研究センターでは「FAST」という診断方法を推奨しています。

①”F”はFACEの略で「イー」と口角を上げさせ、左右対称に上げることができるかをチェックします。


②”A”はARMの略で手のひらを上にして両手を水平に上げさせ、両腕が同じように水平に維持できるかを見極めます。脳梗塞の場合片腕だけが回転しながら下がっていってしまうようです。(すでに倒れこんでいる場合は両手をまっすぐ上げで放して、両腕が下がらないかチェックします。)


③”S”はSPEECHの略で呂律(ろれつ)が回らないかどうかをチェックします。「太郎が花子にリンゴをあげた」など特にラ行がきちんと言えるかどうかが判断しやすいということです。


④”T”はTIMEの略で上記した3つのチェックで疑わしい場合は直ちに病院を受診しなければいけないということになります。


したがって熱中症なのか、脳梗塞なのかを顔の表情や喋り方、両手両足のしびれや力の入り方などをチェックして判断し対処する必要があるようです。


次に対処の方法ですが、熱中症の場合は涼しい所で足を少し上げて寝かせ、衣服を緩ませ濡れタオルやハンカチなどに包んだ保冷剤を両首筋(脇の下、足の付け根)などに当て、団扇や板などであおいで早く体温を下げてあげる必要があります。自動販売機などが近くにあれば冷えた飲料水のペットボトルなどをタオルに包んで首筋に当てて冷やしてあげます。また、経口補水剤などで早急に水分を摂取することも必要ですが、意識が鮮明でない場合には誤嚥する可能性もあるので無理やり飲ませることは避ける必要があるようです。


また、熱中症がもとで血液がドロドロになって脳梗塞を発症する場合もあるので、中高年の登山者が多い昨今、熱中症や脳梗塞など症状をよく見定めて対処する必要があるようです。


脳梗塞の場合は立たせないで日陰に移動させ、頭を水平にして寝かせ、衣服を緩めます。吐き気のある場合は横向きに寝かせます。一過性の発作の場合はすぐに症状が治まる場合もあるようですが重篤な場合は一刻も早く病院での受診・治療が必要になりますので、その場の状況に応じた判断が必要になるでしょう。

熱中症と一過性脳虚血性発作との違い

先日、北奥千丈岳の頂上で休んでいたところ少し離れた所で食事休憩をしていたご婦人が「気持ち悪い」とご主人に言っていたかと思ったら、立ち上がり際に倒れ顔面を岩に当てて出血されました。
すかさず近くで昼食の準備をしていた30代の男女が意識や両手足のしびれなどを確認し熱中症と判断しててきぱきと救急処置をしている様子に感心させられました。
聞こえて来た様子では二人は医者でも看護師でもなく、トレランをやっているだけですよと言っていました。
大勢で対処してもしょうがないかもと思ってこちらは見守っていただけでしたが、今にして思えば途中交代してあげるなどいろいろ出来ることがあったと思い反省しきりです。
さて、山でも中高年が多いこともあって病気などで倒れたりするケースも多くなっているようです。
4月の鍋割山の頂上でも心停止された人がいて、ヘリで緊急搬送している現場に遭遇しました。
 
これからの季節は熱中症で倒れたりするケースも多いのではないかと思われます。しかし、中高年の場合は特に同じような症状でも暑さと水分不足からくる熱中症ではなく、脳梗塞による一過性脳虚血性発作であるケースもあるようです。
症状がよく似ているということで熱中症と間違われ、手当が遅れて重大なことになる場合もあるようです。
熱中症なのか脳梗塞による一過性脳虚血性発作なのかを的確に判断し、対処する必要が求められます。
すでに意識がないよう場合については呼吸や脈を確認し、必要に応じて心肺蘇生をしなければならないでしょうが、意識がある場合についてホームページに「熱中症と一過性脳虚血性発作との違いの見分け方と対処の仕方」を掲載しましたのでご覧いただければと思います。