「コラム」カテゴリーアーカイブ

皆様の健康をお祈りします 渡辺知也

冬の西穂高岳で獨協生ほか四人が凍死しました。夏のテントを使用したとの新聞の報道です。

その翌年天野貞祐先生の提唱でワンゲルが創設されました。小生は中学三年生でしたが、早速入部して夏合宿の北アルプスに参加しました。

森本、打矢、赤石先輩等と日本史の皆川先生が指導しました。爾来山に取り憑りつかれた小生は修学旅行を欠席し、その時間を全部山行に充てました。早稲田大学露西亜文学科に入学して以来プッリと山に行かず勉学に専念、トーメンという商社に入社、その翌年にチェコスロバキアに留学、それからウィーンに移動して以来ヨーロッパでの生活が二十数年続きました。その後しばらくしてドイツ人のガールフレンドの両親の広大な別荘がチューリヒ近郊にありそこを基点にして再び山行を始めました。

その後かみさんを取り替えて都合三回結婚しています。現在のかみさんはハンブルグ出身で新聞記者をしています。母親はスイス・ティチーノ州のアスコーナにいて、そこを起点にして再び山行をするようになりました。スイスには何千何万という山行ルートがあるので無限の可能性があります。感心したのは朝早く登り始めて夕方に下山するまでタバコの吸い殻、キャンディーの紙等落ちていないことです。山小屋は無人の処でも皿やタオルがキチンと整理されています。世界一の生活水準の高い国なのでその身倍の程が解ります。その後ロカルノの近くの山村に三百年以上経た家を買い求めました。凡て近代的に創り直し実に快適に暮しています。

そこに夏になると日本から金子、打矢、若井、千野の先輩たちが再三訪れ、よく一緒に山行しました。今にして思えば夢のような話しです。現在は小生も七十六歳になりましたので日本から年金で暮らしています。カミさんは小生よりも二十才も若いので現役ですので、カミさんに喰べさせてもらっています。従って老後の心配はありません。

彼女は特派員としてロカルノで働いています。小生があと十年、つまり八十六才まで生きると日本四十年、西欧四十年の暮しになります。小生の死後は簡単に始末してもらいます。焼場で遺骨をポリバケツに入れ(骨つぼは高価です)ヘリコプターに頼んでピッオヴォゴルノ(海抜二千五百メートル)に運んでもらいます。この山は自宅の眼前に聳え、実に姿の美しい山です。小生は一度は息子と、二度目は金子、千野先輩と登頂を試みましたが、成功していません。三度目は遺骨となって登山します。そこで散骨してもらいます。もっともヘリの代金が高いのでその代わりに裏の小川に流すことになるかも知れません。この家族の判断に小生は口出しできません。

小生は毎朝坐禅をしますが、その際に必ず両親に念ずることがあります。小生をこうして健康に生んでくれてありがとうと云います。この感謝の気持ちが大切です。皆さんも今からでも遅くはありません。御両親が健在ならばせいぜい親孝行のまねごとをするなり、もし逝去されているなら仏前に手を合わせるなり、仏壇もないならば心の中で挨拶して下さい。なにしろ小生は親不孝の最高峰を登りましたので。皆様の健康をお祈りします。

昭和34年卒  渡辺知也

DWV.OB会の思い出 富樫克己

校生時代、「道徳」の教科書に1953年にエベレスト初登頂したE.ヒラリー(&テンジン)の手記がありました(時は1966年頃ですから結構、情報としては早い)。M.エルゾーグのアンナプルナ登頂。また最近、1924年にエベレスト初登頂したかも知れないG.マロリー(Because it’s there-そこにエベレストがあるから..)の遺体が75年後の1999年に発見されたTV番組もありました。つまり、トレンドはヨーロッパから来ていました。

私の登山はあまり経験的ではない?友人に誘われるまま入部した私の登山の地に足が付いていないのは戦後日本の感覚に似ている?そんな感じでワンゲルに在籍していた?

たまに思い出した様に登山していた私に昔のワンゲルOB会からの参加案内が来ました。当時は皆、若く、OB会は発足したばかり。年齢的にも余裕の出てきたスタッフの集まりで結構、盛り上がっていました。現役時代も流される様だった私にはOBの方々との登山は俄然、リアルなものになりました。何か地に足が付いている人達?戦中派の自信と経験は得難い..高度成長期を支えていた先輩?知らない山に知らないまま参加し、何かあっても大丈夫..って感じでした。同級生との登山も復活し、彦坂くん、長瀬くん、知らなかった後輩との交流も始まりました。

当時の有志OB会山行を率いていたのは昭和35年卒の佐藤OBと常盤OBでした。佐藤奥様のイラストと共に月例山行のパンフが届きました。海外駐在の後、日本の友人関係も途切れ、手持無沙汰だった私は昔の登山を復活させた?まあ、年齢的にもトレンド的にも改めて中高年の登山は当時の先端だった?..のは如何にも獨協的?当時、佐藤先輩の住居が東武沿線だったせいか?山行は南会津が多く会津駒ケ岳、そして七が岳は素晴らしかった。水が流れる谷道を遡っていくって感じが新鮮で、ガスってた頂上付近の霊験さとの対比が渋く、日本的な山の雰囲気。ここら辺が西洋的なアルピニズムとは差異してる中国由来の山岳仏教的なアニミズムがなお、我々に残っているのでは?-遺伝子に残されている記憶、夢に現れてくる祖先の記憶が既視、デジャヴュしてる-かも知れません。3000m級の岩っぽい山(ALP=岩の山の意)はヨーロッパ的な近代登山、アジア的な緑っぽい山との象徴の違いでヒトが生きられないデス・ゾーンはアジア人には意味が無かったのでは?今ではむしろ、先輩達が近代モダン登山に近かった?..と思える時代になりました。

そんなこんなもあり10年ほどOBの方々と山行を繰返し、お陰で私の登山歴も個人的山行もあり現役時代より充実した内容になりました。OB会が無ければ私には山は遠かった..継続こそ力なり!思うに人それぞれ、人生のタイミングで突然、登り始めるヒトもいれば過去の実績を自負し止めてしまうヒトもいるでしょう。ヒトそれぞれ、人生いろいろ。現役時代、山は私には厳しかったけどOB会の山は優しかった。大人になって山を楽しむチャンスを与えてくれたOB会に感謝..。

昭和43年卒  富樫克己

ワンゲル顧問の頃の思い 金 有一

長い教員生活の中で定年になるまでの最後の十数年間、新村三千夫先生とワンゲル部顧問として子供達に同行し20座に及ぶ百名山へのアタック、里山歩きの楽しさや苦しさを共有してきた。若い彼らは登るのが速い。日帰りの奥多摩などの引率は結構しんどい思いをしたが、宿泊を伴う山行の方が私にとっては楽であった。理由は一つ、背負う荷が彼らより軽いからである。日帰り山行ではザックの重さはほぼ同じだが、夏合宿などでは子供達はテントや食料など多分30kg以上を背負っていた筈である。顧問の私は身の回りの品だけで随分と軽くなる。その差で歩く(登る)早さは同じになるのである。こうして定年になるまで子供達と一緒に朝日、吾妻、大雪、南ア、北アの奥まで足を踏み入れることができたのも新村先生や同行したOB諸君、子供達の協力があってこそと感謝している。合宿当時、登山道や山小屋で出会った人たちとの思い出を幾つか記してみたい。

「白馬岳・朝日岳」合宿(1999年7月、3泊4日、猿倉~大雪渓~白馬岳~雪倉岳~朝日岳~五輪尾根~蓮華温泉~平岩):白馬尻で早めの昼食を済ませ、行動を開始したのは12時少し前、縦走用の重い荷物を背負い斜度のきつい大雪渓に難儀していた。突然の夕立ちで近くの岩場の陰で雨宿りを余儀なくされ、小降りになるのを待って6時までにはテント場につかなければならないと雨の中を再び歩き始めた。小雪渓手前で避難小屋を見つけまた小休止、中を覗くと暗いため人相は判らず、ただ一人軽装の男がいるというのが第一印象だった。突然、「先生!」と、驚くばかりだった。ここに教え子の関井君がいるとは予想だにしなかった。聞くと、山頂の昭和大学医学部診療所のスタッフの一員として奉仕活動し、今日の仕事は最後の登山客を見届けてから頂上の宿舎に戻るとのこと。彼に励まされテント場に着いたのは夕方6時を回っていた。翌朝、彼に別れを告げて朝日岳を目指す。鉢岳を巻き強風を避けて雪倉岳避難小屋での昼食は単独行の女性と一緒、言葉を交わすうちに彼女の壮大な計画を聞き、我が耳を疑った。日本海の親不知から北アルプス・八ケ岳・南アルプスを縦走し静岡県の大浜まで歩くとのこと、無事と完全踏破を祈らずにはいられなかった。時折り記憶が蘇り計画は完遂できただろうか気になっていた頃、年が明けて雑誌「山と渓谷」3月号に完全踏破達成の手記が目に止まり、彼女であることが直ぐに分かった。手記には住所の記載もありお祝いの手紙を書いた。彼女からの返信には『先日はお便りありがとうございます。風の強い7/23の雪倉岳避難小屋でのこと、よく覚えています。あの時頂いたスイカは本当においしかったです。・・・日記に毎日の食事のメニューも書いていたのですが、7/23のお昼のメニューには「スイカ(高校のワンゲル部に頂いた)」と書いてあります。・・・』とあった。この合宿は歩く距離が長く毎日10時間以上のアルバイトを強いられた。

「雲ノ平」合宿(2004年7月、4泊5日、折立~太郎兵衛平テント場~薬師岳~太郎平小屋~薬師沢小屋~雲の平キャンプ場~祖父岳~岩苔乗越~水晶岳~野口五郎小屋~真砂岳~湯俣岳~湯俣温泉~高瀬ダム):毎日が歩く距離の長い山行だった。薬師峠のテント場を早朝に出発し薬師岳をピストンして太郎平小屋で小休止後、北アルプスの秘境と呼ばれる黒部川本流との出会いに建つ薬師沢小屋までジグサグ道を下り、さらに雲ノ平の溶岩台地へ登り返す強行軍だった。水晶岳のピストンを終え東沢乗越のあたりから風も強くなり雨模様、午後3時を回っていただろうか、ずぶぬれになりながら野口五郎岳のテント場に着くとそこは閉鎖、幕営できないとのこと。止む無く野口五郎小屋で素泊まりとなる。献立はカレーライス。幸いに登山客もなく、小屋の方々のご理解を得て自炊が始まる。お手伝いに来ていた小屋のご主人の高校生のお嬢さんと子供達は意気投合、高校生同士楽しそうに和気藹々とカレーを作っている。完成したカレーを口にした小屋のご主人は、小屋のカレーよりも美味しいと褒めてくれた。この夜は心温まる小屋の方々との交流の場となったことは云うまでもない。

「荒川岳・赤石岳」合宿(2005年7月、4泊5日、椹島~千枚岳~荒川岳東岳~赤石岳~椹島):山行の途中から赤石岳で百名山完登を目指す富良野の獣医さん(テレビ番組・倉本聡「北の国から」で獣医役としても出演)と出合い99座目の荒川岳東岳、100座目の赤石岳に同行、子供達が立会い人となり百名山完登のお祝いをしたことは感慨深い経験だった。赤石避難小屋では獣医さんからお世話になったお礼にと子供達にジュースの差し入れもあった。この夜の登山者は獣医さんと我々だけ、小屋番氏が食後に面白い場所に案内するからシュラフをもって来るようにと云う。小屋から山頂近くまで行くと小屋番氏はシートを拡げシラフにくるまって仰向けに寝るようにと指示。漆黒の闇の中に都会では決して見ることが出来ない満天の星空、目が慣れてくると一つ二つと流れ星が多方向から流れる、人工衛星の赤い糸のような航跡に歓声が上がる。小屋番氏の解説を聞きながら獣医さんと一緒に壮大な宇宙の神秘さに想いを馳せたひと時だった。秋になって獣医さんから学校宛てに段ボール箱いっぱいの富良野産新ジャガイモが子供達に送られてきて、部室で分けたことも懐かしい思い出である。

「三頭山」送別山行(2007年2月、日帰り):私が定年を迎えた年の2月、送別山行・三頭山を企画してくれた。武蔵五日市駅に着くと駅前に、ハリウッドの映画スターが乗るような『大きな黒塗りのリムジン』が出迎えているではないか。何人が乗れるだろうか、対座のシート、車内の調度品に目を見張る。都民の森の駐車場に横付けすると大勢の登山者の視線がリムジンに向けられて、下りる時は少し気恥かしかったが、新村先生と子供達の心遣いが嬉しかった。新村先生、山行を共にして今はOBとなった諸君、ご一緒させていただいた数々の山行、原稿を書きながら懐かしく思い出しております。お世話になりました。

DWV元顧問    金  有一

植田先輩を偲んで 常盤雪夫

南アルプス 鋸岳ビバーク

手元に数枚のスナップ写真がある。その1枚には寒さからかズボンのポケットに手を入れ、寝ぼけ顔で焚き火跡を見ている私がいる。その後ろには大きな岩小屋があり、数多くの岳人が利用したであろうその天井は煤けて黒くなっている。

すっかり記憶が薄らいでしまった南アルプス鋸岳紀行はこのスナップ写真から始まる。メンバーは顧問の奥貫靖弘先生、3年の渡辺知也先輩、同じく3年の植田一朗先輩、そして2年の常盤の4人である。山行は昭和33年(1958年-)の5月連休の時のことである。

岩小屋を出発後、河原沿いの登山道はしばらくして鬱蒼たる樹林帯の中を進むようになる。やがて、1回目の渡渉地点に出る。先ず私が空身でザイルを着け対岸に渡る。その場で用心のため確保体制を執り、他の3人が1人ずつ次々と渡る。踝ぐらいの深さだがよろけると膝以上の深さまでつかってしまう。雪解け水は流れが速く清らかだが冷たい。最後に私が渉り直し渡渉を終える。渡る距離は10mほどだが結構時間を使った。このような渡渉を3回繰り返しやっと樹林帯を抜けた。

そこは稜線まで続くであろうと思われる長くて急峻なガレ場の下端である。明るい。

足元の岩は、鉄平石のように表面は平らだが、積み重なっているために不安定であり非常に歩きづらい。特に鋲靴の者にとっては滑ることも心配しなければならず気を使う。小休止の度に上を見上げれどガレ場は際限なく続き天空に突き抜けている。

急登と歩きにくさからこのガレ場を抜けるのには結構な時間を要した。

この紀行文を書くにあたり、あまりにも私の記憶が少ないのでインターネットで検索しコースや地名などの参考にすることとした。

検索によれば、我々のコースは、長野県・戸台口から戸台川沿いに遡行し、角兵衛沢から角兵沢衛沢の頭で稜線に達した後、第一高点(頂上)、第二高点を経て熊の穴沢を下山し戸台口に戻るというルートであったと思われる。

展望の利く稜線からは遠く北アルプス、中央アルプスの峰々、むろん北岳・千丈岳や前衛の山々が眺められた。すれ違うのにも苦労するほどの狭い尾根道、多少の岩登り技術を必要とする大小のピークを過ぎるころ、突然「ここでビバークする」の声。呆然とする。確かに時間は午後3時を過ぎているが、あるのは畳3枚ほどの岩だらけの狭い空間である。転落防止のためザイルで互いを結び合い食事の支度に取り掛かる。

ピークとピークが形作るV字型の間からは八ヶ岳の裾野がやや赤みがかって水平線ならぬ斜方線を描いている。一見地球が傾いているとも思える壮大な景色である。富士山の裾野も見事だが、視界一杯に広がる八ヶ岳のそれも負けてはいない。

軽い食事の後、寝袋に入り横になる。スペースの狭さとザイルで結びあっているため寝返りは出来ない。おまけにゴツゴツと背中が痛い。救いは顔の上に広がる満天の星空である。2000mを超える高地でのビバークであり、寒いが我慢出来なくはない。私は疲れもあって意外とよく眠れた。

ビバーク地点が第一高点に達する前の地点なのかそれとも後なのかは判然としない。その第一高点に関しては、後日叔父に会った際、第一高点にある石油缶が名詞箱代わりに使われていて叔父の名詞もある筈と聞いた。叔父が鋸岳に登頂したのは太平洋戦争末期のことである。

当時、私は植田先輩からパッカード(米国製乗用車)と呼ばれていた。馬力はあるが燃料を食う例えである。熊の沢を経て戸台口までの戸台川沿いの林道は途方もなく長く感じられ、4人はあまりしゃべらず無口でひたすら歩いていたが、突然、植田先輩から”シジミ蝶”についての話を持ちかけられたのは意外だった。その蝶の可愛さ、可憐さなどについて先輩は朴訥に話した。60年前のことである。

すでに鬼籍に入られた先輩は、そのとき私に何を伝えたかったのだろうか。

                                                      昭和35年卒     常盤雪夫

 

杉島佑一君との想い 佐藤八郎

彼との出会いは、高校1年の時同じクラスになり席が近く小生を囲み、杉島君、そして金君と話が合い、山の話になりました。

小生がワンゲルに入部しようと誘ったところ杉島君が入部したいと言うので、二人早速入部。それから40年以上の付き合いが始まりました。

高校時代は毎週の様に奥多摩、丹沢山系の山へ行きました。彼の実家は名栗でしたので、御実家に泊まって武甲山へ山登りしたものです。大学生になってからは、山ではなくスキー、スキーでした。

そんな彼は、高校1年から登山靴は革製、小生はキャラバンシューズでした。スキーをする時は、当時最高級のホワイトスター、衣装はトニーザイラーが映画で着ていた様な格好で滑っていました。私としては、学生として不思議に思いました。

其の後、社会人になり彼は建築会社へ、小生はベアリング会社へと、それぞれの道へ進みました。

今振り返りますと、短い命に只々驚き、今は冥福を祈るばかりです。

昭和35年卒   佐藤八郎

彦坂震三氏の思い出 中野 茂

彦坂震三氏は昭和43年3月の卒業生で、同年4月に中学に入学した私とは目白の校舎では入れ違いの関係になります。因みにワンゲルの部室があったという木造図書館はこの年に建て替えが始まり、部室棟として作られたコンクリート長屋へ移ったのはこの年だったのだろうと思います。

彦坂氏との交流が何時頃からだったのかハッキリとした時期は思い出せないのですが、平成5年には間違いなく同乗していたり自宅にお邪魔したりしていましたので、彦坂氏が亡くなられる平成18年11月までのおおよそ15年の付き合いであったと記憶しています。

荒川区尾久で幼少期を過ごして、一時期、母上が勤めていた小学校の校舎に住んでいたことがあるという話を聞いたことがありました。私が知り合ったころは越谷市で食料品製造業を営んでおられました。それ以前には自動車部品製造をしていた時期があったとも聞いた覚えがあります。獨協大学時代は校舎よりも雀荘に多く通い、雀士を自認する父上から盲牌の甘さを指摘された事に奮起して、盤面を滑らせるだけで牌の区別がつくまでに上達したという話を聞いた事があります。しかし、OB会には私はもとより打ち手がいませんのでお手並みを見ることはありませんでした。

私の家族はみな杏が好物だと言うと店頭では5粒6粒の単位で売る代物を大量に頂き、その後に加工現場を拝見したところ従業員が1粒ずつ手作業で整えている姿をみて、大いに恐縮したものです。

彦坂氏とは車に同乗して出かけることが多く、小諸日新寮の親睦会、水晶山の四万温泉、筑波山、岩櫃山のときは先乗りして本隊と合流する前に浅間隠山を歩きました。この原稿を書きながらポロポロと話が思い出されるのは、移動中の時間を多く過ごした故と思います。

先にも書きましたが、彦坂氏は平成18年に亡くなりました。私はお見舞いには行っていません。楽しく付き合った人の末期を見るのは辛いというのが理由です。あと病室の彦坂氏から還暦記念の “ 赤シャツ ” が着たいとの願いがあり、私なりに奔走したつもりでしたが、ご家族のもとにお届けできたのは亡くなられた後でした。申し訳ないと思っています。

昭和49年卒 中野 茂

千野一郎さんを偲んで 長瀬 治

“飄々ひょうひょうとしたムードメーカー   ”千野一郎さん

千野一郎さん(1958年卒)との初の出会いは2002年6月第17回総会(銀座「獨協倶楽部」)である。“二次会”となったビアホールでは千野さんと席が隣り合わせになり、「会社を整理し,時間ができたのでこれからは機会をみて参加するからよろしくネ」とのことだった。

10年年長で初対面でもあった千野さんにいささか緊張しつつも酒を交わしながら、佐藤八郎さん(1960年卒)主催の月例山行やスキー行のことなどを歓談し、「スキーはちょくちょく滑っているよ」と千野さんは話した。

OB会有志によるスキー行は新潟県湯沢が初回(1998年2月)だが、この二次会に同席していた富樫克己現OB会長が翌年2003年1月の湯沢スキー行に千野さんの参加を取りつけた。これをきっかけとして先輩後輩という垣根を越えた(と私は勝手に思っている)千野さんとの楽しいお付き合いが始まった。

月例山行はひとまずおいて、千野さんのスキーはうまかった。無理無駄がなくポイントを押さえた安定感のある滑り……と言え、スキーはちょくちょくやっている感はたしかにあった(スキー雑誌の編集アルバイトをしたことがある私の経験から見ての感想だが)。

それにくらべ,私はといえば、「力(りき)み過ぎているよ。迷いがあるよね。もっと肩の力を抜いてリラックスしたほうがいいと思うよ」と私の滑りを見た千野さんから、ワンポイントアドバイスを受けた。

滑りやスタイルには、その人の生き方やありようのみならず性格すらも反映するものと思っているので、往時の私の置かれた状況を千野さんにひと目でずばり見抜かれたおもいがしたことは、いまでも忘れられない。

湯沢以外では千野さんの軽井沢にある山荘(ログハウス)が,近隣スキー場へのベースとして提供され、佐藤さんや常盤雪夫さん(1960年卒)らとともにたびたびお世話になり、夜の酒宴でも笑い声が絶えなかった。

山をおりたあるときには、「ナガセちゃん、ライブハウスに行かないかい?」と弾んだ声でいきなり電話があり、千野さんお気に入りのバンドが演奏するからと原宿のライブハウスへお伴したこともあったり……。

十数年間のお付き合いだったが、月例山行やスキー行を問わず、いつも笑顔で飄々として場を盛り上げるムードメーカーだった。

*2015年10月9日秋晴れ。数年前から人工透析の身だった千野さんは「突然,大動脈解離に見舞われ、本人も何が起こっているのかわからないうちに意識がなくなり……、最後までおしゃれでスマートで、ちょっとおとぼけな人でした……」(42年間連れ添った千野光子さん談)。75歳だった。

アルプスを臨む韮崎の墓碑には『慈鳳院銀嶺友楽居士』(じほういんぎんれいゆうらくこじ:大きな鳥になって、はるか彼方から雪山を臨み、多くの友人と音楽を楽しみながら、ゆったりと遊んでいる仏さま)とある。

昭和43年卒 長瀬 治

OBとしてDWV冬山合宿に参加した時の思い出  打矢之威

私は1954年(昭和29年)独協高校1年生の時、同級生の森本(故人)加藤(故人)、丸山、赤瀬の4人と独協高校ワンダーフォーグル部創設に関わりました。その1年後(1955年)、 井上、植村(故人)、滝川、若井、牧田の諸氏が入部し、さらに1956年に南(故人)、千野(故人)が加わりDWVの基礎ができました。当時英語の講師として早稲田大学の渡辺英太郎先生(W大WV部監督)、日本史の皆川完―先生(日本山岳会会員)等、そうそうたる山の専門家が独協で教鞭をとられており、また大田 資、奥貫 晴弘、高梨 三郎等の諸先生もWV活動に関心を待たれていたので創部初期から指導者に恵まれていたと思います。さらには理科授業の助手であつた東京理科大山岳部在席の金子雄一郎氏も幾多の山行に同行されたと思います。

私は浪人後早稲田大学商学部に入学し我慢していた山登りを再開、早速早稲田大学山の会に入部して本格的に山登りを楽しんでいました。確か大学3年の冬、最も山登りが充実し経験も技量も積んだころ、奥貫先生からお誘いを受けDWVの冬合宿にコーチとして参加することになりました。

目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。

戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出始めたが、多分晦日の30日。その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。

やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。

  昭和31年度卒  打矢之威

ワンゲルの思い出  滝川国勝

獨協高校での部活は思い出深く、楽しいものでした。1学年先輩達の5人が創部したワンゲルに入部した動機は、はっきりした記憶がありませんが、私には二人の兄達が山登りが好きで、家には山の写真用の6 ×6判のカメラや、山岳雑誌があり、その影響があった様にように思われます。

先輩達と早稲田大学のワンゲル部の活動に参加させていただき、美ヶ原高原周辺を散策して当時流行し始めた山の歌や民謡風の歌を、女子大生を囲み楽しそうに合唱している光景に羨ましく思いました。

歌集をコピーして練習しましたがどこか淋しく皆な大きな声で歌っていました。

ワンゲルとしての知識も実績も無く手探りであって、トレーニングにしても目白駅往復のマラソンを気が向けばするだけでした。

ワンゲルでの一番の思い出は上高地横尾キャンプ場での一週間程のキャンプでした。

真夏の暑い東京を出発し、数時間後に涼しい上高地に着き、美しい梓川周辺や河童橋を渡る時に見た穂高連峰の素晴らしい風景を今だに忘れる事が出来ません。ベースキャンプ場を中心に遠くから見ると優雅で美しい常念岳、大滝山、蝶ヶ岳への登山、そしてキャンプ最大の目標であった槍ヶ岳へアタックでした。その登山は途中から岩場の連続で、急な傾斜で厳しい道程でしたが頂上からの景色の素晴らしさに疲れも忘れるほどでした。キャンプ場での梓川の水での飯盒炊飯やキャンプ打上げでのキャンプファイヤーの炎等思い出がたくさんあります。

下山途中で岩につまずき、左腰部を痛めました。1週間後に坐骨神経痛を発症し、その治療のためワンゲルの部活が出来なくなりました。その後ワンゲル部員も増え、体制も整ってきたことを知りながら復活出来ませんでした。

今は亡き、創部当時の二人の先輩達、共に楽しみ、苦しんできた同級生、後輩たちのご冥福をお祈りして、ワンゲルでの思い出とします。

 昭和32年卒 滝川国勝

山男の夫と歩んで 高梨洋子

「昭和35年7月28日〜8月4日飯豊連峰主稜縦走、責任者私・奥貫氏、OB2名(氏名)、参加者(生徒全員の氏名)、見送りの方々(氏名が列記)、装備品、日程(分刻みで記入)、毎日の食事の献立、天候の変化、食事では例えば『昼食・ラスク・バター・ジュース』とあり、さらに『ラスクは昼食としては不適当である。野菜(品名記入)を準備すべきこと』」など。(括弧内は筆者記)

これは夫が遺した克明な山行記録の抜粋です。全ての山行がこの調子で手帳にぎっしりと記録されています。夫がどれだけ多くの同僚の方々とワンゲルOBの皆様の援けをいただきながら、登山を続けることができたのか、若者の命を預かる重みとともに感じさせる、ぼろぼろになった数冊の小さな手帳です。

私の夫、富士三郎は残念ながら20年前に鬼籍に入りましたが、1952年から1991年3月までの39年間を獨協学園の教員としてお世話になりました。夫の登山歴は本人によれば16才頃に始まり、戦争で中断、戦後は登山よりも学生運動に情熱を注ぎ中断(これは私の推測です)、ようやく獨協で復活したようです。

顧問をお引き受けした当初、私たちは新婚でした。住まいは世田谷区池尻の都営住宅で、そこに顧問の奥貫晴弘先生が打ち合わせに来て下さいました。東京大空襲で焼け出された夫には山の装備は何もなく、全て上野のアメ横で進駐軍の中古の寝袋、ザックなどを揃えました。とにかく臭い、汚い、暗い感じの物ばかりで、好奇心旺盛な愛猫チコでさえ敬遠する代物でした。足は大事だからと登山靴だけは奮発し、知り合いの靴職人に頼んだ特注品でした。と、まぁこんな具合で後ろ髪を引かれる思い(か、どうかは?)で新婚の妻を残しつつ、山行が始まりました。出発の2〜3日前頃からお互いの無口がはじまり、猫さえ寄り付かない雰囲気。全員が無事故で生還できることを祈るような気持ちで、毎回夫を送り出したものです。

一方で楽しみもありました。おみやげ「話」です。差し障りがあるので詳しくご披露できないのが残念ですが、笑える失敗談、ぞっとするような遭難寸前の話など、饒舌が復活した夫にせがんで夜が更けるまで話を聞き、語り合ったものでした。

そんな山男の夫が逝った翌年の秋頃、小諸でのOB会の集まりにお誘いいただきました。以来、息子家族共々お言葉に甘えて参加させていただいております。夫の思い出が詰まった小諸、本当に楽しいOB会です。

元DWV顧問故高梨富士三郎夫人 高梨洋子


高梨洋子さんは2018年4月9日、お亡くなりになりました。この原稿は生前にOB会30周年記念誌に寄稿されたものです。ご冥福をお祈り申し上げます。