山男の夫と歩んで 高梨洋子

「昭和35年7月28日〜8月4日飯豊連峰主稜縦走、責任者私・奥貫氏、OB2名(氏名)、参加者(生徒全員の氏名)、見送りの方々(氏名が列記)、装備品、日程(分刻みで記入)、毎日の食事の献立、天候の変化、食事では例えば『昼食・ラスク・バター・ジュース』とあり、さらに『ラスクは昼食としては不適当である。野菜(品名記入)を準備すべきこと』」など。(括弧内は筆者記)

これは夫が遺した克明な山行記録の抜粋です。全ての山行がこの調子で手帳にぎっしりと記録されています。夫がどれだけ多くの同僚の方々とワンゲルOBの皆様の援けをいただきながら、登山を続けることができたのか、若者の命を預かる重みとともに感じさせる、ぼろぼろになった数冊の小さな手帳です。

私の夫、富士三郎は残念ながら20年前に鬼籍に入りましたが、1952年から1991年3月までの39年間を獨協学園の教員としてお世話になりました。夫の登山歴は本人によれば16才頃に始まり、戦争で中断、戦後は登山よりも学生運動に情熱を注ぎ中断(これは私の推測です)、ようやく獨協で復活したようです。

顧問をお引き受けした当初、私たちは新婚でした。住まいは世田谷区池尻の都営住宅で、そこに顧問の奥貫晴弘先生が打ち合わせに来て下さいました。東京大空襲で焼け出された夫には山の装備は何もなく、全て上野のアメ横で進駐軍の中古の寝袋、ザックなどを揃えました。とにかく臭い、汚い、暗い感じの物ばかりで、好奇心旺盛な愛猫チコでさえ敬遠する代物でした。足は大事だからと登山靴だけは奮発し、知り合いの靴職人に頼んだ特注品でした。と、まぁこんな具合で後ろ髪を引かれる思い(か、どうかは?)で新婚の妻を残しつつ、山行が始まりました。出発の2〜3日前頃からお互いの無口がはじまり、猫さえ寄り付かない雰囲気。全員が無事故で生還できることを祈るような気持ちで、毎回夫を送り出したものです。

一方で楽しみもありました。おみやげ「話」です。差し障りがあるので詳しくご披露できないのが残念ですが、笑える失敗談、ぞっとするような遭難寸前の話など、饒舌が復活した夫にせがんで夜が更けるまで話を聞き、語り合ったものでした。

そんな山男の夫が逝った翌年の秋頃、小諸でのOB会の集まりにお誘いいただきました。以来、息子家族共々お言葉に甘えて参加させていただいております。夫の思い出が詰まった小諸、本当に楽しいOB会です。

元DWV顧問故高梨富士三郎夫人 高梨洋子


高梨洋子さんは2018年4月9日、お亡くなりになりました。この原稿は生前にOB会30周年記念誌に寄稿されたものです。ご冥福をお祈り申し上げます。

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