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故高梨先生の自然葬 生前のご希望 相模灘で散骨 金 有一

高梨先生が亡くなられてはや三余年の歳月が流れようとしています。生前から遺骨を自然に還すことは、先生の強い願いでした。

秋も深まった11月12日、好天に恵まれた相模灘でご家族、ご親戚、ご友人、新宮譲治先生らご同僚、佐藤八郎ワンダーフォーゲル部OB会長らOB諸氏、教え子らで散骨を行いました。

英国のチャーチル首相がオーナーであったという海の貴婦人と呼ばれる帆船”シナーラ” で三浦半島の油壺にあるシーボニアマリーナを出航、江ノ島の南20km の海上で鐘の響きに導かれ、奥様がご遺骨を海中に投じられました。参列者全員で投じた赤や黄の色とりどりの散花は水面を漂い、陽の光を受け、たとえようも なく美しく輝き、感動的でした。波のうねりの中に描かれた円形の航跡の中心に拡がる散花に先生のお姿を偲び、涙し永遠のお別れをさせていただきました。3 時間ほどの航海でしたが貴重な体験をさせていただきましたこと、御家族の皆様に感謝申し上げます。

(獨協学園ワンダーフォーゲル部OB会名誉会員 1960年卒)

sankotsushiki

 

 

OB会設立集会での高梨先生の挨拶  高梨冨士三郎

DWV(獨協ワンダーフォーゲル)部OB会の設立については、私もかなり以前からOB の諸君との集会を持ちたいと考えていましたが、なかなか実現をみませんでした。もっとも、過去に一度、鬼子母神近くの「鳥屋」の2階で、OBと現役の合同 集会をもったことがありましたが1回こっきりで終わっています。今回、打矢氏(1956年卒)、若井氏(’57年卒)、井上氏(’57年卒)、常盤氏 (’60年卒)、中川氏(’64年卒)、中尾氏(’64年卒)、長瀬氏(’68年卒)の方々が中心となり、名簿の整理やら打ち合わせ会、案内の通知から会 場の準備など、それぞれの時間をさいて本日の会になったわけで、ここにあらためて、これらの方々に感謝の拍手を贈りたいと思います。

さて、私は1960(昭和35)年からDWVの顧問をやらせていただき、約30年近く 続けさせていただいたわけです。私の前は、ここにご出席の太田先生、富山におられる奥貫先生、私になってから飯島先生が加わり、’80年頃から小川先 生、’83年頃から本木先生が加わって、現在は本木・清棲両先生が実際面の指導をなさっておられる。私たちは現在括弧づきの顧問ということで、仕事の関係 でなかなか山行に加わることはできません。

DWVとして私が歩き始めた頃は、今ほど登山人口も爆発的でなく、装備も立派なもので はありませんでした。大体は、上野のアメ横で買い整えたものばかりで、DWVメンバーが一堂に会すると、敗残兵かバタヤの集合みたいなスタイルでした。現 在私が使っている寝袋カバーは、朝鮮戦争でアメリカ兵が使用したお古です。当時のテントや麻のザイルはかなりの重量で、冬山山行ともなればピッケル、食 糧、個人や団体装備で部員諸君は42~43キロは背負っていたはずです。

私が参加した’60年という年は、安保反対運動のあった年で、この年の夏山からDWV として歩き始めました。8月には山谷で3千人の暴動事件があったり、流行歌では『誰よりも君を愛す』『アカシヤの雨が止むとき』が流行して、冬山のテント では、この歌をよく聴かされたものでした。’61年はソ連宇宙船の地球1周、その翌年はキューバ危機、’64年には、中国が原子爆弾の実験に成功、その汚 染された灰が、ソ連のそれと一緒に、日本の空をおおい、その灰をふくんだ雪を、私たちは冬山(南アルプス・千丈や八ヶ岳)でとかして飲んだりしました。

ある山行のとき、某部員が、こんなことを言ったのを忘れません。山に入っているとき と、下山したときの先生の顔が違うと・・・。おそらく山行中の私の顔は鬼みたいにこわかったことでしょう。冬山が終わって帰路につく列車の中では、もうつ かれ果てて、口もききたくないほどでした。肉体よりも、心理的に疲れたものでした。

他校の遭難をききつつ、何度冬山はいやだったと思ったこか・・・。20余年の間に、遭 難に近いこと2回、夏山で錯乱した部員を押さえ抱えて途方にくれたこと1回、私とたった2人の部員とでの厳冬下での山行1回。交通事故で部員が死亡したこ と1回。転落3回(実は3回のうち、今だからいうが、部員1人が転落した際、その知らせをきいて、駆けつけるときに私自身が転落、自力ではいあがったこと が1回ある)。

私が山を歩くのは、戦争に負け、戦後民主主義の徹底化に負け、安保反対運動で挫折し、 挫折し続けてきた”負け犬”の自分が、山を歩きながら、おのれの存在をおのれ自身で確認できたこと、山はおのれのからだでおのれの意志で、生きざまをきざ むことができるからである。くどいようだが、ひとりも殺さないで山を登り、山から帰ってくる。そういったことを無事に繰り返させてもらったのは、自然の中 で、蟻ん子のようにへっつくばり、生き物のひとつとして、大自然に素直に従いながらそれに徹することができたからだと思う。石橋をながめ、石橋をさわり、 石橋を叩きつつ登山したことであろう。

20余年間よくぞ協力してくださった。この席とこの時間をいただいて、あらためてお礼を申し上げたい。

「諸君ありがとうございました」。

私も肉体の限界を感じはじめる年になりつつあります。来年の2月で還暦を迎えます。これからは、自分のからだにあった山行を続けていきたいと思います。

本日は皆さんに会えて、本当にうれしく思います。この会が単にDWVという連帯にとど まることなく、これからも各自が生き続けていく上で、人間として、山の仲間としての連帯とともに、支えあい、助け合う上でのDWVであってほしいと考えま す。この会の発展を心から望みます。

 

本稿は1985年10月の『獨協学園ワンダーフォーゲル部OB会(DWV・OB会)創 設の集い』席上における、高梨富士三郎先生の挨拶を構成再録したもので、獨協中学校・高等学校図書館発行(1991年5月20日)、高梨富士三郎著『リン デンバウム叢書6−「生者の繰り言」』も参照。なお、先生は1997(平成9)年8月14日に逝去(享年71歳)され、遺骨は2000年11月、相模灘沖 にてご家族並びにDWV・OB会員らの手により散骨された。22zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz 構成/長瀬 治(’68年卒)

獨協学園WV部OB会発足の経緯について 打矢之威

昨年(1985年)の6月ごろ、一部のOBより「独協学園ワンダーフォーゲル部も創設以来30年になり、また、OBの数も100名近くになったので、OBの親睦会を作ろうではないか」との声が出てきました。

それまでも、1956年(昭和31年)〜1960年(昭和35年)卒業のOBは山行を同じくしていたこともあり、当時の先生方を囲んで年1〜2回の親睦会を開催していましたし、若いOBもそれぞれの年代を中心に随時会っておりました。したがって、このようなOB会設立の声が、自然発生的に出てきたのもそれなりに理由があったことだと思います。

そこで各年代の有志が集まり、昨’85年の夏から秋にかけて準備を重ね、ようやく同年10月20日(日)東京霞ヶ関ビルの東京会館”天星苑”で独協学園WV部OB会設立準備会を開催することができました。当日はOB約30名、先生方も5名のご御出席をいただき、3時間を超す意義のある会合が盛会のうちに行われました。なお、その席において、下記の事柄が確認されました。


1.  独協学園ワンダーフォーゲル部OB会を設立すること。
2.  会則、名簿等を作成すること。
3.  総会、幹事会を開催すること。
4.  会長として打矢之威(昭和31年卒)、その他設立準備会委員のメンバー(若井永(昭和32年卒)、井上正己(昭和32年卒)、滝 正彦(昭和36年卒)、仮屋園重雄(昭和38年卒)、中川新之助(昭和31年卒)、中尾一誠(昭和39年卒)、中尾一成(39年卒)を幹事として選出。                 5.OB設立の準備会としてこれまでの会合の余剰金を引き当てること。


以上の経緯を経て、その後幹事会が中心となり、また、43年卒業の長瀬OBの全面的協力を得て、ひとまず会則案と仮名簿を作成しました。

これらはこれからOB会が発展するタタキ台として作成したものですので、まだまだ不備な点が多々あると思います。今後会員諸氏の御協力を得て、漸次、完備したものにしていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

1986年3月1日    獨協WV部OB会長   打矢之威

ワンゲル部創立とOB会の設立    常盤雪夫

そもそもワンダーフォーゲル活動とは何か、あるいは 創部のいきさつについては、HPの山行記録「創部から 実践まで」として、森本・打矢氏の文章が掲載されているので参照されたい。また,その後の部活動などの様子は、山行記録中に渡辺氏の「部活動報告」があ る。文中後半の北アルプス・夏合宿に向けての中で「・・・高二、一年が主体となり厳しく慎重に行われた。」とある高一年とは、まさに私達の年代の部員のこ とである。

現役生だった私達には知るよしもないが、この時期には、卒業した先輩の間では自然発生的にOB会としての基礎が作られたと聞いている。そして実際に、1958年の初夏にはOB・現役の合同山行が奥多摩・入川谷で行われた(HPのアルバム・1958年の山行)。

こ れ以後、夏や冬の合宿にはOB有志の参加を得て、合同で登山することが恒例となった。この伝統は、その後約20年もの長きに渡って続くことになる。また、 OB会独自の山行も行われたり、機関誌「ACDO」の発行もされ、さらにはキルティング製のパーカーも自主製作された。このパーカーの胸にはACDOのロ ゴが縫い込んであり、誇らしく着込んで町中を歩いたことが懐かしく思い出される。また、卒業した部員等の進学した獨協大学山岳部によるヒマラヤ遠征におい ては、ささやかながら協力活動もあった。

1960年以来ワンゲル部の顧問として部活動を指導された故高梨先生のご挨拶(HP・備忘録)に始まる、OB会発足のための設立総会が開かれた。1985年10月のことである。

この席で選出された若井、井上、滝、仮屋園、中川、中尾氏の準備委員や長瀬氏によって会則、名簿、名称:獨協学園ワンダーフォーゲル部OB会が提示され翌1986年6月の第1回総会開催時に議決され正式に現OB会が発足した。

征破ならず  高妻山 ワンダーフォーゲル部 阿由葉治男

高妻山山頂を目標に冬季合宿に入った常盤リーダー以下10名。この合宿には雪山に初めて入る部員が半数ほどいた。12月25日出発。すでに11月に先発隊を送って槍装備は若干一不動小屋に荷上げしておいた。

2日目、3日目に東京から担いできた荷を半分不動まで上げておいた。4日目残りを取りに八時出発十時二十分に牧場着、荷造り昼食を素早く終わり12時牧場出る。今日も雪が降っている。このルートで一番難しい滝場に到着。

この頃天気が変わり本格的吹雪になる。下りの時の足跡が消えてしまっている。ラッセル マンは胸までの雪をかき分け這うように一歩一歩進む。時々セカンドが「オーイ、ついてるか。」と声をかける。ラストが答えるが風に消されそうになる。また 声をかけながら進む。あたりは薄暗くなり寒さも一段と加わる。苦しい登攀が続く。ラッセルマン交代。奥貫先生がトップに立つ懐中電灯を振りながら進む。後 に声をかける。大丈夫ついている。最後の急斜面を一気に小屋に飛び込む。「おい着替えろ」怒鳴られ、夢中で着替え、火を囲み、やっと落ち着く。夏山の経験 とトレーニングを行ってきたおかげだ。明日の天気を祈りつつシュラフにもぐる。

29日、風強く停滞。協議の結果、高妻断念。地蔵でテントをためooo不明。

20日入山以来の初の快晴。ハウスキーパー2名おき出発。雪庇に注意し赤旗を立てなが ら頂上に来る。すばらしい純白の雪と蒼い空が目にしみる。富士、浅間、北ア、八ヶ岳、白馬等が手に取るように見える。佐藤以下4名が残り、私等は下る。翌 日、テント隊が降りてきた。一晩中風に吹かれたが調子は良いとのこと。来年の成功祈りつつ全員一不動より下山開始。阿由葉治男(1960卒)

1959(昭和34)年3月2日発行 - [ ] 獨協新聞 記事より転載

部活動報告     渡辺知也

ワンゲルが出来てから3年、内容もまとまってきたし、装備も大体揃ったと云える。だが 3年やそこらでは技術も足りないし、資料なども少ないのでまだ大した事は出来ない。それに西穂高の遭難の為か、計画も練習も学校側から限定されている。そ れは今の部が純粋のワンゲル(本場ドイツ)とは異なっている為かも知れないが、自分達は自分達の立てた計画は能う限り慎重にやっているつもりだ。創立され てから3年の間、まだ一度も事故を起していない。

昭和30年夏の合宿は北アルプス横尾谷で行われた。北村先生を顧問として太田先生、皆 川先生、金子助手などのベテランが参加、楽しい合宿であった。始めて見る北アルプスの山姿に誰もが感激した。槍ヶ岳や常念岳等、一週間休みなく行われ。 17人の部員がそれぞれ協力して飯を炊き、薪を拾い集めた。雪どけの水は氷りつくように冷たく、朝は初冬の様に寒かった。

その後は入笠山、 丹沢岳に行った。翌年の正月は部員以外も含めて石打にスキー。ついで 丹沢の主脈縦走。それから部長が変わり、二度目の合宿を青森の八甲田山で行った。北村先生、金子助手等が参加され、15人の部員がそれぞれ十貫以上の荷を 背負い、一週間も山の中を歩き続けた。十和田湖の水は青く、先年の合宿とは一寸異なった感じであった。その後、丹沢モミソ沢、セドの右俣、谷川岳の縦走 等、広範囲にわたる山行が行われた。

この頃から部はいくらか余裕を持ち山行の回数もぐっと増えてきた。だが、まだ装備の貧 弱さ等もあり、行く所などはかなり限られていた。乏しい予算からザイルを買い込んで、戸山カ原(元陸軍練兵所)で岩登りの基礎練習を始めた。かくて翌年の 3月には待望の八ヶ岳(二千六百米)縦走の計画を立て、慎重な準備会を何回か開いた。食料も綿密に計算され、やがて個人、共同合わせて十一貫あての荷物が 準備、荷造りされた。

雪は意外に深く非常な苦労をした。朝の気温は,零下十五度まで下がり、尾根の風は目も 開けられないほど強烈に冷たかった。自分達は赤茶けた頂にリンゴの皮を残して下山した。小屋についたその夜から山は吹雪となり、温度は増々下った。翌日強 引な下山が始まった。腰までうまる雪を交互にラッセルしながら失った道を感を頼りに下山して行った。非常に苦しい山行であつたが、収穫は大きかった。後に なってもこの山行のことが思い出されるのである。

それから後は、新人部員を丹沢や鷹取の岩場に連れて行き、そろそろ夏山合宿の準備を始めた。そして期末考 査前から準備会、トレーニングなど高二、一年が主体となり厳しく慎重に行われた。階段のカケ登り、ケン垂下降等。これらは必要のないように思われながら大 きな山行の前に、絶対やっておかなければならない。

コースは30年の時と同じ北アルプスの横尾谷。一人十一貫の荷は、新人にとっては負担 ではあったが、十二粁の道を休みなく、予定より早く着くことが出来た。この時新しく顧問になられた奥貫先生は非常な快調さを発揮され、部員を驚かせた。 槍ヶ岳、蝶ケ岳、北穂高と以前の合宿と同じコースをとり、終始快晴にめぐまれた。六日目の日、希望者のみを残して横尾谷で別れた。この時の合宿は一年部員 の自主性が非常に目立った。一寸した共同装備も進んで手伝ってくれる様な気持ちは、何時の時も必要である。それに練習の為か、体力もあり、何の不足も無い 合宿であったと云えよう。それから後は部としてはそれ程の山行はなく、ただ11月の3日、三ッ峠に出掛けただけである。

これからは少しでも部を充実して(少数でも構わない)今までの経験をもとにして進んで 行く積りである。山行の意義などもう考えない。その事は十分に判っているからである。ただ登ること、そして事故無しに日本中の山を登りつくすならばそれは 最大の名誉だと云える。慎重な計画と充実した体力はそう易々と自然の暴為に破壊されはしない。

最後に,もし誰でも山に登ったなら,必ず登山者として恥ずかしくないようにしていただきたい。残屑や空罐の散乱は山を侮辱するものだと云えるからだ。

渡辺氏は1959(昭和34)年卒業

本稿は学園文芸誌「めじろ」74号(1957年発行)から転載したものです。文中,北アルプス横尾谷での夏山合宿については,当HPのアルバム「1957年の山行」を参照下さい.

ワンダーフォーゲル   森本悌次 打矢之威

今年から独協にワンダーフォーゲル部が創立されましたがそれについて書いてみたいと思います。

戦後大学進学者が増加し、皆大学受験という大きな壁にさえぎられて、自由なのびのびとした高校生活を送ることが困難となりました。そのために、自然に親しむ機会が少なくなり、又学校での校友会運動部の活動も設備が整えられて居らず、満足に出来ません。このような中で山野をして自然に親しむを目的とした部が創立されたことは喜ばしいことだと思います。

 わが国のワンダーフォーゲル運動は古くから行われていたようですが、特に著しい発展を 遂げたのは戦後のことであります。現在その活動範囲は大体大学間に於いてのみに限られていて、まだ高校に於いては盛んであるとは云えません。外国に於いて も、この種の運動は戦後特に著しい発展を遂げているようです。また、この1、2年文部省が中心となって、渡り鳥運動の発展に力を入れ、指導者の養成に努め ています。

 それではワンダーフォーゲルとはどんなものでしょうか.これは知られるように日本語では渡り鳥と訳され,1897年にドイツで起された一種の国民的自然生活運動であってその価値として次のようなことが上げられています。

  1. 自己意識の覚醒、青年たるの意義の発見。
  2. 自然愛好、純真自由の全き人格養成。
  3. 健康増進、剛健思想と実行力の養成。
  4. 人間性と社会心の培養。
  5. 郷土愛、祖国愛の強化。
  6. 自然生活からの簡素な生活革新。
  7. 健全な民衆娯楽(郷土の民謡、俚謡、踊り等)の向上発展等に寄与する。

これらのことは校長先生が日頃私達に話されて居る「正直、勤勉、清潔、規則正しくすること。」という四つのことを実行することに他ならないと思います。だから私達ワンダーフォーゲル部員はその価値をよく認識して、これらのことが完全になされているように努力しなれればなりません。又、これらのことを完全になすことが私達が立派な社会人となることだと思います。

渡り鳥運動は徒歩旅行等をなし、旅館、テント等に宿泊して、自分達で炊いた飯を食べて、自分達の秩序の内に、生活するのでありますが、その生活をよき方へ指導する人が必要であります。その指導者の優劣がこれらの目的を完全に達成するが否かを決定します。学校生捨では教師がその指導者の任にあたるのが普通でありましょう。

独協では特に講師の先生方が多くて普段私達は先生方と親しむ機会がほとんどありません。そのような状態であるから、担任の先生さえ受け持ちの生徒の顔を知らないことなぞ珍しくはありません。だから、先生方と生徒たちとが一緒になって旅行するなり、テント生活するなりして親しみ、先生の人格をくみ取り人間を磨いて始めて学校が学問を授けるだけでなく人格を作り上げるところだと云うことができるのです。その点で私達は先生方全員がワンダーフォーゲル部の顧問となられるのが当然だと思います。
さて私達ワンダーフォーゲル部の指導者を紹介しますと、数学科の主任で本校は旅行係のような役をされている北村先生が顧問となって居られ、更に独協の他部に見られずワンダーフォーゲル部特有の参与は普段生徒諸君が山やスキーの話を聞かされている太田先生と、昨年暮れの西穂高遭難の時、北村先生等と共に現場に行かれて協力された山のベテラン東大OBの皆川先生(日本史担当)であります。

又、これと別に早稲田大学ワンダーフォーゲル部部長で高三の英語を担当されている同大学教授の渡辺先生が側面から援助を下さっています。このような優秀な先生方の下に部員は40名を越え、皆クラスの優秀な諸君です。

次に4月以降のワンデリングに就いて簡単に報告してみたいと思います。

5月29日

ワンダーフォーゲルの活動の実態観察するために、渡辺先生の御好意により早稲田大学ワンダーフォーゲル部新人歓迎会にオブザーバーとして参加した。

場所は中央沿線の入笠山で東京より汽車で5時間のところである。参加者は北村、大田両先生と高3生の2名合わせて5名であった。当日は雨に降られて、山に上れず、そこより汽車で少し行った諏訪で会が開かれた。

この時の詳しい模様は先日打矢君が独協新聞に寄稿したので省略する。

6月10日 (小仏峠→陣馬山)
第一回のワンダルングは小仏峠より景信山を経て陣馬山への尾根歩きであった。参加者は中学高校合わせて23名で引率の先生として大田先生が一緒に行かれた。当日は前日からの雨が朝の内にまだ残っていて、連絡の不十分と、不用意のために33名の参加予定人員が前記のような数に減ってしまった。その結果団体券の払い戻し等で時間を取り。6時半出発が遅れて8時15分新宿発となった。心配された空も私達が浅川に到着する頃は、晴れ間が見え始めていた。
浅川着9時20分、9時30分より出発する。甲州街道に沿って歩き、中央線ガードを通り抜けて右に入り、線路に沿って行く。中央線小仏峠トンネルの入り口で小休止し、小仏峠頂上に11時に着く。ここで15分の休憩の後、景信山方面に向かう。景信山へは約30分の尾根道で上がり下りもなく頂上に12時着。始めの計画より相当遅れていた。ここで昼食を取り、食後ワンゲルの歌等を合唱し又皆が得意の歌を聞かせた後、約1時間の休憩で陣場山方面に向かう。陣場山への道も同様に尾根で、道幅も広く迷うようなことはない。明王峠の茶屋を過ぎ陣馬山へは凡そ2時間の急ピッチで、時間の都合で途中少し休んだだけで行く。この陣馬山へは八王子方面より麓までバスが通っている。私たちは相模湖側へ下りることにして、与瀬へ出るつもりであったが茶屋の話では与瀬まではかなりあり、時間が掛る様子なので藤野駅へ向かうことに決めた。陣場山頂上で約20分休んだ後下り始める。最初の件は少し膝が痛くなるような件であった。この山より相模湖後半が悪くだったところが落合部落でこの部落より駅までかなりな道ほどであった。陣馬山より藤野駅までの所要時間1時間半で、駅着は4時20分。ここで約20分待った後4時40分発の列車に乗り新宿着は5時50分頃。6時新宿駅解散。当日は雨は降らず快晴となり、第一回のワンダルングとしては申し分のない日であったが時間の都合で相当に早く歩いたので中学生の中には少し参ったものも居たようだった。

新宿  浅川  小仏峠  景信山  陣馬山  藤野  新宿

7月18日→7月24日(上高地横尾)

他の部と異ってワンダーフォーゲル部は学期中に活動を十分にすることはできない。だから私達にとって最も活動する時期は夏で,ワンゲルとしていかにこの夏を有意義に活用するかはワンダーフォーゲル部の価値を一般に認識させるかぎである。
私達は先生方といろいろ相談の結果第一年目の夏期合宿を上高地横尾にて行うことに決めた。
横尾は上高地より梓川に沿って3時間位奥に入ったところにあり、槍ヶ岳から流れ出た梓川と穂高岳から流出している槍沢との合流点で、上高地のような都会的な気分は全くなく又近くに横尾山荘がありキャンプ地としては申し分ないところである。
ここから槍ヶ岳へは5時間で行かれ、梓川に沿って行くと、その水源である槍沢の雪渓に出、そこまで行くと槍の穂先が天空にそびえている。前の横尾谷をさか上がると穂高連峰の一端が見え、後ろには槍ヶ岳がひかえている。ここから徳沢に下がって、そこから上がると徳本峠より続いている大滝山に行くことが出来る。又梓川を槍ヶ岳方面へ上がっていくと右より一俣沢が流れこんでいる。この沢は常念岳大天井岳との鞍部に源を発していてこれを上がると常念小屋を経て常念岳へ行かれる.常念岳は徳本峠,大滝山、蝶が岳と連なり、これから尾根伝いに大天井岳を経て槍ヶ岳へ行くことが出来る。この頂上に立つと槍沢より流れ出る梓川が眼下に低く流れ、反対側を見ると松本平が広がっていてその中を大きな川が貫いている。
槍ヶ岳は梓川の水源でその雪渓は夏も融けることなく、白く横たわって居り、その下より流れ出る水の冷さと旨さは他に比べ得るものはない.槍ヶ岳頂上よりの眺望は又素晴しく、前には穂高岳の連峰があり、その後に乗鞍岳、木曾御岳がその雄姿を見せている。
目を左に転ずると八ヶ岳と富士山が見える。又後の日本海側には剣岳、白馬岳が遠くにある。全ての山がその望下に入り、まさに壮観である。
穂高岳への方へは私達は天候の都合で行くことができず、残念であったが、穂高連峰が全て見える。奥又池へ行き、その壮大さを真のあたりに見ることができた。
テントは横尾山荘の近くに張った。テントは全部で5張で、内2張は部で購入し、後の2張は早大ワンダーフォーゲル部より借用した。他の1張は部員の私有を携行した。各々のテントには6乃至7人宛分散し、食事は毎度交代で炊飯当番を受持った。当番は朝4時に起きねばならず、又木がぬれているとなかなか燃えつかず、大変な苦労をしたが帰る頃になると飯の炊き方も上手になって来た。この様子は写真に取ってあるので独協祭に出品されると思う。
ここで食料について書こう。
食料は全て東京から持っていった。但しジャガイモは途中茅野で調達した。種類を掲げてみると、主食の米が各自1升。
副食物用の野菜はジャガイモ8貫,キャベツ1貫,キュウリ,ナス、ニンジン、インゲン若干、他に福神漬、アサリツクダニ、梅干、フリカケ等である。このほか食後にミルクとレモンジュースがあった。
これらを煮るものは大きくなければならず、大きなナベ4箇とヤカン2箇を携行した。
以上のものは朝夕の2回に利用され、朝は味噌汁、夕方はカレーとシチューが交互という献立であった。昼食は出掛けるので米飯は使えず、カンパン、マーガリン、ジャム等を利用した。

次に日程を上げると、

18日 新宿(15時30分)発→(23時00分)松本着、(同夜松本にて仮泊)

20日 松本発(4:50)電車→島々着(5:15)島々発(6:10)バス→上高地着(9:00)上高地発(9:10)徒歩→横尾着(2:00)(テント泊)

21日 A班 テント発(6:45)→一俣小屋(7:35)→常念小屋(13:15)→常念岳頂上(14:30)→槍ヶ岳(16:55)→テント着(18:25)

B斑テント発(6:45)→槍沢小屋(8:20)→坊主岩小屋(11:35)→昼食1時間→槍ヶ岳頂上着(14:00)槍ヶ岳頂上発(15:00)→槍沢小屋→一俣小屋→テント着(18:30)(テント泊)

22日 テント発(8:20)→奥又白池着(13:00)奥又白池発(15:00)→テント着(16:30)

23日 雨のために1日中テントに入りこむ。

24日 横尾発(7:00)徒歩→徳沢徒歩→明神池→上高地着(9:30)上高地発(10:00)バス→島々着(12:30)(昼食)島々発(13:50)電車→松本着(14:35)松本発(15:30)準急列車→新宿(8:30)新宿駅解散9時

 

8月22日(入笠山)

(昨日森本部長より話があり 第2回入笠山ワンでリングにリーダーで参加することになった。今度は横尾の時よりも全体に小規模でそれに部員は皆優秀な者達だから楽しい山生活が出来るだろう。)

朝6時30分の長野行に乗る。夜来の雨のためか、以前程混んでいないようだ。装備点検をする牧田がスコップを忘れたのは怠慢だ。千野がピッケルを持っているからそれで代用しよう。11時55分青柳着。田舎びた親しみの持てる小駅である。入笠山は駅前からもその前衛が望まれる可愛らしいなだらかな山である。初夏には全山スズランでおおわれて、その景観は目を奪うばかりだと案内書に謳っているのを思い出した。早めに着こうとすぐに出発する(12時15分青柳発)。
2年の若井に先頭に立ってもらう僕は殿りをする。皆少し眠そうだ。昨夜心が踊ってねむれなかったのだろう。静かな部落を抜けると少し傾斜がついて来た。暑い。皆あえぎ出したので歌を歌って元気をつける。列が乱れて来た。小憩しよう(1時)。目前の八ヶ岳が壮大ですばらしい眺めだ。疲れも吹飛ぶようだ。諏訪湖が霞んでいる。
(1時15分)出発。皆頑張って行こう。道は迷うすべもない明らかなものだ。あと2時間ぐらいだろう。中学生もよく歩いている。(3時20分)御所平に着く。スズラン小屋の管理人の所に行く。独協を知っているそうだ。小屋の近所が何かと便利だからねここらにテントを張れとすすめてくれる。その言葉に甘えるとしよう。今はシーズンオフだから山も静かですと云った。親切そうな人だ。(4時)テント設置終り、第一、第二と分けて、各人割当てる。食事当番は2人交代にする。燃料も集めたし、腹もぺこぺこだ。今夜はカレーライスだ。如何な珍味なものが出来るだろう。食後キャンプファイヤーをする。熱いミルクが旨い。千野が小屋の人を迎えに行った。皆でワンダーフォーゲルの歌を合唱。美しい夜空に響いて神秘的だ。明日はきっと晴れるだろう。
「23日」朝5時、人声がしている。食事当番だ。山の朝は寒い。ヤッケを着ても震えがとまらない。はたして上天気だ。さあ起きようか。食事が出来る間みんなで散歩に行く。茅戸が終わりお花畑の端に行くと、山が切れて初めて展望が得られる。素晴しい景色だ。槍がみえるぞ。あれがキレット、穂高だ。乗鞍も雲海より聳え立っている。朝日がアルプスをバラ色に染めている。山の朝はいいなあ、身も心も洗われるようだ。食事当番にも知らせてやろう。僕等だけで独占するのにはもったいない。
(7時20分ベース出発)一列に並んで行く。頂上まで30分ですと小屋の人が教えてくれた。今日はのんびりとできるぞ。少し行くと牧場がある。それを横に見ながら一気に登ると頂上だ(8時10分)。昼までにもどればよいのだから10時まで休憩。360度の眺望だが、長野、飛騨方面はガス出て来て視界が得られない。「南アルプスですね。高いなあ」「するとあれは甲斐駒だね」「その隣のすごいのはなんだろう。残雪が見えているよ」。皆、自然の偉大さ、壮大さに息をのんで見守る。僕は少し昼寝をしよう。景色は満喫したのだから、帰りは牧場によることにする。山に囲まれた小さなそれは、何処か、高津牧場に似通っている。牛がのんびりと草を食べている。のどかな風景だ。11時牧場発。もうテントがみえて来た。食後、夕方まで自由行動。目前の小入笠に、お菓子と本を持って登る。頂上で尾根を登って来た若井と植村に会う。裏から千野や千正、後から井上も来た。皆草の上にねころんで話に花を咲かせる。真下に我々のテントが小さくみえる。植村と将棋を始めたが助太刀多く、無念にも敗退。お菓子も平げたし藪こぎをして下ることにする。
カレー粉が残っていたので今晩もカレーライス、皆炊飯もうまくなり「ガンチャ」にもお目にかかれない。飯が旨くないと山生活の醍醐味も半減する。夕霧があたりをおおい始めた。釜無山、小入笠囲りの山が影絵のようにかすんでいる。6時半食事後キャンプファイヤーのまき集め。今日は盛大にするので、太い枯木を集める。火勢で夜霧がぬぐわれたようだ。今夜も星が美しい宝石をちりばめたようだ。上気した赤い顔が火を取りまいている。若井の歌がしんみりとしていいな。今度は僕の番だ。「おお牧場はみどり」を歌う。ああもう9時だ。明日の下山の予定を説明する。朝の食事当番はつらいぞ。9時20分就寝。

入笠山ワンダリング内容 23日→24日

青柳→御所平→入笠山→富士見 参加人員8人

以上のように活動して来たワンダーフォーゲル部も、種々の条件によってその活動期間が春夏秋に限られて、冬の活動は特別の場合を除いては活動が制限されています。第一年目の私達の活動期間も過ぎたので、反省すべきことや気付いた点を書いてみたいと思います。

第一には連絡の不十分のための不参加者についてであります。前にも述べたように、私達のワンダルングは日曜日を利用するために早朝から出発しなければならず、雨が降ったときには連絡がとれず、不参加者が多く出ます。その結果、団体券の利用が不能となり、不参加者が行けないだけでなく、他の人にも多くの迷惑をかけるようになります。この問題は経験を積むことによって解消すると思いますが、よく考える必要があると思います。

第二は行く場所についてであります。
先日上高地に行く前に,ある機会に岩原先生からドイツで経験されたワンダーフォーゲルについてのお話などをうかがった時、先生は行く場所の選択にもっと考えるように云われたことは私達にとっても考える余地があります。
日本は山国であり、広い高原等を何日も歩いて旅する場所がないために、一般に日本のワンダーフォーゲル活動は山が対象になり勝ちであります。それ故に日本の大学高校のワンダーフォーゲル部はあたかも山岳部のように思われています。これは明らかに間違いで、山岳部とワンダーフォーゲル部とは本質的に異っています。このことをよく考えてみると私達にも、幾分この違いを誤って解釈したことを否定することは出来ません。ここによく反省することが必要だと思います。

日本は山国であり、広い高原など何日も歩いて旅する場所がないために、一般に日本のワンダーフォーゲル活動は山が対象となり勝ちであります。それ故に日本の大学高校のワンダーフォーゲル部はあたかも山岳部のように思われています。これは明らかに間違いで、山岳部とワンダーフォーゲル部とは本質的に異なっています。このことをよく考えてみると私達にも、幾分この違いを誤って解釈したことを否定することは出来ません。ここによく反省することが必要だと思います。

日本は確かに山国で平野とか高原とかが余りないが、四方を海に囲れていて、多くの景勝の地があり、これは決して山に劣ることはありません。しかし海岸は余りによく開けているので、テント生活をおくるのに適当な地がなく、又外国のように学生団体を安く泊める旅館がまだ普及されて居りません。しかし海にも又山とは違った魅力があるはずで、私達に簡単に出来る場所をよく研究して探す役目があると思います。
第三に部外よりの参加者です。私達は創立した時に、部外よりの参加者を募ることを予定したけれども、現在までにこれを実現することはできなかった理由はいろいろありますが、何といっても多くの人々を統率するのが困難なことです。今後は部外よりの参加を期待して、大いに歓迎する積りです。(高三)

森本悌次(昭和31年卒) 打矢之威(昭和31年卒)
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本稿は,学園文芸誌「めじろ」72号(1955年発行)に発表されたものを転載したものです。