部活動報告     渡辺知也

ワンゲルが出来てから3年、内容もまとまってきたし、装備も大体揃ったと云える。だが 3年やそこらでは技術も足りないし、資料なども少ないのでまだ大した事は出来ない。それに西穂高の遭難の為か、計画も練習も学校側から限定されている。そ れは今の部が純粋のワンゲル(本場ドイツ)とは異なっている為かも知れないが、自分達は自分達の立てた計画は能う限り慎重にやっているつもりだ。創立され てから3年の間、まだ一度も事故を起していない。

昭和30年夏の合宿は北アルプス横尾谷で行われた。北村先生を顧問として太田先生、皆 川先生、金子助手などのベテランが参加、楽しい合宿であった。始めて見る北アルプスの山姿に誰もが感激した。槍ヶ岳や常念岳等、一週間休みなく行われ。 17人の部員がそれぞれ協力して飯を炊き、薪を拾い集めた。雪どけの水は氷りつくように冷たく、朝は初冬の様に寒かった。

その後は入笠山、 丹沢岳に行った。翌年の正月は部員以外も含めて石打にスキー。ついで 丹沢の主脈縦走。それから部長が変わり、二度目の合宿を青森の八甲田山で行った。北村先生、金子助手等が参加され、15人の部員がそれぞれ十貫以上の荷を 背負い、一週間も山の中を歩き続けた。十和田湖の水は青く、先年の合宿とは一寸異なった感じであった。その後、丹沢モミソ沢、セドの右俣、谷川岳の縦走 等、広範囲にわたる山行が行われた。

この頃から部はいくらか余裕を持ち山行の回数もぐっと増えてきた。だが、まだ装備の貧 弱さ等もあり、行く所などはかなり限られていた。乏しい予算からザイルを買い込んで、戸山カ原(元陸軍練兵所)で岩登りの基礎練習を始めた。かくて翌年の 3月には待望の八ヶ岳(二千六百米)縦走の計画を立て、慎重な準備会を何回か開いた。食料も綿密に計算され、やがて個人、共同合わせて十一貫あての荷物が 準備、荷造りされた。

雪は意外に深く非常な苦労をした。朝の気温は,零下十五度まで下がり、尾根の風は目も 開けられないほど強烈に冷たかった。自分達は赤茶けた頂にリンゴの皮を残して下山した。小屋についたその夜から山は吹雪となり、温度は増々下った。翌日強 引な下山が始まった。腰までうまる雪を交互にラッセルしながら失った道を感を頼りに下山して行った。非常に苦しい山行であつたが、収穫は大きかった。後に なってもこの山行のことが思い出されるのである。

それから後は、新人部員を丹沢や鷹取の岩場に連れて行き、そろそろ夏山合宿の準備を始めた。そして期末考 査前から準備会、トレーニングなど高二、一年が主体となり厳しく慎重に行われた。階段のカケ登り、ケン垂下降等。これらは必要のないように思われながら大 きな山行の前に、絶対やっておかなければならない。

コースは30年の時と同じ北アルプスの横尾谷。一人十一貫の荷は、新人にとっては負担 ではあったが、十二粁の道を休みなく、予定より早く着くことが出来た。この時新しく顧問になられた奥貫先生は非常な快調さを発揮され、部員を驚かせた。 槍ヶ岳、蝶ケ岳、北穂高と以前の合宿と同じコースをとり、終始快晴にめぐまれた。六日目の日、希望者のみを残して横尾谷で別れた。この時の合宿は一年部員 の自主性が非常に目立った。一寸した共同装備も進んで手伝ってくれる様な気持ちは、何時の時も必要である。それに練習の為か、体力もあり、何の不足も無い 合宿であったと云えよう。それから後は部としてはそれ程の山行はなく、ただ11月の3日、三ッ峠に出掛けただけである。

これからは少しでも部を充実して(少数でも構わない)今までの経験をもとにして進んで 行く積りである。山行の意義などもう考えない。その事は十分に判っているからである。ただ登ること、そして事故無しに日本中の山を登りつくすならばそれは 最大の名誉だと云える。慎重な計画と充実した体力はそう易々と自然の暴為に破壊されはしない。

最後に,もし誰でも山に登ったなら,必ず登山者として恥ずかしくないようにしていただきたい。残屑や空罐の散乱は山を侮辱するものだと云えるからだ。

渡辺氏は1959(昭和34)年卒業

本稿は学園文芸誌「めじろ」74号(1957年発行)から転載したものです。文中,北アルプス横尾谷での夏山合宿については,当HPのアルバム「1957年の山行」を参照下さい.

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