打矢 之威のヒマラヤトレッキング Vol.2

タムジュンへの途上

エベレスト街道トレッキングとネパール大地震見聞記

昨年4月上旬アンナプルナ方面でトレッキングを楽しんだ直後ネパール東部は大地震に見舞われ、我々老トレカーは悪運強くも直前に帰国帰国しており、幸運を天に感謝した次第です。

しかし一緒に旅した現地のボッカ達は大なり小なり被害を受け、何らかの支援を期待したようです。そこで参加者に募り多少の現金を送金しましたが、やはり自分の目で直接現地の実情を確かめたいとの衝動に駆られていました。

9月アラスカマッキンレー地域のトレックに行ったときの無理が原因か、10月上旬から全身に発疹が出て、近所の皮膚科の医者から”帯状疱疹”と診断されました。11月のネパール行きは無理だと忠告されましたが、生まれつき能天気な私はネパール行きの衝動を抑えきれず、11月5日羽田発の深夜便に乗る大学時代のOB OG仲間に合流しました。

私はトーメン時代、中東駐在員としてベイルートに4年間勤務しましたが、所轄地域の一つであるシリアにはよく出張、人の好いアラブ人やアルメニア人たちと交流していましたので、シリアは心の故郷の一つでした。しかし、昨今のアラブ社会世界の混乱ぶりには心を痛めており、特にシリアの内戦で避難民になっている都市住民や部落民はいかに過ごしているだろうか、当時の代理店のハキム一家は無事だろうかと心配していました。いずれ機会を見て、ベイルートやダマスカスの難民部落に何か持っていこうと息子や家内や姉嫁たちの古着、日常雑貨品などトランク二つに詰めて、いつでも出発できる状態にしていたのです。しかしISなどが跋扈している状態では今行くのは無謀だろうと中止することにしました。それで、これらの救援物資はネパールの難民に渡せば良いと考えた次第です。

昔、レバノンとシリアはフランスの統治下であり、レバントと言われ、ベイルートやダマスカスはヨーロッパ的雰囲気で、上流階級の美男美女は流暢なフランス語を話し、快適な気候と美味しい料理が堪能できる華やかな国際社会の一面がありました。それがイスラム原理主義への回帰傾向が強まり、中世的戒律社会に戻ったようになってしまいました。そして宗教的内紛(スンニとシーア)やアメリカ、ロシアに代表される大国の思惑に翻弄される泥沼内戦に発展し、一般国民の生活はめっちゃになっています。しかし混乱が少しでも収まれば機会を見て中近東には行こうと思っています。

さて、今回のネパール行きは11月5日から18日までの2週間、そのうちエベレスト街道トレックは10日間、後はカトマンズの被災地視察やネパール人の友人宅訪問等で過ごしました。持参したトランク2個と登山道具の入ったキスリングは同行の後輩女性に分散して預け、無事チェックイン。航空貨物もエクストラ料金がかからず、後はカトマンズ空港で受け取るだけとすんなりとネパールに持ち込めました。

救援物資は出迎えのシェルパのパダム親分と旅行社を経営しているラジブ社長に早速手渡し、彼らから山岳部の被災地に直接手渡すよう繰り返し依頼しました。

ネパールは山岳部の道路などインフラが整っておらず、また人道も崩れたり橋が落ちたりと、スムーズな物流も期待できません。それに横領、横流しなども頻発しているので、直接渡すのが最も目的に理にかなっています。幸いポッカ達はは60Kgから70Kgの荷物は平気で稼ぎますので、私のトランクなど軽いものです。

タメル地区のホテルに投宿後、ラジブ氏の案内で中心部にあるダルパール広場の世界遺産建築物(寺院、旧王宮、図書館など)を見に行きましたが、至るところ瓦礫の山で、傾いた寺院は木材でつっかい棒で応急処置を施しているなど生々しい状況でした。貧しい国なので元々復旧予算も潤沢になく、国際的支援金もとりあえず被災民の日用物資調達に使われ、復旧どころではないのが実情のようです。さらに王政転覆からの後遺障害で、政府の体制も整っておらず政治行政が試行錯誤。そこにネパール共産党毛沢東派が台頭し、まさに混迷度が増している様子です。

私の短い滞在中にもタクシーのストライキ、ガソリン、燃料の不足など、至る所でバイクや車が動けなくなっており、それにインドからのガソリン供給がストップして民間の航空機燃料まで調達できず、ルクラに飛ぶコミューターも間引き飛行になる始末でした。

さて懸案の救援物資問題が片付き、地震の被害も見たので肩の荷を下ろした心境になり、後はエベレストを見るだけと勇躍カトマンズ空港からルクラ(エベレスト街道の出発地)まで小型機で飛びました。

ルクラは山岳部の谷間の上部に無理して作った極小空港で、岸壁に向かって上向きに傾斜した滑走路があり、駐機場は4機で満杯。着陸すると待ち構えた乗客10数名を大急ぎで載せ、トンボ返りで飛び立ちます。まるで航空母艦を離発着する戦闘機の様相です。スリル満点で、気流が悪いとひやひやします。

初日はルクラからバクデンまでの行程2840mの高度から緩やかに谷沿いにバクデン(2610m)まで上がったり下がったりの歩きなので高度順応には都合が良いのですが、私の様子オカシイ。腹に力が入らずフラフラする。先行組についていけず100m歩いてはヒィヒィ、ハーハーと休まざるを得ない。そのうち大キジの気配頻繁になり、岩陰、崖っぷちにしゃがみ込むことになって、まさに大下痢状態になってしまいました。パダム親分は心配して行ったり来たり。

原因はルクラでとった昼食だろうと推定しました。喉が乾いていたので、ナムチャの中に大量にヤクの乳を入れたのが悪かったと後悔しましたが、後の祭り。それからは瀕死の思いでバクデンに着来ましたが、寒い上に暖房のない部屋の木製ベッドに寝袋を広げるのが精一杯。倒れ込むように横になりました。

忠実な従者?

翌朝も動けませんでしたが、一行は予定通り出発しました。私も後を追いましたが、途中のモンジョ(2835メートル)でダウン。一人、見知らぬ民宿に転がり込みました。途上、崩壊した民家など散見しましたが、ゆっくり見る余裕もなく、この寒空にどこでいかに過ごしているのかとやたらと想像するのみで、最悪の山登りでした。夕食は無論とれず、水分をとれば即座に出てしまいます。明日のナムチェバザール(3440メートル)約800メートルの垂直上りを考えると唖然としました。

3日目、やっとの思いでナムチェ(2835m)に到着し、一行に追いつ来ました。高度順応のためナムチェで2泊して私を待っていてくれたとのことでしたが、何とも私の状態が悪いのを見て、リーダーの森さんがこれ以上無理だろうとのご託宣、最終目的地のコンデベースキャンプ(4910メートル)までは雪あり、氷結した長い斜面のトラバースありで、ザイルも握れずアイゼンも満足に着けられない身体状態では遭難もか考えられるし、他の参加者にも迷惑をかけるとコンコンと説得されました。私もこれ以上年寄りの我儘は老害そのものと納得し、別行動をとることにしました。

翌日一行が出発した後、ゆっくり休養し、徐々にお粥程度のものがとれるようになると不思議なもので体にも力が出てくるや、よし行くぞと気力もわいてきました。

右はアマダブラム、中はローチェ、左はエベレスト

そこで何としてもエベレストに少しでも近寄って写真を撮ろうと、エベレストビューホテル方面に向けて出発しました。3880mのクムジュンに向いました。途中、チョルクンの丘にあるネパールの英雄テンジン・ノルゲ(ヒラリーと共にエベレストを初登頂したシェルパ)の黄金のスタチューやシェルパ文化博物館を見学。シェルパ(シェル=東、パ =人) でネパールの「東方の人」すなわち日本で言う東北人を意味しています。シェルパは我慢強く黙ってよく働くそして誠実な性格、日本の東北人によく似ています。

ポッカの”シャパン”と荷物 真ん中の黒いザックは打矢の荷物

途中で見たエベレスト(8850m)は圧巻でした。右にローチェ(8510m)を控え、前方にアマダブラム(6856m)の名峰を侍らせ、堂々たる姿でした。山登りを一生の趣味としてきた私としては大満足、至福のひとときを過ごしました。

後は戻るのみ。3日後、無事コンデに登った本隊とバクテンで合流、好天に恵まれゆっくりルクラまで下山しました。しかしルクラでは飛行機が来ず、来ても爆音のみ。悪天候で上空を旋回しては着陸せず、カトマンズに引っ返してしまいました。

48時間宿屋と空港を行ったり来たり、久しぶりに焦ってもなるようになるやとの心境になりました。ベイルート時代スーダンの田舎空港で1週間いつ来るか分からないBOAC(当時の英国海外航空)のコメット機を待った経験を思い出しました。砂漠の遥か彼方に一点の機影がみるみる大きくなり、土煙を上げて着陸した時、文明から使者が来たあの時の気持ちでした。

その後、私は無事機中の人となりました。

2015年11月  打矢  之威(S31年卒)

打矢 之威のヒマラヤトレッキング Vol.1

地震で崩壊したタダペニ部落

ヒマラヤトレッキングとネパール大地震

私は平成27年3月24日から3週間ほどブータンとネパールの山岳トレッキングを楽しみました。トーメン時代の大先輩の成田さん、同僚の藤原さん、朽津さんなどの経験談に触発され、77歳となったのを機会に72歳と73歳の後期高齢者予備軍だがタフな後輩2人とのチンタラ道中でした。後半VOG(ベリーオールドガールズ)が加わり、稲山会( 早稲田大学山の会)OBヒマラヤ山行になった次第です。

前半は国民総幸福の国ブータンにカトマンズから往復しましたが、ブータン紀行記は次の機会に譲るとして、今回大地震(2015年4月25日)が発生したネパールの地震前後の状態を思いつくままに書きます。

2週間ほど前にあの地震が発生していたら我々はヒマラヤ山中で雪崩、土砂崩れや岩石の落下、あるいは宿泊地での家屋の崩壊に巻き込まれていたかと、悪運強いVOB(ベリーオールドボーイズ)は信仰心の希薄な私も含めて神様、仏様サンキューと胸を胸をなで下ろしています。

地震直前のカトマンズ旧市街

とにかく世界遺産寺院が町中に点在し、古い町並みのカトマンズ、観光地のボカラのホテル、ヒマラヤ山岳博物館などなじみの建物、ダンプス、タダバニ、コレバニなど山岳地帯の民宿、サランコットの古いホテルなど如何なる被害を受けたのだろうか。それにも増して、友人のラジブ一家や今回案内してくれたボッカのパダム親分やポーターたちは無事かと心配で何日もメールを送った次第です。数日後、短い返事があり、全員無事。しかし、家屋は傾き、余震が頻発。怖くて外で野営しているとのことでした。水、食料、医薬品などが払拭。何とかしてくれとの逼迫した様子でした。若者たちは続々故郷に向けてカトマンズを脱出。交通手段がないので、歩いているとのことでした。田舎には少なくとも食物あり、屋根の下で寝られるだろうとの願望で行くのだということでした。

アンナプルナ(8,091m)

今回のトレックは中部ネパールのダウラギリガーキ地域の8000メートル級ダウラギリ、アンナプルナ諸峰、マチャプチュレ等を左右に見ながら、高度1500mから3100mの縦走と深い渓谷を遡行したり、満開の真紅やピンクのシャクナゲが群生する森林地帯の横断、雨あり、風雪あり、雹あり、晴天ありと変化に富んだ10日間でした。

山間部の村落は斜面にへばり付き、わずかな畑と家畜が散見され、貧しい生活が想像されました。子供たちは着たきり雀の極貧状態。あどけない顔を向け、汚い手を差し出し、何かをねだる。ついついポケットの飴玉や非常食の板チョコなど手渡しますと、”ナマステ”とつぶやきながら、うれしそうに下を向く仕草についほろりとしてしまいます。

家屋は素焼きレンガを積み、屋根はトタンを石で抑えたり、瓦代わりの板石を乗せただけ。これでは地震に対する耐震性は低いと思いました。屋内を垣間見ると、粗末な食器や寝具のみ。調度品に類する家財道具は見られず、50年前の日本の寒村状態と同じだと思いました。比較的大都市のカトマンズでも日中頻繁に停電、水も出なくなります。まして山間部の孤立した村落では電気、水道、車道などの基本的インフラが整備されておらず、薪、ランプ、徒歩とロバによる物流など、生活基盤がまだまだ未完成だと思いました。

アンナプル南峰を背景に3人のVOB

中でも困惑したのはトレック途上、10日間は汗だらけの体は濡らしたタオルで拭くだけ。泊まった民宿は基本的に粗末なベッドが置かれているだけでした。持参したシュラフに潜り、枕がわりにサブザックを使い、暖房もなくひたすら体を動かして暖を取る原始生活。「学生時代の合宿だね」と笑った次第です。最年長者の私には個室が使えると嬉しい話、ところが2畳位の小窓のついた監獄部屋。ベニヤで仕切った隣の大部屋からは大いびきの合唱。眠れずに懐中電灯片手に外に出ると、目の前に白雪に覆われた神の山マチャプチュレが眼前と聳えていました。7000メートル級の鋭峰で、圧倒的存在感がある山です。その形から愛称FISHTAILと呼ばれ、聖山として一般の登山は禁止とのことでした。

マチャプチチュレとトレッキング姿の打矢

宿泊は慣れてくると何も感じませんでしたが、往生したのはしゃがむ方式の便所です。ウォシュレット付洋式便所に慣れた身には、しゃがむ用足しは苦痛そのもの。ひっくり返ってしまうので、便所の壁にしゃがみ付く難行苦行。落とし紙はなく、バケツに貯めた水をヒシャクで流すだけ。こんな状態では女性の方が適応性があるのではないかと感心する始末。

そこで外で用足しと、夜中部屋を出てマチュピチュへの鋭峰を目前に、悠々と小雉打ちの風流な気持ちになりました。まるで北ア槍ヶ岳を夜中に遠望しながらの光景を思い出しました。

同行のボッカの若者 40Kgを背負う

トレック中の我々は老人扱いで、サブザックには個人装備と非常食のみ。先行するボッカは35Kgから40kgの大荷物を前頭部に引っ掛けた細身の帯を使い、器用に担いでスタスタ登って行きます。学生時代、南アの強化合宿で10日分ぐらいの団体装備と個人装備や食料を持たされ、先輩にしごかれヒーヒー泣いたキスリングの重さを思い出し、彼等山岳民族の強靭さは驚くばかりです。

今回の地震ではインフラの未整備な山岳部の集落の被害状況が気になるところですが、何しろヘリでないと近寄れない場所も多く、何が損壊し、何人死んだり行方不明になったのか、怪我人の状態は、と不明なことだらけ。日が経つにつれ事情が判明し、愕然となるのではないでしょうか。現在8000人近い犠牲者が確認されていますが、これは都市部の数字で、これから僻地の実態がわかると思います。素焼きレンガのもろい家屋、登山道であり生活道路でもある狭い山道は人間とロバがかろうじて通行できるだけで、ひとたび崩れたらこれからも通行不可になります。孤立した山村部を考えると、どうか生きていてくれると祈るばかりです。

偶然とは言え、ボッカ達の粗末な服装や靴などを見て、ボカラで別れる時、日本より持参したゴアテックスの防寒具、トレッキングシューズ、ユニクロのシャツ、靴下、非常食、懐中電灯、サブザックなど彼らに進呈しました。地震の被害に少しでも役立つかなと、せめてもの慰めになっています。

現地にすぐにでも戻りたい心境ですが、飛行場、ホテル、道路、電気、水などのインフラの被害などわからないままに闇雲に押し掛けて救援の気持ちを示してもかえって迷惑かもしれず、焦るばかり。東日本大震災に指摘する大震災ですが、国情は最悪で、日本のように素早く救援、復興に取り掛かれる国とは大違い、すべてが遅々として進まないと思います。その間にも満足に手当てされない怪我人の死亡も多くなるのでしょう。非衛生の環境の下での伝染病の蔓延、食糧不足による餓死、テントよこせ、医療器具や薬剤不足への不満など不安要素が山積している状態でしょう。

略奪、暴動、人身売買も横行するかもしれません。数年前ネパール毛沢東派の台頭で王政が崩壊、現在新憲法も制定されず国上が不安定です。ネパールを挟んでインドとの国境の綱引き、チベット(ダライラマの追放)など中国の覇権主義が影を落としています。この混乱に乗じて甘言を持って接近するのは中国共産党の常套手段。日本としては迅速に人道支援、インフラ整備に協力することが期待されています。もともと敬虔な仏教徒、ヒンズー教徒、ラマ教とが共存している温厚な民族で、日本に好感を持っているネパール人を救援して東日本大震災で国際的に日本を支えた友好国に恩返しなければバチが当たります。

私の提案は日本政府の迅速な救援の救助の実行と相俟って民間でもできる事はする。例えば生死の地獄絵を見たネパール人を日本にできるだけ多く受け入れる。特に我々満ち足りた物質生活をしているが精神的には孤独な老人たちはネパールの震災孤児を養子にする。そのため日本政府は国籍取得の条件を緩和する。少子高齢化した日本を元気にするには純血主義はダメです。究極には絶滅民族になります。アメリカは毎年50,000人の移民を全世界から受け入れているので元気で、世代継承もスムーズです。資産の有効利用にもなります。社会を活性化するには多血主義が有効です。ヒマラヤの山中でブータンと並んでネパールも友好国なる絶好のチャンスです。

ネパールの友人達と交信して特に感じたことを書きました。

2015年4月 打矢  之威(S31年卒)


注)ネパール大地震は現地時間2015年4月25日の午前11時56分、カトマンズの北西77kmで深さ15Kmを震源として発生しました。マグニチュード7.8という極めて大きな地震で、建物の倒壊、雪崩、土砂災害などにより甚大な被害が発生しました。ネパールでは8460人を超える死者を出し、ネパールの人口の約30%にあたる約800万人が被災したとされています。エベレストのベースキャンプでも雪崩が発生し、登山客18人の死者を出すなどしています。

メールマガジン1月号 / 2021

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2021/1/28

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DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン1月号/2021の配信です。

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【1】今年もどうぞよろしく

【2】年末年始の山岳遭難

【3】ウインパーの切れたロープの謎

【4】書評 河野  啓著「デス・ゾーン」

【5】冬季K2の登頂成功

【6】登山道でもQRコード?

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

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【1】今年もどうぞよろしく

残念ながら2021年もコロナ禍の中で新年を迎え、1月8日には再度2月7日までの緊急事態宣言が発出されてしまいました。

新型コロナウイルスのワクチン接種は医療関係者から始められて、一般には4月以降に高齢者からということのようです。これから日本経済はどうなっていくのか、東京オリンピック・パラリンピックはどうなるのかなど、見通しの立たない年明けになってしまいました。

とりあえず、自分や家族の健康に留意し、新型コロナに対応しながらも前向きに生活していきたいですね。今年もどうぞ、HPとメールマガジンをよろしくお願いします。

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【2】年末年始の山岳遭難

2020年末と2021年始の山岳遭難は前年に比べてだいぶ減少したようです。警察庁は21日、年末年始(昨年12月29日~今年1月3日)に全国で発生した山岳遭難は前年同期比14件減の23件、遭難者数は14人減の38人で、いずれも過去5年で最少で、死者が1人、行方不明者が1人、負傷者が9人だったと発表しました。

新型コロナや大雪の影響が大きかったのではないかということです。

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【3】ウインパーの切れたロープの謎

当時、「魔の山」と恐れられ、登るのも躊躇われていたヨーロッパアルブスで唯一未踏峰だったマッターホルン(4478m)が初登頂されたのは1865年7月のことでした。テントの形式にもその名を残しているエドワード・ウインパー(25歳)ら7人によるものでした。初登頂は同時に下山時に4人が滑落し、1400m下の氷河に墜落して死亡するという悲劇でもありました。

このマッターホルンの初登頂を記録したウインパー著の岩波文庫「アルプス登攀記」は高校生の頃に読み、挿絵なども印象に残っています。

「悲劇のロープはなぜ切れてしまったか。」

「ウインパーのアルプス登攀記に記されたことは事実なのか。」

関係者の子孫や地元ツェルマットの人たちは疑問に思っているようです。ウインパーの切れたロープの謎についてもう一度読み返しながら考えてみましたので、ご紹介したいと思います。

当時マッターホルンはイタリア側のツムット綾の方がスイス側のヘルンリ綾より傾斜が緩いので、挑戦者たちはイタリア側からの初登頂を目指していました。その一人であった英国人のウインパーはすでに何回も挑戦していましたが、なかなか攻略できないでいました。同じようにイタリ人のジャン・アントワーヌ・カレルもイタリア側から国の威信をかけて初登頂を狙っていました。

すでにカレル達はイタリア側から登頂を目指して出発していたので、遅れをとったウインパーはスイス側のヘルンリ綾の方が登りやすいかもしれないと、スイス側から初登頂を狙ってアタックすることになりました。

ウインパーのメンバーは18歳のスコットランド貴族のフランシス・ダグラス卿、英国人の牧師で37歳のチャールズ・ハドソン氏、その友人で19歳のダグラス・ロバート・ハドウ氏と、シャモニーの名ガイドで35歳のミッシェル・クロ、スイス・ツェルマットのガイドで45歳のペーター・タウクヴァルターシニアとその息子の22歳のペーター・タウクヴァルタージュニアの7人でした。

ヘルンリ綾からのアタックは経験の浅いハドウ氏をサポートしながらも順調に進み、登頂を目前にしてウインバーはロープを外して競うように頂上を目指したそうです。無事、7人全員は登頂を果たすことができました。ウインパーは眼下にカレルたちの姿を確認し、大声で叫んだものの聞こえなかったので、岩を落として分からせたということがアルプス登攀記に書かれています。カレルたちは初登頂出来ないことが分かり、途中で下山してしまいました。しかし、3日後にやはりイタリア側からの登頂を果たしているということです。

さて、一行はは歓喜に浸った後、下山の準備に取り掛かりますが、挿絵画家でもあるウインパーは頂上からの風景をスケッチに手間取っている間にハドソンと相談して決めたいた順番でクロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿、タウクヴァルターシニアはロープを結び準備を済ませていました。ウインパーが登頂者の名前を瓶に詰めて残すという作業をしている間に一行は下山を始めていました。後を追ってウインバーとジュニアはロープで結び合って下山を開始し、二手に別れて下山していきました。

途中でダグラス卿から、誰かが足を滑らせたらタウクヴァルター・シニアは持ち堪えられないだろうから、ウインパーたちとロープで繋いで欲しいという申し出があり、7人は全員がロープで結ばれることになりました。

しばらくして、登山経験が浅く、体力的にもかなり弱ってきていたセカンドのハドウが足を滑らせて先頭だったクロにぶつかって二人は滑落してしまいます。ロープにつながれている後を行く二人がそれに巻き込まれて墜落してしまいます。タウクヴァルター・シニアとウインパーは岩にへばりついてロープを受け止めましたが、ロープはタウクヴァルター・シニアの前でプツンと切れて、4人は1400m下の氷河に墜落してしまいました。

「アルプス登攀記」には、ガイドのタウクヴァルター親子は取り乱し、泣き叫んでしばらく何も出来ない状態だったと書かれています。事故後、生き残った3人は何とかツェルマットまでたどり着くことが出来ました。

3人の遺体は氷河の上で発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は見つかっていません。

事故後、何故ロープが切れて4人が滑落してしまったのか取り沙汰されることになります。

「アルプス登攀記」ではウインパーは切れたロープは、持って行った3本のロープのうち古くて一番弱いもので予備として持っていったロープであったということ、ロープはぴんと張りきったままで切れたもので切れる前に傷がついた形跡も見当たらなかったと書かれています。

ウインパーは自分やガイド二人に落ち度はなかったと言っていたようですが、ガイドのタウクヴァルター・シニアの前でロープが切れたことで、タウクヴァルター ・シニアが自分たちの命を守るために意図的にロープを切ったのではないかと嫌疑がかけられ、検証が行われることになります。

結果はロープは意図的に切られたものではないとされましたが、ツェルマットで一番のガイドのキャリアは吹っ飛んでしまい、親子の評判は回復することなく、親子はしばらくアメリカに逃れることになります。

英国に戻ったウインバーも同様に世間から非難を浴びることになり、その弁明もあって「アルプス登攀記」を出版することになります。アルプス登攀記はウインパー自身の描いた挿絵も効果があって、ベストセラーになったそうです。ウインパーは当初ガイドには責任はないと言っていたようですが、時間が経つと次第にロープを選択したのは自分ではなく、なぜガイドが細いロープを選択したのか分からないと言い始めたそうです。本の出版によって評判を回復したウインパーは、初登頂を争ったカレルとその後も一緒にいろいろな山を登っていたそうです。

タウクヴァルター親子は英語が分からなかったので、ウインパーの主張や「アルプス登攀記」に書かれている内容が分からず、反論することもなかったようです。しかし、英語が分かるようになったタウクヴァルター・ジュニアは事故後に泣いて取り乱したのは逆にウインパーの方だったと言っています。

「悲劇の切れたロープ」はツェルマットのマッターホルン博物館に展示されています。スイスの登山用品メーカーのマムートはマッターホルン初登頂140周年の際に、切れたロープの強度試験を行い、耐荷重は300kgであり、そのロープではやはり4人の体重を支えることは出来なかっただろうと検証しています。

ウインパーによれば、墜落してしまった遺体は2番強度の長いロープに繋がれていたということで、切れてしまったのは3番強度の短いロープ、途中でウインパーがタウクヴァルター・シニアと繋ぐことになったのは1番強度の短いロープ、ウインパーとタウクヴァルタージュニアを繋いでいたのも1番強度の短いロープとなりますので、切れたロープだけに負担が集中してしまったと考えられます。ではなぜ、強度の弱かったロープを使うことになったのでしょうか。

最初に滑落した若者の子孫は当時の記録を調べ、事故のずいぶん後にウィンパー自身が「登頂前にロープを切った気がする」と書かれた文章を見つけ、これを事実として地元などではウインパーは登頂を競った時にロープを外したのではなく、切ってしまったので、帰りに結ぶだけの長さが足りずガイドは仕方なく予備のロープを継ぎ足さざるを得なかったのではないかという説が有力になっているようです。

タウクヴァルター・シニアがなぜ自分とダグラス卿の間だけ予備のロープを使ったのか、あるいは使わざるを得なかったのか明らかにされていませんので、真実は闇の中にしまわれたままです。

ウインパーは体調を悪くした晩年、見納めにとアルプスを訪れます。ツェルマットの再訪は登頂(事故)から46年も経っていました。彼にとってマッターホルンは「栄光の岩壁」ではなかったのではないでしょうか。

その足でモンブランの麓のシャモニーも訪れますが、その宿で心臓麻痺で亡くなり、その地の墓地に埋葬されました。シャモニーの名ガイトのミッシェル・クロはツェルマットの墓地に葬られていますが、シャモニーにはミッシェル・クロと名付けられた通りがあります。

タウクヴァルター親子はツェルマットに戻り、タウクヴァルター家と子孫はその後もツェルマットのガイドとして活躍しているそうです。プロの山岳写真家に転向した白川議員はリッフェル湖から見たマッターホルンの朝焼けに彼岸を見て、6年間通い詰めてアルプスの写真集を発表します。マッターホルンに登頂して山頂からの写真も撮りますが、その時にガイドしてお世話になったのはタウクヴァルターの子孫だったということです。

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【4】書評    河野  啓著「デス・ゾーン」

栗城史多のエベレスト劇場

「冒険や夢の共有」をテーマに「単独無酸素7大陸最高峰登頂」を標榜し、登山をLIVE配信していた栗城史多氏は2018年に8度目のエベレスト初登頂を目指すも途中敗退を宣言し、下山中に滑落遭難死(35歳没)しました。

栗城氏は当初は「お笑い」を目指すも転身して大学に入学し、3年生の時に強い興味はなかったものの、他学の山岳部に所属します。在学中に地元北海道で1週間程度の冬季峠越えをする程度の経験だけで奇跡的にマッキンリーの登頂を果たします。その後スポンサーを見つけながら、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロと各大陸最高峰を踏破していきます。

卒業後、プロの登山家としてカルステンツ・ピラミッドを登頂し、「ニートのアルピニスト」「単独無酸素7大陸最高峰登頂」のキャッチコピーでマスメディアでも取り上げられれる中、チョ・オユー、ビンソンマシフなども登頂し、2007年にはエベレストのみが残されていました。

そして、2009年からは2018年まで8回に渡りLIVE配信によるエベレストと他の高所登頂に挑戦しています。しかし、実力が伴わない挑戦だったのでしょうか、登頂成功したのはダウラギリとブロード・ピークの2回だけで、彼の挑戦はどんどん破綻していき、終わりを迎えることになります。ちなみに後述するネパール人のプルジャ氏と栗城氏は同い年のようです。登山のあり方や言動には賛否が別れる登山家でもありました。

昨年、「デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」という河野  啓 著の本が出たので読んでみることにしました。

河野氏は栗城氏を早い段階で取材し、番組も作っていた北海道放送のディレクターで、この著作は「開高  健ノンフィクション賞」を受賞しています。

著者は「単独無酸素」というのは本当だったのか、登頂を果たせなかったのにより困難なルートに挑戦していったのはどうしてなのか、なぜ9本の手の指を失ってもエベレストに挑戦したのか、本当に滑落死は事故だったのかなど、彼にまつわる多くの疑問を投げかけています。周囲の人からの多くの取材を通して「栗城史多氏のエベレスへの挑戦」はマスメディアの人間や一般人を観客に、巧妙な演出でスポンサーや大衆を惹きつけた虚構のエベレスト劇場であったのではないか、そして、「夢や冒険の共有」は大衆の熱狂と鎮静を経て、儚く破綻へと突き進んでいったのではないかと投げかけているように思いました。

著作中の「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」という著者の質問に対して栗城氏は即座に「それならエベレストには行きません」と明言したということから、栗城氏の登山が何だったのか示しているようです。

ただ、著作は多くの取材から栗城氏の虚像を暴いているようですが、栗城氏の本質に迫るまでのノンフィクションにはなっていないのではないかと感じました。逆に著者が関係者であっただけに主観が強く、言い訳のような著者自身の思いを感じさせられました。栗城氏のインチキを暴き、死者に鞭打つだけに終わってしまったのでは真のノンフィクションとは言えないのではないでしょうか。

高所登山に生き甲斐を見つけ、LIVE配信という手段に活路を見出し、そして破綻していった一人の若者の心情や内面に迫り、このような若者が出現した社会的背景、「夢や冒険の共有」に群がる大衆の熱狂と鎮静、そしてマスメディアやネットの功罪のなど現代の社会性に迫っていって欲しかったと思いました。

共有(シェア)という上部だけの薄っぺらな繋がりは人の人生や生死すらを左右しかねません。ドラマでも見ているかのように大衆は、ポチッと押しただけでお金や冒険・夢を共有できる現代社会の光と闇。自分を客観視できず承認欲求だけが強くなっていく若者の問題。リアリティー番組と称して番組を作り、動物園の檻の中を覗くかのように他人の生活を覗き見させ、言いたい放題言わせて自殺に追い込んで行くようなマスメディアやネットの功罪など。

栗城氏の35年の生涯から何を学ばなければいけないのでしょうか。一読してみて下さい。

河野  啓著「デスゾーン」栗城史多のエベレスト劇場 集英社 2020年発行

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【5】冬季K2の初登頂なる

国の威信をかけたネパールの登山家チームが16日、世界第2位の高峰K2(8611メートル)の冬季登頂に初めて成功しました。

K2はカラコルム山脈にあり、登頂には高度の技術を要するとともに冬季はマイナス50度の気温と風速50mにもなる強風のために、困難かつ危険な「非常の山」と称され、標高8000メートル級の14峰の中で唯一冬季登頂が達成されていませんでした。

登頂に成功したのは数日前から登頂を目指す2つのチームが合同し、協力し合って成し遂げたものでした。

チームの一つはニルマル・プルジャ氏(37歳)が率いる6人です。プルジャ氏は2019年に8000m級14座を約半年で完全制覇していて、現在世界最高と評価されている登山家です。

もう一つのチームはミンマ・G・シェルパ氏(34歳)が率いる3人で、それにセブン・サミット・トレックス (SST) 社の公募隊チームに所属するソナ・シェルパ氏(25歳)が加わりました。

10人全員ネパール人で、プルジャ氏以外はシェルパ族出身でした。これまで多く登山隊のために荷役やサポートをしてきた地元の登山家や山岳民族出身の登山家がスポンサーやソーシャルメディア、クラウドファンディングなどで調達した資金と積み重ねてきた経験で高所登山を成功させました。

プルジャ氏は18歳で英国陸軍のグルカ兵になって6年間従軍し、その後厳しい試験をパスして英国海兵隊所属のエリート部隊である特殊舟艇部隊SBS(Special Boat Service)に所属しました。SBSは機密偵察・急襲を専門としており、SAS(特殊空挺部隊)と並んで英国最高レベルの精鋭部隊だそうです。グルカ兵はネパールの山岳民族から構成される極めて強靭とされる戦闘集団で、英国軍のスカウト部隊が現地を巡回して集めているそうです。フォークランド紛争時にはグルカ兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼンチン部隊もあったということです。

16年間従軍した後、軍を離れてプロの高所登山家となり、「8,000m峰14座を7カ月以内にすべて登頂して世界最速記録更新を目指す」という大胆なプロジェクトを打ち立てて高所登山に挑んていくことになります。

「グルカと特殊部隊メンバーは、決して如何なる人も置き去りにしない」とトライヤル中にデスゾーンで何回ものレスキューにも加わっています。

シェルパや酸素など使えるものは何でも使い、不遜な物言いもしているので批判もされていもいますが、軍出身だけにタフで実行力が全ての新しいタイプの登山家のようです。

プルシャ氏とその支援チームはエベレスト、ローツェ、マカルーの3座をたったの2日と30分で登頂しています。昨年エベレストでの渋滞写真が話題となりましたが、プルジャ氏もこの渋滞に巻き込まれて、7時間も身動きが取れなかったそうです。投稿され拡散されたエベレストの渋滞写真もプルジャ氏が撮ったものでした。

ちなみに、今回のK2ではプルシャ氏は無酸素で登頂を果たしています。この時、純粋主義登山(酸素や他の力を借りないで登る高所登山形式)のスペイン人登山家のセルジ・ミンゴテ(Sergi Mingote)氏はベースキャンプへの下山中に転落事故で死亡しています。

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【6】登山道でもQRコード?

キャッシュレスやURLなどの情報を初め、今やQR(二次元)コードは色々なところで使われていますが、登山道でもQRコードを利用する試みが始められています。

スマホの普及により、GPSとMAPを連動させたスマホ用のアプリを活用している登山者も多く、今やスマホは登山用具の必需品にもなってきています。

九州北部にある背振山(1055m)を中心とした背振山脈は地元を中心に親しまれているそうですが、西南学院大学ワンダーフォーゲル部のOBや現役、早良区役所は協同して脊振山系での道路標識設置の活動を進めているそうです。「脊振の自然を愛する会」を設立し、2019年には日本山岳遺産に認定され基金の補助金を活用してQRコードを取り入れたレスキューポイントの標識の設置活動をしているそうです。

標識にあるQRコードをスマートフォンで読み取れば現在地を確認できる仕組みになっていて、道迷い防止のほか、登山中の急病や負傷時など、消防隊への正確な通報や迅速な救助につなげられると期待しているそうです。スマホの操作に慣れてない人にも役立つように各標識にはナンバーを振り、通報時に居場所を知らせることができるということです。

これから、自然観察などの情報提供なども含めて山でもQRコードの入った標識を見かけるようになるのでしょうか。ちなみに、丹沢の大倉尾根でも塔ノ岳までを45のポイントで示し、警察の連絡先を記した道標が設置されています。

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【7】行ってきました Now

雲竜渓谷(2018年2月4日) 伊予ガ岳(2017年2月5日) 棒ノ折山(2016年2月7日)

妙義山(2019年2月7日) 奥久慈男体山(2018年2月8日)    戸倉三山(2020年2月9日)

雲龍渓谷(2019年2月12日)    鎌倉アルプス(2016年2月18日)

丹沢表尾根(2017年2月19日) 岩殿山(2019年2月21日)

官の倉山(2020年2月23日)    高尾山(2016年2月25日) 伊豆ヶ岳(2016年2月28日)

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【8】編集後記

今月はお店での仕事がお休みなのですが、緊急事態宣言が出されている事もあり、長いお家時間になっています。本を読んだり、大型テレビに買い替えての視聴などしていたらあっという間に1ヶ月経ってしまいました。

長いメールマガジンになってしまいましたが、不要不急の外出?は避けて、ボチボチ読んでいただければ幸いです。

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【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

ウインパーの切れたロープの謎

 
当時、「魔の山」と恐れられ、登るのも躊躇われていたヨーロッパアルブスで唯一未踏峰だったマッターホルン(4478m)が初登頂されたのは1865年7月のことでした。テントの形式にもその名を残しているエドワード・ウインパー(25歳)ら7人によるものでした。初登頂は同時に下山時に4人が滑落し、1400m下の氷河に墜落して死亡するという悲劇でもありました。
 
このマッターホルンの初登頂を記録したウインパー著の岩波文庫アルプス登攀記」は高校生の頃に読み、挿絵なども印象に残っています。
 
「悲劇のロープはなぜ切れてしまったか。」
「ウインパーのアルプス登攀記に記されたことは事実なのか。」
 
関係者の子孫や地元ツェルマットの人たちは疑問に思っているようです。ウインパーの切れたロープの謎についてもう一度読み返しながら考えてみましたので、ご紹介したいと思います。
 
当時マッターホルンはイタリア側のツムット稜の方がスイス側のヘルンリ稜より傾斜が緩いので、挑戦者たちはイタリア側からの初登頂を目指していました。その一人であった英国人のウインパーはすでに何回も挑戦していましたが、なかなか攻略できないでいました。同じようにイタリ人のジャン・アントワーヌ・カレルもイタリア側から国の威信をかけて初登頂を狙っていました。
 
すでにカレル達はイタリア側から登頂を目指して出発していたので、遅れをとったウインパーはスイス側のヘルンリ綾の方が登りやすいかもしれないと、スイス側から初登頂を狙ってアタックすることになりました。
 
ウインパーのメンバーは18歳のスコットランド貴族のフランシス・ダグラス卿、英国人の牧師で37歳のチャールズ・ハドソン氏、その友人で19歳のダグラス・ロバート・ハドウ氏と、シャモニーの名ガイドで35歳のミッシェル・クロ、スイス・ツェルマットのガイドで45歳のペーター・タウクヴァルターシニアとその息子の22歳のペーター・タウクヴァルタージュニアの7人でした。
 
ヘルンリ綾からのアタックは経験の浅いハドウ氏をサポートしながらも順調に進み、登頂を目前にしてウインバーはロープを外して競うように頂上を目指したそうです。無事、7人全員は登頂を果たすことができました。ウインパーは眼下にカレルたちの姿を確認し、大声で叫んだものの聞こえなかったので、岩を落として分からせたということがアルプス登攀記に書かれています。カレルたちは初登頂出来ないことが分かり、途中で下山してしまいました。しかし、3日後にやはりイタリア側からの登頂を果たしているということです。
 
さて、一行はは歓喜に浸った後、下山の準備に取り掛かりますが、挿絵画家でもあるウインパーは頂上からの風景をスケッチに手間取っている間にハドソンと相談して決めたいた順番でクロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿、タウクヴァルターシニアはロープを結び準備を済ませていました。ウインパーが登頂者の名前を瓶に詰めて残すという作業をしている間に一行は下山を始めていました。後を追ってウインバーとジュニアはロープで結び合って下山を開始し、二手に別れて下山していきました。
 
途中でダグラス卿から、誰かが足を滑らせたらタウクヴァルター・シニアは持ち堪えられないだろうから、ウインパーたちとロープで繋いで欲しいという申し出があり、7人は全員がロープで結ばれることになりました。
 
しばらくして、登山経験が浅く、体力的にもかなり弱ってきていたセカンドのハドウが足を滑らせて先頭だったクロにぶつかって二人は滑落してしまいます。ロープにつながれている後を行く二人がそれに巻き込まれて墜落してしまいます。タウクヴァルター・シニアとウインパーは岩にへばりついてロープを受け止めましたが、ロープはタウクヴァルター・シニアの前でプツンと切れて、4人は1400m下の氷河に墜落してしまいました。
 
「アルプス登攀記」には、ガイドのタウクヴァルター親子は取り乱し、泣き叫んでしばらく何も出来ない状態だったと書かれています。事故後、生き残った3人は何とかツェルマットまでたどり着くことが出来ました。
 
3人の遺体は氷河の上で発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は見つかっていません。
 
事故後、何故ロープが切れて4人が滑落してしまったのか取り沙汰されることになります。
 
「アルプス登攀記」ではウインパーは切れたロープは、持って行った3本のロープのうち古くて一番弱いもので予備として持っていったロープであったということ、ロープはぴんと張りきったままで切れたもので切れる前に傷がついた形跡も見当たらなかったと書かれています。
 
ウインパーは自分やガイド二人に落ち度はなかったと言っていたようですが、ガイドのタウクヴァルター・シニアの前でロープが切れたことで、タウクヴァルター ・シニアが自分たちの命を守るために意図的にロープを切ったのではないかと嫌疑がかけられ、検証が行われることになります。
 
結果はロープは意図的に切られたものではないとされましたが、ツェルマットで一番のガイドのキャリアは吹っ飛んでしまい、親子の評判は回復することなく、親子はしばらくアメリカに逃れることになります。
 
英国に戻ったウインバーも同様に世間から非難を浴びることになり、その弁明もあって「アルプス登攀記」を出版することになります。アルプス登攀記はウインパー自身の描いた挿絵も効果があって、ベストセラーになったそうです。ウインパーは当初ガイドには責任はないと言っていたようですが、時間が経つと次第にロープを選択したのは自分ではなく、なぜガイドが細いロープを選択したのか分からないと言い始めたそうです。本の出版によって評判を回復したウインパーは、初登頂を争ったカレルとその後も一緒にいろいろな山を登っていたそうです。
 
タウクヴァルター親子は英語が分からなかったので、ウインパーの主張や「アルプス登攀記」に書かれている内容が分からず、反論することもなかったようです。しかし、英語が分かるようになったタウクヴァルター・ジュニアは事故後に泣いて取り乱したのは逆にウインパーの方だったと言っています。
 
「悲劇の切れたロープ」はツェルマットのマッターホルン博物館に展示されています。スイスの登山用品メーカーのマムートはマッターホルン初登頂140周年の際に、切れたロープの強度試験を行い、耐荷重は300kgであり、そのロープではやはり4人の体重を支えることは出来なかっただろうと検証しています。
 
ウインパーによれば、墜落してしまった遺体は2番強度の長いロープに繋がれていたということで、切れてしまったのは3番強度の短いロープ、途中でウインパーがタウクヴァルター・シニアと繋ぐことになったのは1番強度の短いロープ、ウインパーとタウクヴァルタージュニアを繋いでいたのも1番強度の短いロープとなりますので、切れたロープだけに負担が集中してしまったと考えられます。ではなぜ、強度の弱かったロープを使うことになったのでしょうか。
 
最初に滑落した若者の子孫は当時の記録を調べ、事故のずいぶん後にウィンパー自身が「登頂前にロープを切った気がする」と書かれた文章を見つけ、これを事実として地元などではウインパーは登頂を競った時にロープを外したのではなく、切ってしまったので、帰りに結ぶだけの長さが足りずガイドは仕方なく予備のロープを継ぎ足さざるを得なかったのではないかという説が有力になっているようです。
タウクヴァルター・シニアがなぜ自分とダグラス卿の間だけ予備のロープを使ったのか、あるいは使わざるを得なかったのか明らかにされていませんので、真実は闇の中にしまわれたままです。
 
ウインパーは体調を悪くした晩年、見納めにとアルプスを訪れます。ツェルマットの再訪は登頂(事故)から46年も経っていました。彼にとってマッターホルンは「栄光の岩壁」ではなかったのではないでしょうか。
 
その足でモンブランの麓のシャモニーも訪れますが、その宿で心臓麻痺で亡くなり、その地の墓地に埋葬されました。シャモニーの名ガイトのミッシェル・クロはツェルマットの墓地に葬られていますが、シャモニーにはミッシェル・クロと名付けられた通りがあります。
タウクヴァルター親子はツェルマットに戻り、タウクヴァルター家と子孫はその後もツェルマットのガイドとして活躍しているそうです。プロの山岳写真家に転向した白川議員はリッフェル湖から見たマッターホルンの朝焼けに彼岸を見て、6年間通い詰めてアルプスの写真集を発表します。マッターホルンに登頂して山頂からの写真も撮りますが、その時にガイドしてお世話になったのはタウクヴァルターの子孫だったということです。

雲龍渓谷2021

2021年1月30日 田中廣明


今年の雲竜渓谷の状況について、田中廣明氏(s43年卒)より報告がありました。

今年の雲竜渓谷の結氷の状態は1月末の時点ではいまいちというところだったそうです。雪が少なかったので、河原では3回も渡渉を強いられという事です。ローカットの靴だったので結構濡れてしまったということです。タクシーは神社の先の駐車場までだったそうです。

苦境に立つシェルパたち

打矢之威(S31年卒)

私を含めヒマラヤトレッキングに2−3回行った仲間6人でネパールの世話になったシェルパ達のコロナ不況による生活困窮を援助する運動をしています。

下記にシェルパの親分のパダムとやりとしてるメールやシェルパの窮状を示している写真を添付しました。

支援いただける方やお聞きになりたい方がおられましたら、下記の打矢まで連絡ください。

yukitoshi.uchiya@gmail.com


打矢さんへ

 今日、私はメールで先に述べたように、すべてのものと資金を分配しました。 スタッフは本当に幸せで満足していました。 彼らが幸せであるのを見て、私は満足しました。 何卒よろしくお願い申し上げます。 あなたを通して私は私のスタッフを小さな方法で助けることができました。 このメールには、今日のプログラムに関する2つの画像を添付しました。 改めて、このような時期にご協力いただき、誠にありがとうございました。

ご多幸を祈ります パダム

新型コロナウイルス救援物資の配布

打矢さんへ

 メールありがとうございます。この危機で私を助けてくれた皆さんにとても感謝しています。 私は自分の人生にあなたのようなクライアントや友達がいる幸運な個人だと思っています。 私のビジネスにとってこの困難な時期に、あなたと他のすべての人は私を神のように助けてくれました。 スタッフも苦労しているので、きちんと活用していきます。 彼らはとても幸せになるでしょう。 あなたも皆も、日本でその金額を集めるのは難しいかもしれません。 ですから、私、私の家族、私のビジネス、私のスタッフに対するあなたの親切を常に覚えています。 スタッフに寄付するときに写真を投稿したいです。 そのような写真を投稿するときにあなたの名前を言っても大丈夫ですか? それが不可能な場合は、寄付を受け取るスタッフの名前をすべて郵送します。 また、少し面倒なことは承知しておりますが、寄付者全員(笠原さん、恩田さんを除く)の住所を郵送していただけませんか。 個人的に感謝したいと思います。 改めてありがとうございました。 金額を受け取り次第、再度郵送いたします。

 宜しくお願いします パダム


打矢さんへ

 メールありがとう。 あなたが私のリストで大丈夫だと私は幸せで安心しました。

 間違った日に間違ってメールを送ってしまったことをお詫び申し上げます。 私は土曜日に物資とお金を配布します。 そしてそれに応じてあなたに郵送してください。

ご多幸を祈ります パダム


記事は打矢氏からもら ったものを手島で掲載させていただきました。

ネパールではヒマラヤの登山やトレッキングを含め、観光に訪れる外国人は2018年には年間100万人を超えていたということです。新型コロナの影響でエベレストの春シーズンの登山禁止を始め、海外から観光客やトレッキングに頼っているシェルパたちの収入はほぼ絶たれてしまっている状況のようです。その窮状を見かねて打矢さんたちは援助を行なっているとのことです。

メールの原文は英語でしたが、翻訳ソフトで訳したものを掲載させていただきました。

書評    河野  啓著「デス・ゾーン」

書評 河野 啓著「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」


「冒険や夢の共有」をテーマに「単独無酸素7大陸最高峰登頂」を標榜し、登山をLIVE配信していた栗城史多氏は2018年に8度目のエベレスト初登頂を目指すも途中敗退を宣言し、下山中に滑落遭難死(35歳没)しました。
 
栗城氏は当初は「お笑い」を目指すも転身して大学に入学し、3年生の時に強い興味はなかったものの、他学の山岳部に所属します。在学中に地元北海道で1週間程度の冬季峠越えをする程度の経験だけで奇跡的にマッキンリーの登頂を果たします。その後スポンサーを見つけながら、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロと各大陸最高峰を踏破していきます。
 
卒業後、プロの登山家としてカルステンツ・ピラミッドを登頂し、「ニートのアルピニスト」「単独無酸素7大陸最高峰登頂」のキャッチコピーでマスメディアでも取り上げられれる中チョ・オユー、ビンソンマシフなども登頂し、2007年にはエベレストのみが残されていました。
 
そして、2009年からは2018年まで8回に渡りLIVE配信によるエベレストと他の高所登頂に挑戦しています。しかし、実力が伴わない挑戦だったのでしょうか、登頂成功したのはダウラギリとブロード・ピークの2回だけで、彼の挑戦はどんどん破綻していき、終わりを迎えることになります。ちなみに後述するネパール人のプルジャ氏と栗城氏は同い年のようです。登山のあり方や言動には賛否が別れる登山家でもありました。
 
昨年、「デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」という河野  啓 著の本が出たので読んでみることにしました。
 
河野氏は栗城氏を早い段階で取材し、番組も作っていた北海道放送のディレクターで、この著作は「開高  健ノンフィクション賞」を受賞しています。
 
著者は「単独無酸素」というのは本当だったのか、登頂を果たせなかったのにより困難なルートに挑戦していったのはどうしてなのか、なぜ9本の手の指を失ってもエベレストに挑戦したのか、本当に滑落死は事故だったのかなど、彼にまつわる多くの疑問を投げかけています。周囲の人からの多くの取材を通して「栗城史多氏のエベレスへの挑戦」はマスメディアの人間や一般人を観客に、巧妙な演出でスポンサーや大衆を惹きつけた虚構のエベレスト劇場であったのではないか、そして、「夢や冒険の共有」は大衆の熱狂と鎮静を経て、儚く破綻へと突き進んでいったのではないかと投げかけているように思いました。
 
著作中の「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」という著者の質問に対して栗城氏は即座に「それならエベレストには行きません」と明言したということから、栗城氏の登山が何だったのか示しているようです。
 
ただ、著作は多くの取材から栗城氏の虚像を暴いているようですが、栗城氏の本質に迫るまでのノンフィクションにはなっていないのではないかと感じました。逆に著者が関係者であっただけに主観が強く、言い訳のような著者自身の思いを感じさせられました栗城氏のインチキを暴き、死者に鞭打つだけに終わってしまったのでは真のノンフィクションとは言えないのではないでしょうか。
 
高所登山に生き甲斐を見つけ、LIVE配信という手段に活路を見出し、そして破綻していった一人の若者の心情や内面に迫り、このような若者が出現した社会的背景、「夢や冒険の共有」に群がる大衆の熱狂と鎮静、そしてマスメディアやネットの功罪のなど現代の社会性に迫っていって欲しかったと思いました。
 
共有(シェア)という上部だけの薄っぺらな繋がりは人の人生や生死すらを左右しかねません。ドラマでも見ているかのように大衆は、ポチッと押しただけでお金や冒険・夢を共有できる現代社会の光と闇。自分を客観視できず承認欲求だけが強くなっていく若者の問題。リアリティー番組と称して番組を作り、動物園の檻の中を覗くかのように他人の生活を覗き見させ、言いたい放題言わせて自殺に追い込んで行くようなマスメディアやネットの功罪など。
 
栗城氏の35年の生涯から何を学ばなければいけないのでしょうか。一読してみて下さい。
河野  啓著「デスゾーン」栗城史多のエベレスト劇場 集英社 2020年発行

冬季K2の初登頂なる

 
国の威信をかけたネパールの登山家チームが16日、世界第2位の高峰K2(8611メートル)の冬季登頂に初めて成功しました。
 
K2はカラコルム山脈にあり、登頂には高度の技術を要するとともに冬季はマイナス50度の気温と風速50mにもなる強風のために、困難かつ危険な「非常の山」と称され、標高8000メートル級の14峰の中で唯一冬季登頂が達成されていませんでした。
 
登頂に成功したのは数日前から登頂を目指す2つのチームが合同し、協力し合って成し遂げたものでした。
 
チームの一つはニルマル・プルジャ氏(37歳)が率いる6人です。プルジャ氏は2019年に8000m級14座を約半年で完全制覇していて、現在世界最高と評価されている登山家です。
 
もう一つのチームはミンマ・G・シェルパ氏(34歳)が率いる3人で、それにセブン・サミット・トレックス (SST) 社の公募隊チームに所属するソナ・シェルパ氏(25歳)が加わりました。
 
10人全員ネパール人で、プルジャ氏以外はシェルパ族出身でしたこれまで多く登山隊のために荷役やサポートをしてきた地元の登山家や山岳民族出身の登山家がスポンサーやソーシャルメディア、クラウドファンディングなどで調達した資金と積み重ねてきた経験で高所登山を成功させました。
 
プルジャ氏は18歳で英国陸軍のグルカ兵になって6年間従軍し、その後厳しい試験をパスして英国海兵隊所属のエリート部隊である特殊舟艇部隊SBS(Special Boat Service)に所属しました。SBSは機密偵察・急襲を専門としており、SAS(特殊空挺部隊)と並んで英国最高レベルの精鋭部隊だそうです。グルカ兵はネパールの山岳民族から構成される極めて強靭とされる戦闘集団で、英国軍のスカウト部隊が現地を巡回して集めているそうです。フォークランド紛争時にはグルカ兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼンチン部隊もあったということです。
 
16年間従軍した後、軍を離れてプロの高所登山家となり、8,000m14座を7カ月以内にすべて登頂して世界最速記録更新を目指す」という大胆なプロジェクトを打ち立てて高所登山に挑んていくことになります。
 
「グルカと特殊部隊メンバーは、決して如何なる人も置き去りにしない」トライヤル中にデスゾーンで何回ものレスキューにも加わっています。
 
シェルパや酸素など使えるものは何でも使い、不遜な物言いもしているので批判もされていもいますが、軍出身だけにタフで実行力が全ての新しいタイプの登山家のようです。
 
プルシャ氏とその支援チームはエベレスト、ローツェ、マカルーの3座をたったの2日と30分で登頂しています。昨年エベレストでの渋滞写真が話題となりましたが、プルジャ氏もこの渋滞に巻き込まれて、7時間も身動きが取れなかったそうです。投稿され拡散されたエベレストの渋滞写真もプルジャ氏が撮ったものでした。
 
ちなみに、今回のK2ではプルシャ氏は無酸素で登頂を果たしています。この時、純粋主義登山(酸素や他の力を借りないで登る高所登山形式)のスペイン人登山家のセルジ・ミンゴテ(Sergi Mingote)氏はベースキャンプへの下山中に転落事故で死亡しています。

年末年始の山岳遭難事故

2020年末と2021年始の山岳遭難事故は前年に比べてだいぶ減少したようです。警察庁は21日、年末年始(昨年12月29日~今年1月3日)に全国で発生した山岳遭難は前年同期比14件減の23件、遭難者数は14人減の38人で、いずれも過去5年で最少だったそうです。そのうち、死者は1人、行方不明者は1人、負傷者は9人だったということです。
 
事故が少なかったのは、新型コロナや大雪の影響が大きかったのではないかということです。

今年の終わりに

今年は思いもかけず新型コロナによって、山も大変な1年になってしまいました。

夏山では富士山をはじめ、密状態になることから多くの山小屋が営業出来ず、登山道の閉鎖もありました。半分程度の定員にして完全予約制で営業する山小屋も半個室のシールドを設置したり換気に努めるなど色々な工夫を余儀なくされました。

コロナために山小屋の存続自体も危ぶまれる状態が続いています。

一時は登山者も自粛で山も閑散とした状態から、一転して秋以降は感染意識が緩んできたこともあり、都市近郊の低山に登山者が集まり過ぎて、トイレなどにも大行列ができたり、遭難者が多くなるなどの現象も出現しました。

本当に例年にはなかった大変な1年間でした。

皆様の健康と、くる年が少しでも良くなることを祈願して、今年最後の投稿としたいと思います。ありがとうございました。

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