書評    河野  啓著「デス・ゾーン」

書評 河野 啓著「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」


「冒険や夢の共有」をテーマに「単独無酸素7大陸最高峰登頂」を標榜し、登山をLIVE配信していた栗城史多氏は2018年に8度目のエベレスト初登頂を目指すも途中敗退を宣言し、下山中に滑落遭難死(35歳没)しました。
 
栗城氏は当初は「お笑い」を目指すも転身して大学に入学し、3年生の時に強い興味はなかったものの、他学の山岳部に所属します。在学中に地元北海道で1週間程度の冬季峠越えをする程度の経験だけで奇跡的にマッキンリーの登頂を果たします。その後スポンサーを見つけながら、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロと各大陸最高峰を踏破していきます。
 
卒業後、プロの登山家としてカルステンツ・ピラミッドを登頂し、「ニートのアルピニスト」「単独無酸素7大陸最高峰登頂」のキャッチコピーでマスメディアでも取り上げられれる中チョ・オユー、ビンソンマシフなども登頂し、2007年にはエベレストのみが残されていました。
 
そして、2009年からは2018年まで8回に渡りLIVE配信によるエベレストと他の高所登頂に挑戦しています。しかし、実力が伴わない挑戦だったのでしょうか、登頂成功したのはダウラギリとブロード・ピークの2回だけで、彼の挑戦はどんどん破綻していき、終わりを迎えることになります。ちなみに後述するネパール人のプルジャ氏と栗城氏は同い年のようです。登山のあり方や言動には賛否が別れる登山家でもありました。
 
昨年、「デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」という河野  啓 著の本が出たので読んでみることにしました。
 
河野氏は栗城氏を早い段階で取材し、番組も作っていた北海道放送のディレクターで、この著作は「開高  健ノンフィクション賞」を受賞しています。
 
著者は「単独無酸素」というのは本当だったのか、登頂を果たせなかったのにより困難なルートに挑戦していったのはどうしてなのか、なぜ9本の手の指を失ってもエベレストに挑戦したのか、本当に滑落死は事故だったのかなど、彼にまつわる多くの疑問を投げかけています。周囲の人からの多くの取材を通して「栗城史多氏のエベレスへの挑戦」はマスメディアの人間や一般人を観客に、巧妙な演出でスポンサーや大衆を惹きつけた虚構のエベレスト劇場であったのではないか、そして、「夢や冒険の共有」は大衆の熱狂と鎮静を経て、儚く破綻へと突き進んでいったのではないかと投げかけているように思いました。
 
著作中の「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」という著者の質問に対して栗城氏は即座に「それならエベレストには行きません」と明言したということから、栗城氏の登山が何だったのか示しているようです。
 
ただ、著作は多くの取材から栗城氏の虚像を暴いているようですが、栗城氏の本質に迫るまでのノンフィクションにはなっていないのではないかと感じました。逆に著者が関係者であっただけに主観が強く、言い訳のような著者自身の思いを感じさせられました栗城氏のインチキを暴き、死者に鞭打つだけに終わってしまったのでは真のノンフィクションとは言えないのではないでしょうか。
 
高所登山に生き甲斐を見つけ、LIVE配信という手段に活路を見出し、そして破綻していった一人の若者の心情や内面に迫り、このような若者が出現した社会的背景、「夢や冒険の共有」に群がる大衆の熱狂と鎮静、そしてマスメディアやネットの功罪のなど現代の社会性に迫っていって欲しかったと思いました。
 
共有(シェア)という上部だけの薄っぺらな繋がりは人の人生や生死すらを左右しかねません。ドラマでも見ているかのように大衆は、ポチッと押しただけでお金や冒険・夢を共有できる現代社会の光と闇。自分を客観視できず承認欲求だけが強くなっていく若者の問題。リアリティー番組と称して番組を作り、動物園の檻の中を覗くかのように他人の生活を覗き見させ、言いたい放題言わせて自殺に追い込んで行くようなマスメディアやネットの功罪など。
 
栗城氏の35年の生涯から何を学ばなければいけないのでしょうか。一読してみて下さい。
河野  啓著「デスゾーン」栗城史多のエベレスト劇場 集英社 2020年発行

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