メールマガジン12月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/12/25

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DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン12月号の配信です。

今月号ではエベレストを特集してみました。

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△▲△▲△        も くじ  △▲△▲△

【1】エベレストの標高が高くなりました

【2】「山ががそこにあるから・・・」

【3】登山史上最大のミステリー

【4】富士山に登山鉄道構想が・・・。

【5】HPのまとめ

【6】高尾山は元旦登山を禁止に

【7】HPのコラム記事をまとめました

【8】独協通信第96号掲載記事

【9】テント泥棒が捕まりました

【10】行ってきました Now

【11】編集後記

【12】記事の募集とマガジンについて

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【1】エベレストの標高が高くなりました

ニューデリー共同によりますと、12月8日ネパールと中国はエベレストの標高をともに8,848.86mであることを発表したということです。両国が独自に測量した結果ということで、これまでのエベレストの標高より86センチ高くななったということです。高くなった原因は測量技術の向上か隆起によるものか

は分かりません。

エベレストの標高は今まで一般的には8,848m としていますが、歴史的にも測量した国や組織によって諸説あったようです。お膝元の中国とネパールでは測量結果に基づいた認識に違いもあったようですが、今回両国の共通認識が図られたようです。

エベレストはチベットではチョモランマ、ネパールではサルガマータとそれぞれ呼ばれていたようですが、東インド会社では1760年代からインド各地の地図を作成しており、1810年代には統合されたインド測量局はヒマラヤ山脈周辺の地図の作成も手がけていました。1849年には経緯儀望遠鏡で測量を行なっていたそうです。

1954年にインド測量部のインド人技師がエベレスト周辺12ヶ所で三角測量を行い、「ピーク15」としてこの山が8,848mで世界最高峰であることを発見し、ネパール政府も認めていたようです。(この時は氷雪の厚みも含めた値だったようです。)

その後、ピーク15はヒマラヤ周辺を測量していた技師で、後に測量局長官になったエベレスト氏の名に因んで1865年に命名されています。

1992年には山頂にGPSを設置して測定して8,846.10mという結果も出ており、1999年には全米地理学協会が山頂にGPSを設置して8,850mという測定結果も出ています。

これまでネパールは1954年にインドが測量した8,848mを公式としてきていましたが、中国では2005年に再測量し、氷雪部分を除き8,844.43mと公表しています。

ネパールは昨年2019年に測量のために登山隊を登頂させてレーザーゼオドライトとGPSおよび地中探知レーダーにより氷雪の厚みを測定して地質部のみの標高を測定しており、中国も今年2020年に衛星測位システムと登山隊によりGPSを使って測定した結果として、両国ともに先の8848.86mであるとの発表に至ったようです。この標高が今後エベレストの正式な標高になるということです。

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【2】「山ががそこにあるから・・・」

日本では山を登る理由として「山がそこにあるから」という英国人ジョージ・マロリーの言葉が一人歩きしている状態でが、実際の所とは少し違うようです。

マロリーは1924年の第3次エベレスト遠征登山を前に”何故エベレストに登るのか”との記者の問いに「Becouse  it there(そこにあるからだ)」と言ったようです。つまり、彼は山そのものを指して言ったのではなく、「ITはエベレストを指しており、”エベレストがそこにあるから”」と言った言葉だったようです。

マロリーは第一次世界大戦に従軍後、第1次英国エベレスト遠征隊員に選任され、初めてノースコルを踏み、第2ステップを超えて山頂に至るルートを見出しています。

第2次遠征隊では8,225mという当時の最高地点まで登り、最終アタックを目指していましたが雪崩により7名のシェルパが死亡するという事故によって、撤退を余儀なくされていました。

世界大戦に従軍して死生観も変化していたというマロリーは1回目の挑戦で得られた希望、2回目の挑戦で登頂目前で撤退を余儀なくされて味わった無念、そして満を持して得られた3回目の挑戦は並々ならぬ覚悟を持って臨んだのだろうと思われます。

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【3】登山史上最大のミステリー

先だって前号のメールマガジンでもご紹介した日本山岳会主催の「登山史上最大のミステリー マロリーとアーヴィンを探して」と題したZoomによるオンラインセミナーを拝聴しました。講師のジャック・ノートン氏は1999年にエベレストでマロリーの遺体を発見した「マロリー捜索隊」のメンバーでした。このセミナーを基にマロリーのエベレスト挑戦と遺体発見についてご紹介します。

マロリーの最後の挑戦となったのは1924年の第3次英国エベレスト遠征隊で、マロリーは登山経験は少なかったものの若く、酸素ボンベの扱い能力も高いアーヴィンをパートナーに選んでアタックに臨みました。

当時エベレストは北東稜からの挑戦でしたが、難関は頂上直下の第2ステップでした。二人は8,600m付近までは登って来ていることが確認されているものの、その後行方不明になり、そして帰らぬ人になってしまいました。

エベレストの初登頂は南東陵から1953年に英国で組織されたエベレスト探検隊のオーストラリア出身のヒラリーとシェルパのテンジンによって登頂されましたが、マロリーとアーヴィンが登頂を果たしたのかどうかが話題になっていました。

そこで、1999年にイギリスとアメリカの放送局の共同企画として「マロリー捜索隊」が組織されました。今回講師のノートン氏もアメリカ人登山家として捜索隊に参加していました。

マロリーたちの死後75年を経て、捜索隊は8,160m付近でうつ伏せになった大理石の彫像のようなマロリーの遺体を発見しました。うつ伏せになった下部の衣服は残っていたものの、紫外線にさらされた上部の衣服は失い、肌が露出した状態で発見されました。残った衣服からはマロリーの名前が確認されています。

片足は砕けていましたが遺体の損傷は少なく、片足は登山靴が履かれた状態でしたが、靴鋲は一部剥がれていたそうです。体には数メートルのザイルが結ばれたままになっており、アーヴィンとアンザイレンした状態で滑落したことが伺えました。彼のポケットにはゴーグルが仕舞われており、暗くなっていたか下山中だったのではないかと考えられました。また、持ち物の中には登頂した時に頂上に埋めると約束していた妻の写真は見つからず、登頂した可能性が残りました。

第2ステップは3回のエベレスト登頂を果たしている講師のノートン氏も登ることが出来なかったほど困難な箇所で、マロリー当時の装備やフリーの技術では到底超えることは出来なかったのではないかと思われるということです。エベレストの単独無酸素登頂を果たしているラインフォルト・メスナーも著書「マロリーは2度死んだ」の中で同じことを述べています。

その後、第2ステップは1960年に中国隊の人界戦術によって「はしご」が掛けられて、初めて北東陵からの登頂が成し遂げられました。北東陵は現在もそのはしごを利用して登られているようです。

また、酸素ボンベの残量が記載されているメモが遺体から発見されていますが、それによると酸素は下山するまでの残量はなかったということでした。

その後も数回にわたってアーヴィンの遺体の捜索が行われましたが、アーヴィンの遺体も登頂時を写すために持っていったコダックのカメラもまだ発見されていません。今後、衛星写真の解析でアーヴィンの遺体も発見できる可能性もあるとのことでした。

現在、エベレストには200体以上の遺体が放置されており、発見されたマロリーの遺体も危険を冒して回収することはしないでその地で静かに眠らせておいて欲しいという妻の意向もあり、簡単な葬儀をして礫土をかけてそのまま残されています。

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【4】富士山に登山鉄道構想が・・・。

山梨県は山麓駅(東富士五湖道路の料金所付近)から富士吉田口五合目までの富士スバルラインの自動車道にLRT(軽量起動交通)を敷設して、自動車から鉄道に置き換えるという登山鉄道計画を進めています。

富士スバルラインは富士登山を目指す来訪者が世界遺産登録後には2倍以上に増え、大型バスの走行による自動車交通による環境負荷や、電気や上下水道のインフラがなく、自家発電による排ガスや屎尿処理の改善などの必要にも迫られています。

そこで、山梨県は富士山麓と5合目を結ぶ富士山登山鉄道構想が提起され、実現の可能性を議論する検討会が御手洗冨士夫経団連名誉会長を会長として設置され、理事会で採算性などを示した基本構想素案が了承されたそうです。その際に出された課題を検討し、来年2月上旬に総会を開き、基本構想がまとめられるということです。県知事は、パリのユネスコ本部を訪れて自ら基本構想を説明する意向だということです。

詳しいことはこちらからご覧下さい。 https://tabiris.com/archives/fujitozantetsudo/

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【5】OB会HP年間アクセスランキング

今年1年間にホームページにアクセスされた訪問者数はのべ4,266人、表示件数は8,167件で過去最高になっています。(昨年は2,624人、6,708件)  1日平均すると約12人の方が訪れていることになります。ただし、下記のように記事別アクセス数を見ると検索サイトからの閲覧がアクセス数を押し上げていると思われます。

面白いことに「山で歌った歌」が総合ランキングにたくさん入っています。これも今年に限ったことでもないようですので、山で歌った歌に対する興味が少なからずあるようです。

外部からの閲覧はともかく、OB会会員相互の繋がりとホームページやOB会へのアクセスの掘り起こしを第一に記事を作っていきたいと思っています。

【総合ランキングベスト10】

1  「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」 348

2    八甲田山雪中行軍遭難事故  320

3   山で歌った歌 山賊の歌    269

4 「御嶽山噴火 生還者の証言から」231

5   積丹岳事故裁判について 146

6   山で歌った歌 北帰行    114

7   山で歌った歌 「 剣ダンチョネ節」97

8   芳ヶ平湿地群 96

9   山で歌った歌 新人哀歌 90

10   山で歌った歌    獨協中学・高校校歌 87

【行って来ましたランキングベスト10】

1  芳ヶ平湿地群  96

2  三頭山の地質と植生  45

3  燕岳  35

4  伊豆ヶ岳・子の権現  33

5  赤城山  32

6  高尾山(上り色はの森)  30

7  石裂山  29

8  天城山  26

9  岩殿山  25

10  高尾山での自然観察会 25

【山で歌った歌ランキングベスト10】

1  山賊の歌  269

2  北帰行  114

3  劔ダンチョネ節  97

4  新人哀歌  90

5  獨協中学・高校校歌  87

6  谷川小唄  74

7  山の友よ  44

8  獨協小唄  22

9  こんな歌もありました  20

10「山で歌った歌」歌集  10

DATAは12月24日現在のものです。

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【6】高尾山は元旦登山は禁止

東京都は高尾山の山頂である「大見晴園地」を12月31日午後5時から来年1月1日午前7時まで閉鎖することを発表しました。

高尾山は元旦に初日の出を見ようとたくさんの人が訪れる名所にもなっていますが、新型コロナウイルス感染症拡大の予防のためのやむを得ない措置という事です。

1号路は高尾山薬王院まで登ることはできるようです。また、稲荷山コースからの入山は出来ず、6号路は琵琶滝分岐から上へは上がれないようです。

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【7】HPのコラム記事をまとめました

今までOB会ホームページで掲載してきた「コラム」の記事をリンクを張って一覧にまとめ、HPのヘッドメニューに加えました。「30周年記念誌」に掲載されている文章もコラム記事の中に入れてありますので、御覧下さい。

コラムテーマの一覧へはこちらからご覧下さい。

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【8】独協通信第96号掲載記事

独協通信96号のワンダーフォーゲル部OB会の記事はもうご覧になりましたか。見られていない方はHPに掲載してありますので、下記からご覧下さい。

独協通信96号記事へはこちらから

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【9】テント泥棒が捕まりました

昨年、雷鳥沢キャンプ場や劔沢テント指定地で登山のために張っておいたテントと中に置いてあった物などが盗まれるという事件が発生していましたが、今年9月になって容疑者が捕まりました。

今年9月15日に劔沢のテント指定地でテント外に置いておいたザックが盗まれる事件が発生し、容疑者がザックを草むらに捨てようとしていた所を持ち主に見つけられ、私的現行犯逮捕によって劔沢警備派出所に突き出されました。容疑者は大阪在住の50歳の男で、その男がその時使っていたテントが昨年盗まれたテントだったということです。また同じようなことをしていて、1年を経て御用となりました。

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【10】行ってきました Now

筑波山(2016年1月5日) 伊豆ヶ岳(2020年1月5日) 節刀ヶ岳(2018年1月7日)

三つ峠山(2018年1月11日) 有間山・蕨山(2020年1月11日) 赤城山(2016年1月14日)

本社ヶ丸山(2018年1月21日) 大山(2016年1月22日) 守屋山(2017年1月24日)

石割山(2019年1月25日) 塔ノ岳(2016年1月27日) 雲龍渓谷(2019年1月27日)

高鈴山(2018年1月28日)

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【11】編集後記

今月は仕事が忙しくなってしまい、エベレスト関連で読み始めたエベレストで滑落死したライブ配信の登山家「栗城史多」氏について書かれた河野  啓著のノンフィクション「デスゾーン」が読みきれずに途中でストップしてしまいました。巣ごもりのお正月に続きを読みたいと思っています。

さて、今年もあと数日で終わりになります。去年暮れに中国武漢で発生した新型コロナウィルスはまる1年が経った現在も世界中で第3波の感染拡大が深刻になっており、感染者7870万人 死者173万人になっています。(24日午後3時現在)

東京オリンピック、パラリンピックで盛り上がるはずの2020年は思いもかけない1年になってしまいました。

来年はどんな年になるのでしょうか。みなさんお元気で新年をお迎え下さい。

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【12】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

富士山の登山鉄道構想

山梨県は山麓駅(東富士五湖道路の料金所付近)から富士吉田口五合目までの富士スバルラインの自動車道にLRT(軽量起動交通)を敷設して、自動車から鉄道に置き換えるという登山鉄道計画を進めています。
 
富士スバルラインは富士登山を目指す来訪者が世界遺産登録後には2倍以上に増え、大型バスの走行による自動車交通による環境負荷や、電気や上下水道のインフラがなく、自家発電による排ガスや屎尿処理の改善などの必要にも迫られています。
 
そこで、山梨県は富士山麓と5合目を結ぶ富士山登山鉄道構想が提起され、実現の可能性を議論する検討会が御手洗冨士夫経団連名誉会長を会長として設置され、理事会で採算性などを示した基本構想素案が了承されたそうです。その際に出された課題を検討し、来年2月上旬に総会を開き、基本構想がまとめられるということです。県知事は、パリのユネスコ本部を訪れて自ら基本構想を説明する意向だということです。
 
詳しいことはこちらからご覧下さい。 https://tabiris.com/archives/fujitozantetsudo/

古(いにしえ)の登山者

剱岳と満月

2019年7月号のメールマガジンから転載した記事になります。


剱岳は1906(明治39)年、陸軍参謀本部陸地測量部(現国土地理院)の測量隊が「点の記」を記すべく史上初の登頂を果たしましたが、頂上直下に奈良時代か平安時代の修験者が持っていたと思われる錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖を発見して持ち帰っていることが知られています。そんな昔に剱岳を登っていたなんて信じられない気もしますが、本当に大昔から人は山に登っていたのですね。

立山開山縁起によると立山は越中国司の息子の佐伯有頼によって飛鳥時代の701年に開山されたといわれています。また、白山は奈良時代の717年に修験道の泰澄という僧が登頂を果たし、今年開山1300年を迎えています。

平安時代には富士山などもすでに登られていたようですし、戦国時代の1584年には越中富山の城主の佐々成政が秀吉を倒す相談のために富山から厳冬期(12月)の立山のザラ峠、針ノ木峠を越え信濃路を通って浜松の徳川家康に会いに行き、再び往路を帰っていったという伝説が残っています。

槍ヶ岳は播隆上人によって1828年に登頂され、1640年に加賀藩によって組織された黒部奥山廻り役の役人は1870年まで藩林保護のために北アルプスの主峰のほとんどを登って回っていたといいます。

1820年前後にはおおよその名だたる山が踏破されていたようです。1820年代は江戸時代の文政年間にあたり、シーボルトが登場してくる時代であります。情報も装備も十分ではなかった時代に登頂を果たそうという思いとはどんなものだったのでしょうか。

OB会HP年間アクセスランキング2020

今年1年間にホームページにアクセスされた訪問者数はのべ4,296人、表示件数は8,209件で過去最高になっています。(昨年は2,624人、6,708件)  1日平均すると約12人の方が訪れていることになります。ただし、下記のように記事別アクセス数を見ると検索サイトからの閲覧がアクセス数を押し上げていると思われます。
 
面白いことに「山で歌った歌」が総合ランキングにたくさん入っています。これも今年に限ったことでもないようですので、山で歌った歌に対する興味が少なからずあるようです。
 
外部からの閲覧はともかく、OB会会員相互の繋がりとホームページやOB会へのアクセスの掘り起こしを第一に記事を作っていきたいと思っています。
 
【総合ランキングベスト10】
 
  1  「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」 348
  2    八甲田山雪中行軍遭難事故  322
  3   山で歌った歌 山賊の歌    269
  4 「御嶽山噴火 生還者の証言から」232
  5   積丹岳事故裁判について 146
  6   山で歌った歌 北帰行    114
  7   山で歌った歌 「 剣ダンチョネ節」97
  8   芳ヶ平湿地群 96
  9   山で歌った歌 新人哀歌 90
10   山で歌った歌    獨協中学・高校校歌 87
 
【行って来ましたランキングベスト10
 
   1  芳ヶ平湿地群  96
    2  三頭山の地質と植生  46
   3  燕岳  35
   4  伊豆ヶ岳・子の権現  33
   5  赤城山  32
   6  高尾山(上り色はの森)  30
   7  石裂山  29
   7  高尾山での自然観察会 29
   9  天城山  26
   10  岩殿山  26 
 
【山で歌った歌ランキングベスト10
 
  1  山賊の歌  269
  2  北帰行  114
  3  劔ダンチョネ節  97
  4  新人哀歌  90
  5  獨協中学・高校校歌  87
  6  谷川小唄  74
  7  山の友よ  44
  8  獨協小唄  22
  9  こんな歌もありました  20
10「山で歌った歌」歌集  10
DATAは12月26日現在のものです。

ジョージ・マロリーの挑戦

先だって前号のメールマガジンでもご紹介した日本山岳会主催の「登山史上最大のミステリー マロリーとアーヴィンを探して」と題したZoomによるオンラインセミナーを拝聴しました。講師のジャック・ノートン氏は1999年にエベレストでマロリーの遺体を発見した「マロリー捜索隊」のメンバーでした。このセミナーを基にマロリーのエベレスト挑戦と遺体発見についてご紹介します。

マロリーの最後の挑戦となったのは1924年の第3次英国エベレスト遠征隊で、マロリーは登山経験は少なかったものの若く、酸素ボンベの扱い能力も高いアーヴィンをパートナーに選んでアタックに臨みました。

当時エベレストは北東稜からの挑戦でしたが、難関は頂上直下の第2ステップでした。二人は8,600m付近までは登って来ていることが確認されているものの、その後行方不明になり、そして帰らぬ人になってしまいました。

エベレストの初登頂は南東陵から1953年に英国で組織されたエベレスト探検隊のオーストラリア出身のヒラリーとシェルパのテンジンによって登頂されましたが、マロリーとアーヴィンが登頂を果たしたのかどうかが話題になっていました。

そこで、1999年にイギリスとアメリカの放送局の共同企画として「マロリー捜索隊」が組織されました。今回講師のノートン氏もアメリカ人登山家として捜索隊に参加していました。

マロリーたちの死後75年を経て、捜索隊は8,160m付近でうつ伏せになった大理石の彫像のようなマロリーの遺体を発見しました。うつ伏せになった下部の衣服は残っていたものの、紫外線にさらされた上部の衣服は失い、肌が露出した状態で発見されました。残った衣服からはマロリーの名前が確認されています。

片足は砕けていましたが遺体の損傷は少なく、片足は登山靴が履かれた状態でしたが、靴鋲は一部剥がれていたそうです。体には数メートルのザイルが結ばれたままになっており、アーヴィンとアンザイレンした状態で滑落したことが伺えました。彼のポケットにはゴーグルが仕舞われており、暗くなっていたか下山中だったのではないかと考えられました。また、持ち物の中には登頂した時に頂上に埋めると約束していた妻の写真は見つからず、登頂した可能性が残りました。

第2ステップは3回のエベレスト登頂を果たしている講師のノートン氏も登ることが出来なかったほど困難な箇所で、マロリー当時の装備やフリーの技術では到底超えることは出来なかったのではないかと思われるということです。エベレストの単独無酸素登頂を果たしているラインフォルト・メスナーも著書「マロリーは2度死んだ」の中で同じことを述べています。

その後、第2ステップは1960年に中国隊の人界戦術によって「はしご」が掛けられて、初めて北東陵からの登頂が成し遂げられました。北東陵は現在もそのはしごを利用して登られているようです。

また、酸素ボンベの残量が記載されているメモが遺体から発見されていますが、それによると酸素は下山するまでの残量はなかったということでした。

その後も数回にわたってアーヴィンの遺体の捜索が行われましたが、アーヴィンの遺体も登頂時を写すために持っていったコダックのカメラもまだ発見されていません。今後、衛星写真の解析でアーヴィンの遺体も発見できる可能性もあるとのことでした。

現在、エベレストには200体以上の遺体が放置されており、発見されたマロリーの遺体も危険を冒して回収することはしないでその地で静かに眠らせておいて欲しいという妻の意向もあり、簡単な葬儀をして礫土をかけてそのまま残されています。

エベレストの標高が少し高くなりました

ニューデリー共同によりますと、12月8日ネパールと中国にまたがるエベレストの標高をともに8,848.86mであることを発表したということです。両国が独自に測量した結果ではありますが、これによると今までのエベレストの標高より86センチ高くななったということです。高くなった原因は測量技術の向上か隆起によるものかはは分かりません。

エベレストの標高は今まで一般的には8,848m としていますが、歴史的にも測量した国や組織によって諸説あったようです。お膝元の中国とネパールでは測量結果に基づいた認識に違いもあったようですが、今回両国の共通認識が図られたようです。

エベレストはチベットではチョモランマ、ネパールではサルガマータとそれぞれ呼ばれていたようですが、東インド会社では1760年代からインド各地の地図を作成しており、1810年代には統合されたインド測量局はヒマラヤ山脈周辺の地図の作成も手がけていました。1849年には経緯儀望遠鏡で測量を行なっていたそうです。

1954年にインド測量部のインド人技師がエベレスト周辺12ヶ所で三角測量を行い、「ピーク15」としてこの山が8,848mで世界最高峰であることを発見し、ネパール政府も認めていたようです。(この時は氷雪の厚みも含めた値だったようです。)その後、ピーク15はヒマラヤ周辺を測量していた技師で、後に測量局長官になったエベレスト氏の名に因んで1865年に命名されています。

1992年には山頂にGPSを設置して測定して8,846.10mという結果も出ており、1999年には全米地理学協会が山頂にGPSを設置して測定した結果では8,850mとなっていました。

これまでネパールは1954年にインドが測量した8,848mを公式としてきていましたが、中国では2005年に再測量し、氷雪部分を除き8,844.43mと公表しています。

ネパールは昨年2019年に測量のための登山隊を登頂させてレーザーゼオドラライトとGPSおよび地中探知レーダーにより氷雪の厚みを測定して地質部のみの標高を測定しており、中国も今年2020年に衛星測位システムと登山隊によりGPSを使って測定した結果として、両国ともに先の,8848.86mであるとの発表だったようです。この標高が今後エベレストの正式な標高になるということです。

マダニの感染症の罹患者数が100人超え

2019年12月のメールマガジンから転載した記事になります。


国立感染症研究所は2019年12月17日マダニが媒介する致死率の高い感染症である「重症熱性血小板減少症候群」(SFTS)の今年の感染報告者数が初めて100人を超えたと発表しました。(うち4人が死亡) 注1

SFTSはウイルスを持ったダニにかまれると6日~2週間で発症し、発熱や倦怠感、筋肉、発疹、関節痛、腹痛、下痢ななどの症状が出ます。有効なワクチンや薬がなく、重症化すると死に至ることもあるということです。

2009年に中国で発症が確認されたのを初めとして、東京での1例を除いて九州、四国や関西北陸など西日本を中心に発症が報告されています。患者総数492人の約14%に当たる69人が死亡しています。注 2   猫などの発症したペットからの感染も報告されています。

近年シカやイノシシなどが増えてきていることもあり、ダニやヒルが多くなってきているようです。増草むらなどに入る機会が多い場合は袖口を絞れる長袖や長ズボンを着用するとか防虫スプレーをかけておくなど注意が必要なようです。

また、服などに入っても直ぐにはかまないのでよく確認し、かまれた場合は無理に引き抜くとマダニの口の一部が皮膚内に残る可能性があるため、ダニが付いていたらといって慌てて払ったりすると大変なことになります。冷静な対応が必要です。皮膚科で取ってもらうのがいいと言われますが、受診するまでダニを付けたままでいるということは物理的にも精神的にも現実的ではありません。虫を口を中心に回すようにすると上手く抜くことが出来るということですが、ピンセットでもなければ難しいと思われます。やはり、防虫スプレーか防虫テープでの予防が現実的のようです。通販でも「Tick Twister」というプラスチックの小さな釘抜のような専用ダニ取り器が販売されています。値段も安いので非常用バックに加えておくのもいいかもしれません。


2020年5月現在での状況

注1:2019年内の最終罹患者数は102例で、死亡例は5例となっています。

注2: 2020年5月現在の罹患者数は517例で死亡例は70例で死亡率は13.5%になります。6月以降のデータについては国立感染症研究所の発表はありません。

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登山に適した栄養の取り方

2018年8月のメールマガジンから転載された記事になります。


【登山前のスタミナ食は筋グリコーゲン】

「さあ、明日は山だからスタミナつけなくちゃ。」と登山を前にして、ご飯も食べないで焼肉をもりもり食べるのはNG。

肉類中心の脂肪やタンパク質が多い食事はダメで、糖質中心のご飯や蕎麦などの穀類、魚や肉などのタンパク質源、野菜というバランス食が効果的なようです。

糖質は体内に入るとブドウ糖になり、筋肉と肝臓に取り込まれ、多くが筋グリコーゲンとして蓄えられます。

ご飯を抜いたような脂肪や高タンパク食では筋グリコーゲンは普通食の約1/3に低下してしまうそうです。ポテトサラダやカボチャなどの煮物を加えた高糖質食の場合の筋グリコーゲンは約2倍になるのだそうです。

筋グリコーゲンは筋肉を動かすエネルギー源で、この量が多いほど長く運動が継続できバテにくいとされます。

また、消耗した筋グリコーゲンは運動直後に糖質を補うことで2時間後には急激につくり出されるそうです。

したがって、連泊するような場合にも夕飯には筋グリコーゲンを十分摂ることが翌日の行動に影響を与えるようです。

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【山の行動食にはドライフルーツが効果的】

山行中の行動食も筋グリコーゲンを源とする甘い飴や羊羹、チョコレートなど糖質が多く含まれているものを摂取する必要があます。山行中は1日3食という概念は捨てて、お腹が減ってきたら適時補給することが必要のようです。

エネルギー不足が急激に疲労につながるいわゆる「シャリバテ」にもなりますので、簡単に補給できるものを用意し、こまめに補給することが必要となります。

昔の山行では、氷砂糖や羊羹、飴やレモンなどを行動食として使ってきましたが、近年はドライフルーツを用いることも多くなっています。

果物の甘味は果糖で羊羹やアメなどに含まれる砂糖に比べ3倍も早く吸収されるそうです。また、果物の酸味にあたるクエン酸とビタミンは疲労回復させる成分で、乳酸を取り除く効果が期待できます。

果物の中でもグレープフルーツ、オレンジ、ミカン、ネクタリン、リンゴなどは特に酸味が強く効果的ですが、重たかったりかさばったりするためにそのままでは山に持っていく気はしません。

しかし、近頃はドライフルーツになったものがスーパーなどでもたくさん並べられるようになってきたので、容易にミックスしたものを持っていくことができます。

また、干しブドウ、プルーン、アンズ、リンゴ、パナナ、イチヂクなどのドライフルーツと「ナッツ」や「柿の種」などを組み合わせたものを行動食とするのもいいようです。

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【登山者にお勧めのアミノ酸系サプリの摂り】

夏場の水分やミネラルの補給に「ポカリスエット」や「アクエリアス」などの各社から出されているいろいろなスポーツ飲料が一般化しています。また、ゼリー状のスポーツエネルギー補給剤なども近年多く用いられています。

加えて最近はコンビニやドラッグストアでもアミノ酸系サプリが目につく棚に並んでいます。

さて、アミノ酸系サプリとはどんなものなのでしょうか。

マラソンや自転車などの持久力系のスポーツも盛んになってきたせいでしょうか、スポーツ時の筋力や持久力をアップさせる働きや疲労回復の効果が期待できるということでアミノ酸系サプリが広まってきています。

アミノ酸は乳酸の発生を抑制させる働きがあり、また披露した筋線維を修復させる効果があります。久しぶりに山登りに出かける人や、下山した翌日の筋肉痛などを軽減させる効果効果が期待できるようです。

ただし、使うタイミングがあります。アミノ酸サブリは体内に入ってから2時間程度しか効果が持続できないので、登り始める30分前に飲むのが効果的だということです。

また、下山した直後に飲むことで翌日の筋肉痛を和らげることができるとうことです。

ゼリータイプや水に溶かして使うタイプ、タブレットなど形状も様々ですし、同じメーカーから同じ商品ブランドでも成分やバランスを変えて何種類もの商品が販売されています。

何がどう違うのかよく分からないで使ったりすることも多いようですが、タイプと使い方に違いがあるので表示をよく確かめて物と時を選んで使うとより効果的なようです。

例えば「味の素」のamino VITALのゼリータイプで言えば、運動前には「SUPER SPORTS」、運動中にはエネルギー補給も兼ねた「パーフェクトエネルギー」、運動後には「GOLD」という具合に使い方を想定して作られているようです。

登山用語の変遷

2019年4月のメールマガジンから転載した記事になります。


ザイル、ピッケル、アイゼン、コッヘル、ハーケン、シュラフ、チンネ、ヒュッテ、ブロッケン、モルゲンロート、シュリンゲ、ザイテングラート、ヤッケなど登山関係の用語にはドイツ語がたくさん使われています。

近代医療関係にも馴染みのあるドイツ語ですが、山の用語にドイツ語が多いのは日本の近代登山を牽引した人たちがベルナーオーバーラントなどを中心にしたドイツ語圏にあるヨーロッパアルプスを舞台に活動していたことからのようです。

その後フランス人で「星と嵐」を著しヨーロッパ6大北壁を征服し新たな時代を気づいたガストン・レビュファの影響もあってかクーロワールやピオレ(ピッケル)などフランス語による用語も使われるようにもなっていきました。

また、イタリアはスカルパ、ガルモント、ドロミテ、ノルディカ、スポルティバ、ザンバランなどの登山靴や、ビブラムのソールなどのが人気で、グリベル、カシン(カンプ)などの登攀用具も人気がありました。登山用語としてはあまり定着しなかったようですが。

また、1990年代になるとヨセミテなどを舞台にフリークライミングが盛んになるにつれて英語による登山用語が使われるようになってきました。ザイルからクライミングロープ、シュリンゲからスリング、ジッヘルからビレイなどに変わっていってきています。このように登山用具も時の影響力のある国の言葉が使われているようです。

スリーピングバック、バックパック、クッカーあたりまでは分かりますが、ゲーター、リーシュベルト、カトラリー、リッド、ベースレイヤー、シェル、アウターなとど聞き慣れない言葉が多くなってしまいました。各国の登山形態のトレンドや登山メーカーが及ぼす力学によって使われる言葉も変わっていくのでしょう。

「狼酒」をご存知ですか

2019年3月のメールマガジンから転載した記事になります。


秩父や奥多摩あたりには狼の狛犬が据えられいる神社が多くあります。かつてニホンオオカミは地域社会や自然環境の中で確固たる位置にあり、狼信仰にも繋がっている存在でもあったはずですが、残念ながら既にその存在が途絶えてから百年以上になります。

山と渓谷社発行の遠藤公男著の『ニホンオオカミの最後』では「狼酒」(おおかみざけ)なるものが紹介されています。著者が岩手県大槌町の民家で発見したもので、江戸時代に「狼の切り取った骨肉の一片をカメに入れ、塩水を加えて心臓の薬とした」ものを代々秘薬として受け継がれていたというものです。家人が見つけた時にはまだ少し液体が残っていたということですが、遠藤氏が発見した時には既にわずかの骨しか残っていなかったようです。

先日、ニュースで遠藤氏が狼酒の中に残っていた骨を岐阜大学名誉教授で総合研究大学院大学客員研究員である石黒直隆博士に分析を依頼しDNA鑑定の結果、過去に岩手県下で見つかっているニホンオオカミのDNA配列と同じであったことが分かりました。

狼酒の発見から40年の時を経て、この酒が確かにニホンオオカミの骨を漬け込んだものであり、またそのような文化があったことが証明されたわけです。著書では狼狩りのことや狼が社会的にどのように受け入れられ、どのようにして絶滅していったかなどについても述べられていますので一読されてみてはいかがでしょうか。

ニホンオオカミの発見への期待はロマンとしてばかりでなく、イノシシやシカが大繁殖している現在、生態系を復活させるためにも狼の再登場を願う向きもあるようです


2019年3月のメールマガジンから転載しました。

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