獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2021/1/28
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DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン1月号/2021の配信です。
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【1】今年もどうぞよろしく
【2】年末年始の山岳遭難
【3】ウインパーの切れたロープの謎
【4】書評 河野 啓著「デス・ゾーン」
【5】冬季K2の登頂成功
【6】登山道でもQRコード?
【7】行ってきました Now
【8】編集後記
【9】記事の募集とマガジンについて
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【1】今年もどうぞよろしく
残念ながら2021年もコロナ禍の中で新年を迎え、1月8日には再度2月7日までの緊急事態宣言が発出されてしまいました。
新型コロナウイルスのワクチン接種は医療関係者から始められて、一般には4月以降に高齢者からということのようです。これから日本経済はどうなっていくのか、東京オリンピック・パラリンピックはどうなるのかなど、見通しの立たない年明けになってしまいました。
とりあえず、自分や家族の健康に留意し、新型コロナに対応しながらも前向きに生活していきたいですね。今年もどうぞ、HPとメールマガジンをよろしくお願いします。
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【2】年末年始の山岳遭難
2020年末と2021年始の山岳遭難は前年に比べてだいぶ減少したようです。警察庁は21日、年末年始(昨年12月29日~今年1月3日)に全国で発生した山岳遭難は前年同期比14件減の23件、遭難者数は14人減の38人で、いずれも過去5年で最少で、死者が1人、行方不明者が1人、負傷者が9人だったと発表しました。
新型コロナや大雪の影響が大きかったのではないかということです。
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【3】ウインパーの切れたロープの謎
当時、「魔の山」と恐れられ、登るのも躊躇われていたヨーロッパアルブスで唯一未踏峰だったマッターホルン(4478m)が初登頂されたのは1865年7月のことでした。テントの形式にもその名を残しているエドワード・ウインパー(25歳)ら7人によるものでした。初登頂は同時に下山時に4人が滑落し、1400m下の氷河に墜落して死亡するという悲劇でもありました。
このマッターホルンの初登頂を記録したウインパー著の岩波文庫「アルプス登攀記」は高校生の頃に読み、挿絵なども印象に残っています。
「悲劇のロープはなぜ切れてしまったか。」
「ウインパーのアルプス登攀記に記されたことは事実なのか。」
関係者の子孫や地元ツェルマットの人たちは疑問に思っているようです。ウインパーの切れたロープの謎についてもう一度読み返しながら考えてみましたので、ご紹介したいと思います。
当時マッターホルンはイタリア側のツムット綾の方がスイス側のヘルンリ綾より傾斜が緩いので、挑戦者たちはイタリア側からの初登頂を目指していました。その一人であった英国人のウインパーはすでに何回も挑戦していましたが、なかなか攻略できないでいました。同じようにイタリ人のジャン・アントワーヌ・カレルもイタリア側から国の威信をかけて初登頂を狙っていました。
すでにカレル達はイタリア側から登頂を目指して出発していたので、遅れをとったウインパーはスイス側のヘルンリ綾の方が登りやすいかもしれないと、スイス側から初登頂を狙ってアタックすることになりました。
ウインパーのメンバーは18歳のスコットランド貴族のフランシス・ダグラス卿、英国人の牧師で37歳のチャールズ・ハドソン氏、その友人で19歳のダグラス・ロバート・ハドウ氏と、シャモニーの名ガイドで35歳のミッシェル・クロ、スイス・ツェルマットのガイドで45歳のペーター・タウクヴァルターシニアとその息子の22歳のペーター・タウクヴァルタージュニアの7人でした。
ヘルンリ綾からのアタックは経験の浅いハドウ氏をサポートしながらも順調に進み、登頂を目前にしてウインバーはロープを外して競うように頂上を目指したそうです。無事、7人全員は登頂を果たすことができました。ウインパーは眼下にカレルたちの姿を確認し、大声で叫んだものの聞こえなかったので、岩を落として分からせたということがアルプス登攀記に書かれています。カレルたちは初登頂出来ないことが分かり、途中で下山してしまいました。しかし、3日後にやはりイタリア側からの登頂を果たしているということです。
さて、一行はは歓喜に浸った後、下山の準備に取り掛かりますが、挿絵画家でもあるウインパーは頂上からの風景をスケッチに手間取っている間にハドソンと相談して決めたいた順番でクロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿、タウクヴァルターシニアはロープを結び準備を済ませていました。ウインパーが登頂者の名前を瓶に詰めて残すという作業をしている間に一行は下山を始めていました。後を追ってウインバーとジュニアはロープで結び合って下山を開始し、二手に別れて下山していきました。
途中でダグラス卿から、誰かが足を滑らせたらタウクヴァルター・シニアは持ち堪えられないだろうから、ウインパーたちとロープで繋いで欲しいという申し出があり、7人は全員がロープで結ばれることになりました。
しばらくして、登山経験が浅く、体力的にもかなり弱ってきていたセカンドのハドウが足を滑らせて先頭だったクロにぶつかって二人は滑落してしまいます。ロープにつながれている後を行く二人がそれに巻き込まれて墜落してしまいます。タウクヴァルター・シニアとウインパーは岩にへばりついてロープを受け止めましたが、ロープはタウクヴァルター・シニアの前でプツンと切れて、4人は1400m下の氷河に墜落してしまいました。
「アルプス登攀記」には、ガイドのタウクヴァルター親子は取り乱し、泣き叫んでしばらく何も出来ない状態だったと書かれています。事故後、生き残った3人は何とかツェルマットまでたどり着くことが出来ました。
3人の遺体は氷河の上で発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は見つかっていません。
事故後、何故ロープが切れて4人が滑落してしまったのか取り沙汰されることになります。
「アルプス登攀記」ではウインパーは切れたロープは、持って行った3本のロープのうち古くて一番弱いもので予備として持っていったロープであったということ、ロープはぴんと張りきったままで切れたもので切れる前に傷がついた形跡も見当たらなかったと書かれています。
ウインパーは自分やガイド二人に落ち度はなかったと言っていたようですが、ガイドのタウクヴァルター・シニアの前でロープが切れたことで、タウクヴァルター ・シニアが自分たちの命を守るために意図的にロープを切ったのではないかと嫌疑がかけられ、検証が行われることになります。
結果はロープは意図的に切られたものではないとされましたが、ツェルマットで一番のガイドのキャリアは吹っ飛んでしまい、親子の評判は回復することなく、親子はしばらくアメリカに逃れることになります。
英国に戻ったウインバーも同様に世間から非難を浴びることになり、その弁明もあって「アルプス登攀記」を出版することになります。アルプス登攀記はウインパー自身の描いた挿絵も効果があって、ベストセラーになったそうです。ウインパーは当初ガイドには責任はないと言っていたようですが、時間が経つと次第にロープを選択したのは自分ではなく、なぜガイドが細いロープを選択したのか分からないと言い始めたそうです。本の出版によって評判を回復したウインパーは、初登頂を争ったカレルとその後も一緒にいろいろな山を登っていたそうです。
タウクヴァルター親子は英語が分からなかったので、ウインパーの主張や「アルプス登攀記」に書かれている内容が分からず、反論することもなかったようです。しかし、英語が分かるようになったタウクヴァルター・ジュニアは事故後に泣いて取り乱したのは逆にウインパーの方だったと言っています。
「悲劇の切れたロープ」はツェルマットのマッターホルン博物館に展示されています。スイスの登山用品メーカーのマムートはマッターホルン初登頂140周年の際に、切れたロープの強度試験を行い、耐荷重は300kgであり、そのロープではやはり4人の体重を支えることは出来なかっただろうと検証しています。
ウインパーによれば、墜落してしまった遺体は2番強度の長いロープに繋がれていたということで、切れてしまったのは3番強度の短いロープ、途中でウインパーがタウクヴァルター・シニアと繋ぐことになったのは1番強度の短いロープ、ウインパーとタウクヴァルタージュニアを繋いでいたのも1番強度の短いロープとなりますので、切れたロープだけに負担が集中してしまったと考えられます。ではなぜ、強度の弱かったロープを使うことになったのでしょうか。
最初に滑落した若者の子孫は当時の記録を調べ、事故のずいぶん後にウィンパー自身が「登頂前にロープを切った気がする」と書かれた文章を見つけ、これを事実として地元などではウインパーは登頂を競った時にロープを外したのではなく、切ってしまったので、帰りに結ぶだけの長さが足りずガイドは仕方なく予備のロープを継ぎ足さざるを得なかったのではないかという説が有力になっているようです。
タウクヴァルター・シニアがなぜ自分とダグラス卿の間だけ予備のロープを使ったのか、あるいは使わざるを得なかったのか明らかにされていませんので、真実は闇の中にしまわれたままです。
ウインパーは体調を悪くした晩年、見納めにとアルプスを訪れます。ツェルマットの再訪は登頂(事故)から46年も経っていました。彼にとってマッターホルンは「栄光の岩壁」ではなかったのではないでしょうか。
その足でモンブランの麓のシャモニーも訪れますが、その宿で心臓麻痺で亡くなり、その地の墓地に埋葬されました。シャモニーの名ガイトのミッシェル・クロはツェルマットの墓地に葬られていますが、シャモニーにはミッシェル・クロと名付けられた通りがあります。
タウクヴァルター親子はツェルマットに戻り、タウクヴァルター家と子孫はその後もツェルマットのガイドとして活躍しているそうです。プロの山岳写真家に転向した白川議員はリッフェル湖から見たマッターホルンの朝焼けに彼岸を見て、6年間通い詰めてアルプスの写真集を発表します。マッターホルンに登頂して山頂からの写真も撮りますが、その時にガイドしてお世話になったのはタウクヴァルターの子孫だったということです。
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【4】書評 河野 啓著「デス・ゾーン」
栗城史多のエベレスト劇場
「冒険や夢の共有」をテーマに「単独無酸素7大陸最高峰登頂」を標榜し、登山をLIVE配信していた栗城史多氏は2018年に8度目のエベレスト初登頂を目指すも途中敗退を宣言し、下山中に滑落遭難死(35歳没)しました。
栗城氏は当初は「お笑い」を目指すも転身して大学に入学し、3年生の時に強い興味はなかったものの、他学の山岳部に所属します。在学中に地元北海道で1週間程度の冬季峠越えをする程度の経験だけで奇跡的にマッキンリーの登頂を果たします。その後スポンサーを見つけながら、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロと各大陸最高峰を踏破していきます。
卒業後、プロの登山家としてカルステンツ・ピラミッドを登頂し、「ニートのアルピニスト」「単独無酸素7大陸最高峰登頂」のキャッチコピーでマスメディアでも取り上げられれる中、チョ・オユー、ビンソンマシフなども登頂し、2007年にはエベレストのみが残されていました。
そして、2009年からは2018年まで8回に渡りLIVE配信によるエベレストと他の高所登頂に挑戦しています。しかし、実力が伴わない挑戦だったのでしょうか、登頂成功したのはダウラギリとブロード・ピークの2回だけで、彼の挑戦はどんどん破綻していき、終わりを迎えることになります。ちなみに後述するネパール人のプルジャ氏と栗城氏は同い年のようです。登山のあり方や言動には賛否が別れる登山家でもありました。
昨年、「デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」という河野 啓 著の本が出たので読んでみることにしました。
河野氏は栗城氏を早い段階で取材し、番組も作っていた北海道放送のディレクターで、この著作は「開高 健ノンフィクション賞」を受賞しています。
著者は「単独無酸素」というのは本当だったのか、登頂を果たせなかったのにより困難なルートに挑戦していったのはどうしてなのか、なぜ9本の手の指を失ってもエベレストに挑戦したのか、本当に滑落死は事故だったのかなど、彼にまつわる多くの疑問を投げかけています。周囲の人からの多くの取材を通して「栗城史多氏のエベレスへの挑戦」はマスメディアの人間や一般人を観客に、巧妙な演出でスポンサーや大衆を惹きつけた虚構のエベレスト劇場であったのではないか、そして、「夢や冒険の共有」は大衆の熱狂と鎮静を経て、儚く破綻へと突き進んでいったのではないかと投げかけているように思いました。
著作中の「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」という著者の質問に対して栗城氏は即座に「それならエベレストには行きません」と明言したということから、栗城氏の登山が何だったのか示しているようです。
ただ、著作は多くの取材から栗城氏の虚像を暴いているようですが、栗城氏の本質に迫るまでのノンフィクションにはなっていないのではないかと感じました。逆に著者が関係者であっただけに主観が強く、言い訳のような著者自身の思いを感じさせられました。栗城氏のインチキを暴き、死者に鞭打つだけに終わってしまったのでは真のノンフィクションとは言えないのではないでしょうか。
高所登山に生き甲斐を見つけ、LIVE配信という手段に活路を見出し、そして破綻していった一人の若者の心情や内面に迫り、このような若者が出現した社会的背景、「夢や冒険の共有」に群がる大衆の熱狂と鎮静、そしてマスメディアやネットの功罪のなど現代の社会性に迫っていって欲しかったと思いました。
共有(シェア)という上部だけの薄っぺらな繋がりは人の人生や生死すらを左右しかねません。ドラマでも見ているかのように大衆は、ポチッと押しただけでお金や冒険・夢を共有できる現代社会の光と闇。自分を客観視できず承認欲求だけが強くなっていく若者の問題。リアリティー番組と称して番組を作り、動物園の檻の中を覗くかのように他人の生活を覗き見させ、言いたい放題言わせて自殺に追い込んで行くようなマスメディアやネットの功罪など。
栗城氏の35年の生涯から何を学ばなければいけないのでしょうか。一読してみて下さい。
河野 啓著「デスゾーン」栗城史多のエベレスト劇場 集英社 2020年発行
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【5】冬季K2の初登頂なる
国の威信をかけたネパールの登山家チームが16日、世界第2位の高峰K2(8611メートル)の冬季登頂に初めて成功しました。
K2はカラコルム山脈にあり、登頂には高度の技術を要するとともに冬季はマイナス50度の気温と風速50mにもなる強風のために、困難かつ危険な「非常の山」と称され、標高8000メートル級の14峰の中で唯一冬季登頂が達成されていませんでした。
登頂に成功したのは数日前から登頂を目指す2つのチームが合同し、協力し合って成し遂げたものでした。
チームの一つはニルマル・プルジャ氏(37歳)が率いる6人です。プルジャ氏は2019年に8000m級14座を約半年で完全制覇していて、現在世界最高と評価されている登山家です。
もう一つのチームはミンマ・G・シェルパ氏(34歳)が率いる3人で、それにセブン・サミット・トレックス (SST) 社の公募隊チームに所属するソナ・シェルパ氏(25歳)が加わりました。
10人全員ネパール人で、プルジャ氏以外はシェルパ族出身でした。これまで多く登山隊のために荷役やサポートをしてきた地元の登山家や山岳民族出身の登山家がスポンサーやソーシャルメディア、クラウドファンディングなどで調達した資金と積み重ねてきた経験で高所登山を成功させました。
プルジャ氏は18歳で英国陸軍のグルカ兵になって6年間従軍し、その後厳しい試験をパスして英国海兵隊所属のエリート部隊である特殊舟艇部隊SBS(Special Boat Service)に所属しました。SBSは機密偵察・急襲を専門としており、SAS(特殊空挺部隊)と並んで英国最高レベルの精鋭部隊だそうです。グルカ兵はネパールの山岳民族から構成される極めて強靭とされる戦闘集団で、英国軍のスカウト部隊が現地を巡回して集めているそうです。フォークランド紛争時にはグルカ兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼンチン部隊もあったということです。
16年間従軍した後、軍を離れてプロの高所登山家となり、「8,000m峰14座を7カ月以内にすべて登頂して世界最速記録更新を目指す」という大胆なプロジェクトを打ち立てて高所登山に挑んていくことになります。
「グルカと特殊部隊メンバーは、決して如何なる人も置き去りにしない」とトライヤル中にデスゾーンで何回ものレスキューにも加わっています。
シェルパや酸素など使えるものは何でも使い、不遜な物言いもしているので批判もされていもいますが、軍出身だけにタフで実行力が全ての新しいタイプの登山家のようです。
プルシャ氏とその支援チームはエベレスト、ローツェ、マカルーの3座をたったの2日と30分で登頂しています。昨年エベレストでの渋滞写真が話題となりましたが、プルジャ氏もこの渋滞に巻き込まれて、7時間も身動きが取れなかったそうです。投稿され拡散されたエベレストの渋滞写真もプルジャ氏が撮ったものでした。
ちなみに、今回のK2ではプルシャ氏は無酸素で登頂を果たしています。この時、純粋主義登山(酸素や他の力を借りないで登る高所登山形式)のスペイン人登山家のセルジ・ミンゴテ(Sergi Mingote)氏はベースキャンプへの下山中に転落事故で死亡しています。
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【6】登山道でもQRコード?
キャッシュレスやURLなどの情報を初め、今やQR(二次元)コードは色々なところで使われていますが、登山道でもQRコードを利用する試みが始められています。
スマホの普及により、GPSとMAPを連動させたスマホ用のアプリを活用している登山者も多く、今やスマホは登山用具の必需品にもなってきています。
九州北部にある背振山(1055m)を中心とした背振山脈は地元を中心に親しまれているそうですが、西南学院大学ワンダーフォーゲル部のOBや現役、早良区役所は協同して脊振山系での道路標識設置の活動を進めているそうです。「脊振の自然を愛する会」を設立し、2019年には日本山岳遺産に認定され基金の補助金を活用してQRコードを取り入れたレスキューポイントの標識の設置活動をしているそうです。
標識にあるQRコードをスマートフォンで読み取れば現在地を確認できる仕組みになっていて、道迷い防止のほか、登山中の急病や負傷時など、消防隊への正確な通報や迅速な救助につなげられると期待しているそうです。スマホの操作に慣れてない人にも役立つように各標識にはナンバーを振り、通報時に居場所を知らせることができるということです。
これから、自然観察などの情報提供なども含めて山でもQRコードの入った標識を見かけるようになるのでしょうか。ちなみに、丹沢の大倉尾根でも塔ノ岳までを45のポイントで示し、警察の連絡先を記した道標が設置されています。
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【7】行ってきました Now
雲竜渓谷(2018年2月4日) 伊予ガ岳(2017年2月5日) 棒ノ折山(2016年2月7日)
妙義山(2019年2月7日) 奥久慈男体山(2018年2月8日) 戸倉三山(2020年2月9日)
雲龍渓谷(2019年2月12日) 鎌倉アルプス(2016年2月18日)
丹沢表尾根(2017年2月19日) 岩殿山(2019年2月21日)
官の倉山(2020年2月23日) 高尾山(2016年2月25日) 伊豆ヶ岳(2016年2月28日)
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【8】編集後記
今月はお店での仕事がお休みなのですが、緊急事態宣言が出されている事もあり、長いお家時間になっています。本を読んだり、大型テレビに買い替えての視聴などしていたらあっという間に1ヶ月経ってしまいました。
長いメールマガジンになってしまいましたが、不要不急の外出?は避けて、ボチボチ読んでいただければ幸いです。
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【9】記事の募集とマガジンについて
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