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「御嶽山噴火 生還者の証言」を読んで

「御嶽山噴火 生還者の証言」

あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み 小川さゆり著

この事故では58名が死亡、5名が未だ不明のままになっています。2014年9月10日、11日と火山性微動が50回を超えていたものの、警戒レベル1は継続のまま11分前に登山者には気づかれない程度の微動の後、11時52に唐突に水蒸気爆発を起こしました。

噴火は秋の紅葉シーズンまっさかりの晴天の土曜日、そしてお昼の時間帯であり、山頂付近には250人ほどの登山者がいたと言われています。御嶽山は1979年10月28日にも水蒸気爆発を起こしているものの登山シーズンからは外れており、また噴火もゆっくりだったこともあり怪我人は出たものの死者は一人もありませんでした。

今回の噴火は一番人が集まっている時間帯に逃げる余地も時間もなく一気に大きな爆発が起こってしまったことで多くの被害者を出すことになってしまいました。運も大きく作用していたのでしょうが、火口近くにいたにも関わらず生還した人もありました。

その一人が登山ガイドをしているこの本の筆者の小川さおりさんでした。不幸中の幸、運にも恵まれたのでしょうが、当日の登山はガイド登山ではなく身軽な単独での下見登山であり、彼女は登山経験に基づいて臨機応変に対処したことで命を免れました。

この本は小川さんの噴火時に居合わせた経験を元に登山ガイドとしての視点から他の証言も混えながら御嶽山の噴火はどんなものであったかを教えてくれるものです。

いつ何時どんなことが起こるか分かりません。日本の代表的な山である百名山で言えばその34座が活火山にあたります。心の備えとして噴火とはどんなものなのか知っておく必要があるのではないでしょうか。

以下、小川さんの体験した噴火からその終息までの状況について小川さんの証言について抜粋してまとめました。


「ドドーン」というあまり大きくない低い音がした。剣ヶ峰の右奥に、見上げるほどに立ち昇った積乱雲のような噴煙と青空一面に放り出された黒い粒を見た。視界を遮る腐卵臭のするガスに巻かれた。温泉地にある「立ち入り禁止」の箇所で、もくもく出ている、あの少し黄色味かかった濃いガスだ。

噴煙を見てから20秒あったかどうか。鼻につくそのガスが喉に張りつく。ガスを吸わないように我慢するが、苦しくて吸ってしまう。酸素ではないので吸えば吸うだけ苦しくなっていく。喉を押さえてのたうち回る。

「もうダメだ」そう思った瞬間、風向きが変わったのかガスの臭いはするが、何とか息ができるようになった。今生きているので、そう長い時間ではなかつたと思うが、このとき、一番死ぬ恐怖を味わった。

1分くらいだろうか。それ以上長かったらここで死んでいた。視界はうっすらと自分たちの周りだけは見えていた。ついに放り出された噴石が降り出した。噴石を見てから2分弱はあった。その音は、説明しにくい凄まじいものだった。山で聞く落石の「ブーン」という音よりさらに早く、それが雨のように大量に真横に飛んでくる。噴石が山肌にぶつかり砕ける音と焦げくさい臭いがした。口の中はじゃりじゃりで水分がなく、喉が張りつきそうだった。噴火から6分くらいだと思う。

12時少し前、冷たい新鮮な空気が吹き込んだ。ガスの臭いのない新鮮な空気だった。15秒くらいで2回目の爆発があった。12時くらいのはずである。辺りは真っ暗闇になる。目の前にかざした手のひらが見えない。まったく見えない暗闇のなか、噴石が飛んでくる絶望的な音や鈍い爆発音も聞こえた。噴石と一緒に小さな石の粒がざんざんと降り出し、あっという間にしゃがんでいる腰まで埋まった。熱くはなくちょうど砂風呂に入っているようだった。

そして3回目の爆発が起きた。時間はおそらく12時30分くらいだと推測する。「ドッカーン」という物凄い音がした。時折ぼんやり見える視界を小さな穴から肩越しに見ていると、灰色のなかをレンジ、洗濯機ほどの黒い影が一瞬で視界から一ノ池方向に消えていった。そして軽トラックほどの黒い塊を見た。ずっと暗闇だった。

噴石が止んできた。真っ暗闇のなか雷が横に何本も走った。剣ヶ峰方向に、今度は縦に雷が3本走った。噴火してから約1時間。12時50分ごろ。最初はぼんやりと、次第にはっきりとあっという間に視界が開けた。目に映るその光景に息を呑んだ。見えるものすべてが真っ黒だった。まったく色のない世界に一変していた。私は稜線から全身が隠れる岩場を探し、一ノ池方面に下っていた。

私は急な斜面を足を怪我しないように慎重に、かつ大胆にかかとを使いかなりのスピードで駆け下りた。膝上まで積もった灰は、新雪のなかを走るように私にスピードをくれた。

セメントのようなべたべたした雨が降ってきた。セメントのような雨はすぐに止んだ。セメントのような雨が靴の裏につき、そこに火山灰がつく。靴が重く高下駄のようになる。ちょうどアイゼンに雪がつき「だんご」になるのとまったく同じである。・・・私はここに来て「助かった」というより「生き抜いた」と感じた。そして「ホッ」とした。


小川さゆり 著 ヤマケイ新書 2016年10月5日 山と渓谷社 あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み

八甲田山雪中行軍遭難事故

”八甲田山雪中行軍遭難事故”は1902(明治35)年1月、対ロシア戦を想定し青森の大日本帝国陸軍歩兵第5連隊の特別編成部隊が寒地での兵営の研究と訓練の一環として計画・実施された”八甲田山雪中行軍”により参加者210名中199名の死者を出した日本史上最大の遭難事故です。この遭難事故については既にさまざまな資料が世に出ていますが、元自衛官という視点で”八甲田山雪中行軍”を明らかにしようとした伊藤薫氏の「八甲田山消された真実」 (山と渓谷社) が今年発刊されました。(2018年2月1日発行) 伊藤氏は該当の連隊を母体とする部隊に所属したこともある元自衛隊員で八甲田山雪中行軍について証言や残された資料などをもとに事故が陸軍によって隠蔽され、捏造された部分があったことを指摘するとともに事故の真相を探った書籍です。映画でしか知らない方も多いと思いますので、この書籍を元に八甲田山雪中行軍についてまとめてみました。この情報はいくつかの限られた情報を元に個人的にまとめたものですので、不正確な部分も多々あるかと思います。ご覧いただく方はそれをご理解いただき、覧いただければと思います。

<当時の状況について>

大日本帝国陸軍歩兵第5連隊(以降第5連隊に略)は東北鎮台の第1分営として1871年旧津軽藩士で組織され、弘前に配置されたものを母体としています。西南戦争への参戦を経て改編を繰り返し、1975年に北方警備の地理的条件から青森に配置変えになります。青森県は廃藩置県の折には弘前に県庁を置く弘前県としてスタートしましたが、その後間をおかず津軽と南部に分かれた行政区分の意識の統一を図るべく当時片田舎の漁港だった青森に県庁を移し県名も青森県と変わりました。したがって、当時の青森の屯営地は片田舎のさみしい寒村にあったようです。

時代は列強の植民地政策の中で、明治政府は富国強兵の名の下に経済を発展させ、西南戦争を経て大陸への侵攻も視野に軍隊が増強拡充されていくことになります。1894年朝鮮半島をめぐり大陸での清国との戦争で朝鮮での日本の覇権、遼東半島の割譲と多額の賠償金を勝ち取ることになります。しかし、ロシア・フランス・ドイツのいわゆる三国干渉によって手放さざるを得なくなってしまい、その後ロシア帝国の南下政策により朝鮮半島の覇権争いが生ずることになります。そんな状況の中、1896年に青森、秋田、山形、岩手と宮城の一部を徴募区とする第8師団が誕生し、新たに弘前に連隊本部を置く歩兵第31連隊(以降第31連隊に略)が誕生します。第5連隊も改編され両連隊共に第8師団の隷下に入ることになります。改編時第5連隊の兵員は地元の青森県出身者で構成されていましたが、その多くはまるごと第31連隊に異動し、歩兵第5連隊は岩手県出身の者を中心として宮城県出身者を加えて新たに編成された混成部隊としてリスタートすることになります。第31連隊は地元の文化伝統が引き継がれていったのに対して歩兵第5連隊は新しく徴兵されたものの寄り集まりでまとまりに欠けていたという実態があるようです。

大日本帝国陸軍は日清戦争以降、大陸での戦線に備えた寒地対応の研究と訓練を進めていました。寒地にある青森県の第5連隊と第31連隊にはその研究が期待されていたようです。中でもリードしていたのは第31連隊であり、福島大尉がその急先鋒であったようです。この福島大尉は映画「八甲田山」で高倉健が演じた死者を1名も出さず八甲田山雪中行軍を成し遂げた徳島大尉のモデルとなった人物です。福島大尉は下士候補生などで特別編成した部隊を使って地元の岩木山山腹など県内の高地での寒地研究に積極的に取り組み、実績と功績を挙げていました。それに対して第5連隊は1泊2日の将校以下209名での雪中行軍訓練を実施したもののダラダラ坂にも関わらず橇を上げる事が出来なかったなどの失敗もあり、十分な研究・訓練がなされておらず、また成果もあげられていなかったようです。両隊は同じ青森県にあってかたや伝統ある部隊であるものの片田舎の青森を駐屯地とする第5連隊と、弘前を駐屯地とした新しく編成された部隊の31連隊ということでいろいろな面でライバル関係あったようです。

そんな状況の中、対露戦やむなしとの態勢が決せられ日英同盟が締結された1902年(明治35年)、第31連隊の福島大尉は十和田湖をまわり、第5連隊の裏山的存在の八甲田山麓の田代、青森を経て弘前に帰営する11泊12日の雪中山麓踏破の計画をぶち上げます。著者の伊藤氏は第5連隊の八甲田山雪中行軍は1900年に着任した連隊長の津川中佐が第31連隊に先を越されてはならないと神成大尉(映画では北大路欣也が演じた神田大尉)に企画させたのではないかと述べています。それまで第5連隊では雪中行軍の成功実績もあまりなかったにも拘わらず第31連隊の福島大尉の計画に対して第5連隊がそれを先んじるべく日程を逆算して雪中幕営と橇による物資の輸送などを目的として、特別部隊を編成して田代新湯を往復するする1泊2日の行軍訓練となったのではないかと推論しています。計画ができたのは実施の2日前で、安易な見込み、安易な計画による俄か部隊の編成だったと指摘しています。地域のことを知っている地元出身の兵はおらず、形だけの予備行軍の実施のみで、目的地までの状況を把握できている下士官は誰もいなかったようでした。また、前日に大きなイベントを組んでいたり、雪中訓練に参加する伍長が前夜遅くまで酒を飲んでいたりと誰もが簡単に行って帰ってこられるとたかをくくっていたのではないかと指摘しています。それに対して第31連隊の福島大尉はあらかじめ部下に「足はよく洗って爪を切り清潔にして、脂を塗っておけ。」「放尿後は、ふんどしと袴下(こした=ズボン下)で陰部を包み、軍袴(ぐんこ=ズボン)のボタンを拭いておくのを忘れるな」など細かく30ヶ条の指示を出すなど経験に基づいて周到な準備をしていたようです。ただし、1名の死者も出さず11泊の行程を踏破した第31連隊の雪中行軍と第5大隊の雪中行軍は目的も規模・性格も大きく異なっていたようです。

第5連隊の訓練の目的は雪中幕営をともなった橇による物資の輸送による行軍であり、物資を大型橇に搭載して曳航しながら一定の規模の兵卒を従え雪中で野営するという計画でした。指揮官はこの訓練を企画した神成大尉であり、兵卒は194名、他に将校は5名(中尉4名、少尉1名)でしたが、見習士官の教育担当として上官である第5大隊長の山口少佐以下編成外として9名(大尉2名、軍医1名、特務曹長4名、見習士官2名)が随行していましたので総勢210名になります。著者の伊藤氏は部隊の最上級士官は山口少佐であったことから少佐が事実上の統率官であったこと、士官のほとんどが士族や華族出身で指揮者であるものの平民出身の神成大尉と伊藤中尉は信頼しておらず、命令系統の危うさがあったと指摘しています。

行程は1月22日に部隊のある青森の駐屯地を出発し、国道を経て八甲田山の麓にある無人の田代新湯で露営し、翌日帰営する往復約40 Kmの1泊2日の計画でした。地元住人から止めるように、また案内人を立てた方がいいと忠告(申し出)があったものの、断って軍人だけで行軍を実行しています。食料や共同装備は橇に積んで幕営地で食事を作って供する計画でした。初めのうちは順調だったものの、柔らかい雪道のために橇の曳航に時間がかかり、隊全体の行程にもはなはだ影響が出てきて、目的他までの半分くらいにから風雪が強くなってきていたこともあり、進退の協議もあったようですが前進が決定されました。遅れた橇隊を後ろに本隊は進んでいきましたが、目 的地の手前で天候が悪化してホワイトアウトの状態になり道に迷うことになります。そして、ついに18時ごろ緊急幕営を決断します。露営といっても掘るための十分な道具の用意もなかったので幅2m×5mで深さ2.5m程度の穴を5個掘り、1個の雪壕につき40名が立ったまま並んで入って休む程度のものだったようです。橇が到着したのはすでに21時を過ぎていたようで、地面まで掘り進めなかったため、雪上で食事の準備に取り掛かるもののうまくいかず、結局1時半ごろ生煮えの飯と餅、かんづめの食事をとるだけになってしまったようです。兵士は軍歌斉唱と足踏みで寒さを凌いでいたようです。1時半ごろに翌朝5時の帰営が決定されたものの、急遽2時半ごろに1時間程度の仮眠だけで道もわからないままに幕営地を出発することになります。5台の橇のうち4台がこの幕営地に置き去りにされ、荷物は兵卒に分担されました。しかし、とりあえず昨日来た方向と思しき方に向かって行く訳ですが、やはり帰営の道が分からず幕営地に戻ることになります。しかしその途中、道が分かったと言う伍長の進言があって再度目的地への行軍に変更されることになります。筆者の伊藤氏は証言や残された記録によるとこの行軍では指揮官の神成大尉の指示、命令が明確に登場しておらず、事実上の命令は少佐がしていたのだろうと指摘しています。強風吹が吹く零下の気温の中、粗末な防寒具、蓄積された疲労、不十分な食事など、まさに今にして考えれば必然的に低体温症になるべくしてなったことが伺えます。指揮官の判断力、兵卒を含めた隊員の体力や精神力も限界を超えていたのでしょう。14時間以上も雪の中を彷徨い、第一幕営地から正規ルートで700mくらいの地点で掘る道具もなく寄り集まった状態での2日目の露営となります。すでに十数人の落伍者も出て来ており、中尉が死亡したこともあり、極限の寒さの中で失望、焦燥、喪失感もあり精神的に破綻した者も多く出てしまっていました。そして、3日目にして神成大尉の「神は見放した」的発言が隊の張り詰めたモチベーションの糸が切れたことによってその後脱落者が多数出てしまう引き金になったようです。すでに部隊としての体をなさず、25日の幕営を迎えることになります。部隊はすでにバラバラとなっており、生存者も少なく、また残された証言も定かではなくなっていたようで正確な事実は判明されていないようです。また、救援隊の遅れについても問題視されています。

27日になって、仮死状態のまま半分埋まった状態の後藤伍長(記念像のモデルとなった)が発見され救出されます。近くにいた指揮官の神成大尉は既に死亡していました。各所で16名が生き残った状態で救出されたものの、後日6名が亡くなってしまったので生存者は最終的には11名だけになってしまいました。最高指揮官だった山口少佐も救出されたうちの1人でしたが、病院で心臓麻痺で衰弱死したと発表されています。新田次郎の小説「八甲田山の彷徨」では責任を取ってピストル自殺したことになっていますが、両手両足とも凍傷だったのでピストルで自殺は到底無理だったようです。また、軍上層部による毒殺説、服毒自殺説など責任問題と合わせてその死因についても取りざたされています。

<福島大尉と第31連隊>

第31連隊の雪中行軍の特別編成部隊は福島大尉を中心として見習士官と士官候補生によって構成される37名の精鋭部隊であり、民間の新聞記者1名が帯同していました。

1月20日に弘前の駐屯地を出発し、220kmの行程を11泊12日で踏破する計画でしたが、宿泊と食事はあらかじめ連絡しておいた地元の旅館や民家を使って饗応させるようなものだったようだようです。また、地元の案内人を先頭に立たせ、道案内とラッセルをさせての行軍でした。

第31連隊は地元青森出身の者が中心であり積雪期対応の訓練がすでに何度も実施されており、その最終段階にあって知識や経験の蓄積が末端の兵隊にも指示命令されていたようです。また、小規模だったこともあって指揮系統が十分機能していたことも第5連隊とは違っていました。結果、第5連隊は目的地に至らず190名の死者を出してほぼ全滅してしまったのに対して第31連隊は道を見失って一時ビバークするも、1名の死者も出さず220Kmを踏破するという結果を残しました。

しかし、著者の伊藤氏によれば福島大尉は功名心が強く、寒地研究のために見習士官などを使って冒険的な研究訓練を実施していたこともあって経験と研究の蓄積もあったことを指摘しています。

映画では高倉健が演じた徳島大尉(福島大尉)は周到な準備を整え、部下などに対しても地元の案内人(秋吉久美子)に対しても人情味ある誠実に対応する人物として描かれていますが、実際の大尉は案内人を道案内だけでなく常に交代で先頭に立たせてラッセルをさせ、食事の世話も含めて使い果たし、挙げ句の果てに安い賃金を払って見捨てるという冷酷な処遇であったようです。やはり第5連隊同様、田代新湯への道が分からず、本隊はビバークしつつ案内人に道を探させ、見つけた小屋には全員が入りきれなかったので案内人は交代で外で足踏みをしながら朝まで休憩をしていたそうです。無理やり案内人を連れて案内させられた村人の7人は全て重度の凍傷を追いながら、難関を突破した途端わずか1人2円の金を与え、二日間のことは絶対口外すべからずと命令し置き去りにして行ってしまったということです。後にこの案内人は地元では「七人の勇者」として讃えられているようです。

青森5連隊では雪の強い日になると、必ず八甲田山方面から「これから帰軍するぞぉ~」という合図のラッパと、大勢の兵隊の行進する足音が聞こえ、「お前らは既に死んでいるのだ!廻れ右!八甲田へ帰れ!」と命令すると、足音は遠ざかっていったという怖い話も残っているようです。

福島大尉が雪中行軍に出発する前、部下に与えた30カ条のアドバイスの現代語訳はこちのHPに記載があります。  http://www.tanken.com/hakkoda.html

「続らくがき中間報告」 高梨三郎

学園の毎日は、希望と失望・苦悩と偕楽・憎しみと愛情・喧噪と静寂等々が、ごちゃごちゃになって未来へ向かう。

そこには感情のもつれもあれば、なぐさめもある。

卒業生を送り、新入生を迎え、教師と生徒の歯車は廻転する。こうした生活のなかで、忘れられたように教室の壁・机・あるいは扉に刻みこまれた小さな歴史は、すましこんでなにかを物語る。

私は「吠える」の1954年5号に”落書中間報告”なる一文を発表した。

これはその続編である。

・・・・・小さな歴史に・・・・・

点・線・丸・三角・四角などの楽書は、どこの学校の教室にもあるもので2年前の作品(?)と変わりはない。一般的なものに、バカ野郎から忠君愛国。ピカソ調から映画女優の名まで刻み込まれたりかかれたりしてあった。

以下一年前の高校生教室の楽書作品から紹介してみよう。

一番多いのは、やはり○○の馬鹿とかバカ野郎である。決して○○の利巧とはかいていない(小学生などの作品には○○のおりこうといったものがあった)。また季節によって楽書の場所も、楽書に使用される道具も変化する。冬ならば日当たりのよい窓ぎわとか窓に、ストーブの煙突(室内の部分)に、白墨・鉛筆・焼火箸様のものをつかった跡がみうけられた。例えば、ストーブの煙突に玉川勝太郎(浪曲家)の名が大書してあったり、Wの字が乳房を表現していたりしていた。前者の楽書についてはその教室の某が大の浪曲ファンであることをきき、楽書の主を推定することができた。

個人に対しての楽書は割合に多かった。○○はクサイ。○○はスケベ。あるいは性交=性病とかいた予防医学的楽書や清舎=陰舎とかいてあったり、当番割当表の下に悪口を記入したもの。古風なものに相合傘になかのよい友だち二人の名がかかれていたり、地理的なもので神奈川県とか北海道とかいたものや絵画的なものに裸婦。原始的なものに性器。時代的楽書ではスローガン・ストライキ・八頭身とか鉛筆あるいは万年筆でかかれていた。

変わったのは教室の柱に身長を計る目盛りが刻まれ、その各目盛りには5尺5寸・5尺3寸・5尺の三段階に区分され、5尺の目盛りには栄養不良、5尺3寸には平均身長(これが彼等の標準身長か?)、5尺5寸には健康児の身長とかいてあった。さらに5尺5寸から上に矢印がしてあって ”延びすぎ ”とかゝれていた。この楽書はチビがノッポに対するレジスタンスなのだろうか?彼等の頭にも八頭身にあこがれる流行がはいりこんでいるのだろうか?もっとも伊藤絹子嬢の名を口にする生徒もいるのだから当然かも知れない。

黒板楽書には教師生徒のアダナを白墨で大書してあったり、1時間前に教師のかいた文を改悪したりするのが多い。例えば関東地方を関西地方に、三角州を六角州、濃尾平野を濃頭平野にかきかえたイタズラがあつた。このうちきわだつたのに、2外テスト範囲の課=助動詞の変化と白墨でかいてあるその下にその例として I  love  youとあったのにはびっくりした。

2年前の楽書には「あゝわれすゝまん」とか「勤勉」とかの楽書があったが近頃のものにはあまりなかつたようだ。

一般的で複雑でこまかい楽書は、講堂の机にみられた。何年か前のカンニングのコン跡やら教師や友人の悪口、線、丸、四角などさまざまである。

・・・・・楽書のもつ意味・・・・・

らくがき(楽書、落書)は生活の余りであるともいわれるし、また飢えにあらわれるともいわれる。いずれも否定できない。どのらくがきも、はじめに在るらくがきにならって生まれているらしい。

反射的・並列的・近接的に存在する。

フランスのカタコンボの地下納骨所の岩壁両側に—

「死はいずこにありや 然り死は永遠にあり 急然として訪れ来たる されど跡方なし」

といつた深刻型のらくがきやそのほか沢山のらくがきがある。そのなかに日本人の ” 某中佐一行観之何年何月 ” と署名したのんびり型のらくがきがあったそうだ。日本人の性格の一端を物語っているといえよう。併しフランスのらくがきは岡本太郎氏にいわせると、政治デモの文句が多く例えば ”亡国○○党を倒せ ”  “ ○○党万才 ” “ ○○を絞首台にあげろ ” といった調子だそうである。

ここでらくがきについて考えてみよう。私は前の文(5号)でらくがきのことを落書とかいた。これはらくしょとよむが、らくがき(楽書)とらくしょとは異った性格のものと思っている。落書などは嘲弄とか諷刺の意味をもつもので衆人の目に触れやすい所に、あるいは権力者とか権勢家の門などに貼りつけたりする一種の反抗、諷刺とから起ったものである。日本では鎌倉、室町時代にもさらには江戸時代に入って隆盛をきわめた。この面からもその時代の政治とか民衆の生活の一端を知ることができるわけである。

楽書となると諷刺とか批判とかの意味よりも一種の遊戯であって、今日学校内部で多くみられるものは落書のごとき内容はとぼしいと思われる。勿論楽書が全く社会性をもたぬというのではない。もしそうならばそれは誤りである。学校という集団の場が個人の生活や社会環境の影響をもって種々の色づけられるのは当然であり、各人の潜在的意識の反映がみられ、楽書となつてあらわれるのである。

人間は行動する。ある目的をもって行動する。行動することによって反省したり、されたりする。そこに向上が発展が生まれる。従って楽書が単なる遊戯的でないような内容をもった場合つまり批判したり、諷刺したり、反抗したりするような内容をもつものであるならば、その環境は決して正常な状態にあるとはいえないだろう。

もう一歩進めて考えてみよう。

落書とか落首とかいうものは、それ自体発生して来た状態を考えあわせるならば、そこに抑圧された社会があったり、言論の弾圧や、圧迫された民衆を発見することができよう。幸福な正常な健康な社会であるならば批判的、反抗的、諷刺的らくがき(落書)はでてこないだろう。らくがき、落書が政治に対する批判と言論弾圧に対する反抗的なものであるとしても、そういった社会をらくがき(落書)という手段でよくすることは不可能であって、問題解決にはならない。それは民衆のセツナ的興奮による独善的自己満足に終ってしまう心ない政治家、指導者にとっては、このような形で民衆がウップンをはらし、正統な要求を忘れてくれた方が都合がよいのではあるまいか。

・・・・・学園と楽書について・・・・・

学園の楽書が決して健康的なものであるというようなオベンチャラ的言を私はかかない。また独協で生徒が反抗したり批判したりする程の問題はないと思われる。もしあるならば楽書という前時代的行動は ” おやめなさい ”。それより堂々と生徒会なり教師なりに提言すべきだと思う。勇気というのはそういうときにつかうのだ。

×    ×     ×    ×

社会が健康であれば、らくがきにもその反映があるだろう。

生徒は教室と生活し机と一緒にいる。机の上で苦しみ、なげき、怒り、わらい等々を通じ社会へでていく。その一端が楽書になってあらわれる。あとからあとから楽書がつみ重ねられ、けづられ、かかれることによつてあやまちを意識し、反省し社会へでていく。彼等の残していった小さな歴史が、きっと社会にでて大きな歴史の上に楽書でない跡をのこすだろうことを私は希望している。

附記

私がらくがきを落書とかいたのも意識して書いたのである。諸君のうちで、この点についてなんらかの反応があるのではないかと期待していたのだが・・・。

尚、フランスの楽書についたては李家正文さんの著書を参考にした。この文は楽書奨励のためにかかれたのではないことを明確にしたい。諸君等は紳士であるから私は信用している。

DWV顧問 高梨富士三郎


獨協学園 文藝誌「吠える」1956年7号より転記しました。

 

「落書中間報告」 高梨三郎

「立てばコンニャクすわれば豆腐、あるく姿はフラダンス」=
これは某先生を形容して、よめる中学生のつくった歌で、あの先生ですよといえば、なるほどと思うくらい立派な?できばえである。

このように時間中教室で内職している生徒は1クラスに3、4人はいるものだ。

これらの芸術家?は先生の眼をたくみにのがれ、美術作品を作製し、もっばらクラスの文書活動を担当しているものである。

以下2、3紹介してみよう。先生の似顔をかく、先生のアダナを手紙で発表連絡するなどは序の口、常習者になると筆談している者、他の科目の宿題を一生けんめいやっている者、喫茶店なみに世間話をしている者等々数限りない。

さて落書についてであるが種類も多くその区分にまよう。

○落書きされてある場所と種類=机の上、横、椅子の脚、教室の壁、柱、黒板、廊下、便所、教科書、ノート、鉛筆入れ。

○落書に使われた道具=ナイフ、安全剃刀、万年筆(釘、三角定規カド、コンパスのさき等)このうち一番多いのが万年筆と鉛筆で、机の上、横がある。

中学2年某クラスを調べた結果は、机の上と横で=線36、丸24、三角13、四角7の落書があった。一般的に内容も高校生の場合=女優の名と生徒の名、ハートに矢印、丸、線、三角、四角。変形として、のぞきアナ(机の上から机の中がみえる)。迷路型=のぞきアナと線が結びついてビー玉パチンコ玉をころがし玉あそびのできるように溝がほってあるもの。

壁になると落書きも社会性をおびて内容も、反抗、嘲笑、揶揄的になる。たとえば○○は赤だ、○○はスケベ。ワイフ百人あり、歩兵軍曹○○は戦死せり。禁男の家。禁女の家。○○は文学者カストリ天才博士。エロ文学者。○○は六人の女をリーベそれとか、青山京子(女優)と○○の名前が相合傘でかいてあるものもみられた。以上は大体かつての高一の教室であったこところからあった作品である。これが中学生になると独協のマーク。ABC。丸、三角、四角、線などがもつとも多く、なかには飛行機、ブタ、ガイコツ、サツマイモ等の戯画がみられた。最近ではレスリングばやりのせいか「力道山」とかいたものを23発見した。流行歌の影響と思われるものに(2年生の机)「バイヤコンデオスマイダアリン」(原文のまま)があった。それでは卒業生の作品を紹介する。「あゝ我すすまん」「われときてあそべや彼氏のない彼女」” Good boy ”。こまった作品に、” I +you=kiss “とか、黒板へクラス委員のかいた「不正行為を禁ず」の注意事項わきに「性行為も禁ず」とあったのにおどろいた。これには勿論注意しイタズラがすぎることをたしなめたことを記憶しているー。

昨年スターリンが死んだ翌日だったか壁にスターリンの名がかいてあったのには考えさせられた。・・・・・もしこれらの落書きがそのかかれた ” とき ”    ” 社会関係 ”    ” 青少年心理”との関係から分析したら、もつと彼等の考えていることがうかがえるかも知れない・・・。

最後に残ったのが便所の落書であるが—彼等生徒は紳士であることを私は知っている—ので教員便所のチイサナ落書きを附記しておこう。旧教員便所の一番奥に何か計算したらしい落書がある。給料残額の計算か借金の計算か、かいた者も教員、事務の人、部外者か判然としない、けれどサラリーマン階級の作品であることだけは確かであり、またその数字もそれを物語っていると思う。

生徒達は教室と生活し机と一緒にいる。机の上で苦しみ、なき、おこり、わらい、そして社会へでていく。落書そのものの行為は確かに悪い。けれど落書は一方で幾つかの歴史のあとをのこしていった。そしてあとからあとから落書がつみ重ねられ、けづられ、かかれることによつて生徒達はあやまちを意識し、社会的に成長していった。いきつつある。生徒が去った教室で、じっと机をみていると一人々々の生徒の顔が姿が浮かんでくる。

最近旧校舎から新校舎にうつったが落書をさがしてもみえない。校舎の新しさと対照的な古い机、その古い机の上に落書はいきている。一年前に誰がつかったとも知れない机の上に線が、丸が、人の名が無数にかかれ、ほられてある。そして誰もが将来に希望をもって鉛筆を万年筆をにぎった机、そこには新校舎にない歴史がある。小さな彼等の歴史がやがて大きな歴史の上に大きな跡をのこすことを私達は知っている。この文は落書を奨励するためにかいたのではない。落書をいくつか並べてみてみせつけることによって、彼等は何と思うのだろうか。私は落書を過渡期の現象と考えると共に、亦特別なことを考えている。


故高梨富士三郎先生の獨協学園文藝誌「吠える」1954年5号の中のエッセイになります。この「落書中間報告」には続編があります。後日転載の予定です。

 

西 穂 高 遭 難 の 教 え る も の  皆川完一

金子君の遭難という悲しい現実に直面し、いままでしばしば問題になって来たことであるが、ここでもう一度ちかごろの高校生の登山について考えてみたいと思う。

私たちのいうスポーツとしての登山はあらゆる意味に於て高きをめざしている。しかし低 い山よりは 高い山へ、登るに用意な山よりは困難な山へ、夏山よりは冬山へ、既知の山よりは未知の山へ、と発展していく過程も、決して1足とびに経過出来るものではな くその間に多くの研究と訓練とを必要とする。このことは登山の歴史を考えてもわかるであろう。今日のように氷雪の山を登るに至るまでの登山界の変遷は、個 人の中に於いても経過されなければならない筈である。生物学の原則が教える「個体発生は系統発生をくり返す」ということをここに持ち出すことも、あながち 不適当とは思われない。こうした原則は登山についても必要であるような気がする。

高校生の登山、いな今日一般の登山の風潮について多くの欠陥を指摘をする前に、全般的 にみて先ず基礎的な研究と訓練の不足を問題にしなければならない。特に 高校生に於ては経験の不足ににも拘らず、氷雪の山に登るのは多くの無理がある。それよりも夏山に於て、充分な訓練と豊富な経験をつまなければならない。今 日の登山界の動向、或は高校生の若い意気からは、夏山の縦走などは、或は価値のないものと思われるかも知れない。しかしそこにも登山としての立派な意義が ある。このような登山を経験してどうして、登山を知らぬものの、登山は冒険を目的としてスリルをたのしむ馬鹿げた行為であるという考え方に反撥することが 出来ようか。夏山のピークハンテングから更に発展して岩登りに到達しても、やはり高校時代は基礎的な訓練に終始しその間に単に技術書から学んだ机上の知識 ではなく、身についた経験とどんな危険に遭遇しても、活路切り開く実力と意志とを養成しなければならない。これらの基礎的な訓練の上にたってはじめて氷雪 の山をめざすことが可能になる。しかしそれは年令的にみて高校生の経験では無理というものであり大学山岳部に入ってから上級部員と先輩の指導によって、冬 山の醍醐味を味わっても決しておそくはあるまい。

高校生の冬山が無理だというのは、単に個人的な研究と訓練の不足から来るものではない。冬山に必要な経験をつませる組織も問題になる。当然のことであるが、冬山の実力というものは個人的には充分に養成されるものではなく、山岳部のような団体の中にあって先輩の指導の下に統制ある訓練を必要とする。また冬山に必要な厖大な装備にしても、個人的に全部揃えることは経済的に無理であり、山岳部等に於いて用意され、たえず使用の実験をしなければならない。ところが現在の高校山岳部は学制改革以来その歴史も新しく、その組織の上に於いても不十分な点が多い。私は現在の高校3年にあたる旧制高校1年の時に、長い歴史を持った山岳部の中で、先輩と上級部員に指導されてはじめて冬山の洗礼を受けた経験があるが、今日ではその年令で冬山をねらうというのである。同行の先輩もなければ充分な装備も用意されていない。ただ意気込みだけでは多くの危険が生じるわけである。

今回の金子君たちの行動にしても、個人的にはかなり経験をつんでいるようであるが、個人的な行動に先走って山岳部を育てようとはしていない。同行の戸山高校生は自由な行動を欲して属していた山岳部を脱退までしている。計画にしてもはじめの無謀な計画は他からの注意によって変更してはいるが、その際先輩の同行を求めていないのは自己の力に対する過信と言われても仕方あるまい。遭難の直接原因とされている内張りのない古くなったテントにしても、他からの借用品であり、それを用意するだけの山岳部の充実の方が先ではなかったかと思われる。炭俵をテントの下に敷いたのはマットがないためで、経験者ではそれでも間に合うこともあるが、長い間には居住性が悪くなるものである。はじめての高所キャンプの実験としては不充分であったようである。又実験にしても最悪の事態を想定し、あらゆる変化に対処するだけの注意が足りなかったのではないだろうか。

今回の遭難は強風によりテントが破壊され凍死に至ってしまったのであるが、他の装備は大体良好であったから、シュラーフに入って破れたテントにくるまっていれば遭難発生と思われる21日の夜は明かせたかも知れなが。22・23両日も風雪が激しかったようであるが、充分装備をととのえ力を合わせて行動すれば強風の中でも危険地帯を突破して西穂山荘に避難することが出来たであろう。2名は何らなすところなく、テントの中に凍死し、他の2名は救援を求めに出たのかもしれないが、アイゼン・ピッケルをつけず、又そのうち1名は靴もはかずに共に行方不明になっている。要するに最悪の事態に遭遇しても危険と闘える技倆と精神的肉体的実力があれば、或いは死に至らなかったのかもしれないと思われるのははなはだ残念である。

登山には絶えず危険が伴っている。高さをめざす結果必然的に危険が付随して来ることは覚悟しなければならない。危険になるが故に登山は禁止されるべきものではなく、危険を排除し、又最悪の事態を克服出来る実力がまず要請されなければならない。登山は人生に於いて高きを求めず生活態度にも通ずるものがあり、人間完成の途上にある高校生のあり方にふさわしいものと思う。登山を禁止する事は却て高きをめざし、うつくしきものにあこがれる高校生の精神を無視するものであり、今後も適切な指導の下に高校生に可能な登山はますます奨励されなければならない。

この度の遭難の教える教訓は、単に登山にとどまらないであろう。ただ登山はその失敗が最も決定的な形であらわれるというちがいだけである。高校時代は、人間を完成させるための充分な見識を養わなければならないが、それは先輩の指導により、どのような事態にも中途で挫折しないだけの実力を充分に養うことにある。そして決して現在の自己の力を過信するなということである。人間完成の途上にある金子君が、中途にしてたおれたことは惜しみてもあまりやることである。

(「めじろ」第71号 獨協学園 1954年度)


皆川先生については常盤雪夫氏による追悼文がこちらにあります。

田部井淳子 人生の生き方と終い方

先日、NHKで「田部井淳子 人生のしまいかた」というタイトルの被災した東北の高校生を富士山へ連れて行く「登ろう!日本一の富士山へ」という田部井さんが発起人のプロジェクトを中心に据えて田部井さんの最期5年間をまとめたドキュメンタリー番組が放送された。

ご存知のように田部井淳子さんは女性初のエベレスト登頂、女性初の七大陸最高峰登頂(セブンサミッター)の記録を残した登山家である。

「あー、おもしろかったと言って死にたい。」乳ガンを発症し、転移した腹膜ガンで余命3カ月と宣告されても、重い足を引きずりながらもこの思いを通し、77歳を生き切ったタフな彼女からはいろいろと学ぶことがある。

田部井さんはたくさんの本を出しているが、もう絶版になっているもののタイトルに惹かれて「人生は8合目からがおもしろい」(主婦と生活社 2011) を図書館で借りて読んだ。

「もう少し人生を楽しんでもいいんじゃない。」「きっと見方も変わるかも。」「ハードルを低くしてわがままに楽しむ」「人の誘いにはまず乗ってみる」 「新しい人との交わりを積極的にと」と田部井さんは誘う。

還暦を過ぎ、子育てが終わり、まるごと自分の時間の幸せと感じ、山登り、シャンソン、ピアノ、ギタレレ、エステ、ピアス、マッサージ、ブログ、競馬、iphone と、思いついたことにどんどん挑戦する姿勢に、女性はかくも逞しいのかと思う。どちらかというと男は体裁を考えたりやせ我慢したり、いろいろとややこしいところがあって立ち止まってしまいがちなものであるが。

人生の先が見えて来た時、田部井さんの人生の生き方と終い方は一つの指針かもしれない。

苦しかったこともたくさんあるだろう。しかし、それも含め「面白かったと言える人生」を歩みたいものである。「損しないで生き切る勧め」なんだろと思う。 S47年卒 手島


本HPに田部井さんの亡くなられた時の記事があります。下記から参照下さい。

田部井淳子さんのこと

27年間連続登山に挑戦

東浦奈良男をご存知ですか。週末登山からはじめ、定年退職後は勤務先を山に変えて、近隣の低山や富士山を中心として雨の日も風の日も毎日1日も欠かさず27年間山を登り通した信念[*執念]の人です。

富士登山368回、連続登山1万日達成の目前の9.728日目で体調不全のため本人の意思に反して緊急搬送されて入院することになり、記録は途切れました。26年と248日、86歳でした。その後、再び山に登ることは叶わず亡くなられたました。

山と渓谷社発行 吉田智彦著 信念 東浦奈良男 “一万日連続登山への挑戦”から抜粋しましたので、ご覧いただければと思います。


「袖をまくった灰色の大きな上着を羽織り、それよりも少し色の薄い作業ズボンに長靴を履いている。右手には傷だらけの隙をストック左手には使い古された黄緑色の傘を持ち金属製のフレームに農協の薄い布袋ぶら下げた手製のザックを背負っている。布袋の下にはもう一つの蒼い袋が吊るされているが、いったいどうやって留められているの分からない。身に付けた装備のほとんどが長年日にさらされたために色あせ薄い汚れていた。正直に言って服装だけ見ればホームレスと言われても名付けてしまう。しかしよく見ると決して下見ではなく洗濯もきちんとされていることがわかる。汗を脱ぐために首にかけた青いチェックの入った間新しいタオルだけが白く際立って見えた。2006年10月4日。それが、8,014日間1日も欠かすことなく山に登り続けてきた81歳の東浦奈良男さんと初めて会った時の印象だ。」

「日数ではなかなかピンとこないが年数で記せばその長さが実感できるだろう。およそ22年間。それは僕の人生の半分を超えていた。そんなエネルギーがその小さな体のどこから生まれてくるのか想像もつかなかった。」

「150回への一歩の日。いよいよ時間の束縛から完全に解放された完全な自由の第一日目である。あー毎日山行できるのだ。待ちに待った日、さぁあの山この山駆け回ろう。血わき肉おどる足うなる。ゆくぞおかげで45年間働かせて頂いた。その結果である。ありがたし。ありがたし。墓参りしてからアサマ山へ。以後の出勤先は山となる。」

「山登りに精進するその報いは体ひとつで充分と言い切れる奈良男さんは、親類の冠婚葬祭があっても山を休みはしない。愛知県に住む素光さん[*娘さん]が結婚した日も朝6時に朝熊山へ登り、待ち構えている車に乗って約150キロ離れた式場に向かい、11時からの式に出席している。また結納の時は早朝に家を出て墓参りを済ませてから素光さんが運転する自動車で名古屋へ出発。午前中に結納が終わると会食には出席せず、とんぼ返りして直接朝熊山の登山へ行き、午後2時半から登っている。結婚式や結納は1日だが葬儀の時は通夜があるので二日間必要になる。あるときは出発前に地元の山に登り移動して通夜に出席。翌朝、葬式が始まる前に現地にある山に登ってからタクシーで会場へ駆けつけたりしている。連続登山4,800日目、奈良男さんは親類の通夜に出て素光さんに「5000日日でやめとけ」と言われるが「1万日や。男として目標立てる」と答え「男として」と言う言葉を初めて使ったが、これも連続14年目の自信かもしれないと書いている。」


因みに奈良男さんは低山や富士山ばかりではなく初期の頃は前・奥・西穂高、槍ヶ岳、燕岳、餓鬼岳、常念岳、立山、劔岳、八ヶ岳、御岳山、木曽駒ヶ岳、北岳、仙丈ヶ岳、石鎚山、大山、大峰山、八経ヶ岳、伊吹山なども登っています。

*編集者注釈

夏山合宿の思い出 岸 房孝

50年以上前、高校2年の夏山合宿のことです。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。

徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き、山小屋に着いた思い出があります。次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。

それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。

海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。

今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。

若き日の遠い良き思い出です。

昭和41年卒 岸 房孝


阿部 武、大成 哲、岸 房孝、佐野俊一、坂井 格、菅野則一、丸山正次、山中和雄(敬称略)のS41年卒の同期の面々(大成さん、坂井さん、山中さんはお亡くなりになりました)
2011年9月

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」を読んで

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」   低体温症と事故の教訓

羽根田治   飯田 肇   金田正樹   山本正嘉 著


2009年の夏、北海道大雪山系を縦走する人気の登山ツアーの参加者とガイドの計8名がトムラウシ山(2,141m)付近で低体温症により死亡した遭難事故があった。当時マスコミでも連日話題になっており、記憶に残っている遭難事故の一つである。

図書館で偶然この遭難事故について著された「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」-低体温症と事故の教訓-を手にした。この書籍は事故の翌年2010年に羽根田治 、飯田 肇、金田正樹、山本正嘉の4人が違う角度からこの遭難を記録、分析して教訓としてまとめたものである。自分にとっても戒めになる部分が多かったので、この場で提供できたらと考えてまとめてみました。

事故の概要

登山やトレッキングを商品として提供しているアミューズトラベル(株)という会社が「魅力の大縦走 大雪山系縦断の満喫コース」と銘打って旭岳からトムラウシ山へ縦走する2009年7月13日から17日の4泊5日の山旅である。アミューズ社のツアーはリピーターも多く、登山・トレッキングのツアーの中では比較的人気があったようだ。しかし、それも今まで大きな事故がなかったから済んでいたものの、この事故によってリスク管理などその実態が明らかになった。

ツアーは15名の参加者と3名のスタッフで構成されていた。スタッフはガイド資格を持つ添乗員がリーダー(61歳)を兼任し、メインガイド(32歳)とサブガイド(36歳)の3名。参加者は男5名、女10名でそのほとんどが60歳を超えており、50歳台は2名のみで55歳から69歳までの平均年齢63.8歳であった。

ツアーは13日午後に新千歳空港に集合し、同日5時に旭岳温泉白樺荘着。翌14日、5時50分にロープウェイ駅に向かい、旭岳には9時に到着する。旭岳を経由して北海岳、白雲岳を登り、白雲岳避難小屋に宿泊する。3日目の15日、この地方の天気概況では16日にかけて低気圧が通過するという予報が出ていた。朝、予報通り小雨が降っており、全員雨具を着用して5時に避難小屋を出発。平ガ岳あたりから風雨が強まり、忠別岳ではかなりの強風になっていた。(9時の風速は12m、気温16℃ )雨は強くなったり小雨になったりを断続に繰り返し、水はけの悪い登山道は池のようにもなっていたようだ。一行は終日雨の中、9時間から10時間かかって午後3時には3日目の宿泊地であるヒサゴ沼避難小屋に到着している。そして、翌16日はツアーの最終日。トムラウシ山を経由してトムラウシ温泉へ下山する予定であった。事故はこの日に起こった。

この日の朝、この地方の天気概況では雨は朝までとなっていた。朝方から強風が断続的に繰り返していた。解析によれば出発当時5時半頃の風速は19mで、風雨のピークだったようだ。降雨は土砂降りではなく、細かい雨または霧のようなものであり、12時頃には風雨は収まってきていたということである。だが、朝の気温は8.5℃であったものの、その後気温は下がり続け、最低温度は17時半に3.8℃を記録している。

この日の決行は添乗員兼リーダーの判断であったようで、他のガイドや参加者もそれに従った。ガイドのうちメインガイドはこのコースを5回登っていたが、サブリーダーは未経験、リーダーの経験は判然としていない。リーダーはガイドでもあると同時に添乗員でもあったので、天候が回復するだろうという天気概況による見通し、停滞することによる交通機関や宿泊場所などの再予約、費用の加算を含めていろいろな参加者への対応が必要になること、ヒサゴ沼避難小屋にはこの日の午後にはアミューズ社の別パーティーが宿泊することになっていたことなど、いろいろ考えての判断があったのだろうと思われる。決定の権限がメインガイドにあればまた違った決断があったのかもしれない。


補足  当日同じ行程を行く別パーティーがあったが、そのパーティーも決行を決めていた。ただし、パーティーが小規模であったこと周到な準備の元の山行だったことで1名の低体温症を出したものの無事下山している。また、同日同じ場所で単独行の1名が遭難した模様で、翌日遺体で発見されているが詳細は分かっていない。


ツアーは予定より30分遅れの5時半にヒサゴ沼避難小屋を出発した。出発後1時間もたたないうちに66歳男1名が何度も倒れ出した。風が強くなり、歩くのも困難な状態となっており、最大瞬間風速は30~40mになっていたと推定されている。パーティーは次第にバラけ、標準タイムでは避難小屋から2時間半の北沼に2倍の時間かかって10時に到着している。北沼は増水のために渡渉が必要になっており、全員が渡り終えるまで相当の時間がかかり、参加者の多くが座り込んだまま待たされることになる。その段階で多くのものが震え、眠気、無関心などの状況を示しており、すでに全員低体温症を発症していたようだ。さらに、1名が行動不能になってしまう。ガイド3名はその対応に追われ、他の参加者は吹きっさらしの場所で待機を余儀なくされる。嘔吐するもの、奇声を発する者も現れていた。解析によると北沼分岐の10時の気温は4℃位に下がっていた模様で、座り込んで冷やされた血液が出発して歩き始めたことによって全身に回って状態を悪化させたと考えられている。

行動不能になった者にガイド2名が付き添い(その後ガイド1名はその場を離れて本体に合流する)、もう1人のガイドが残りのメンバーを率いて移動を開始した。しかし、さらに女3名が本体から離れて動けなくなってしまい、1名のガイドと余力のあった69歳男とが動けなくなった女3名に付き添ってその場でビバークすることになる。残り1名のガイドが10名の参加者を引率して下山を開始する。しかしこの先の登山道上でバラけながらも進んで行ったが、ガイドはハイマツ帯の中で低体温症が進み仮死状態になり、参加者4名が死亡してしまうのである。

はじめに座りこむなどの行動不能の者が出たのが、出発してから4時間程度、5時間後には2人目が歩行困難になり、その1時間後には心肺停止に陥ってしまったと考えられる。1名のガイドと6名の参加者は低体温症と疲労困憊で朦朧とした意識の中、自分が生きてたどり着くことしか考えられないような極限の中で下山を継続させていた。(ガイドは渡渉時にずぶ濡れになっていてすでに状態が悪化して助言引率できる状態ではなかった)

7名のうち5人は歩き通して自動車やヘリでピックアップされ、1名は下山途中にビバークして翌日待ちヘリでピックアップされ、翌日ハイマツの中で仮死状態になっていたガイド1名が発見され救出されて一命をとりとめている。また、稜線でビバークした者のうちガイドを含む3名も翌日無事救出された。この遭難事故はガイド1名と7名の参加者(男1名、女6名)が亡くなり、ガイド2名と8名の参加者(男4女4)が生還することができたのである。

本事故からの教訓

・ツアー会社及びガイドは参加者のグレードや経験値等調査しておらず、参加規定なども出来ていなかった。

・アイゼンのつけ方も分からない参加がいたり、手数がかかる参加者が出ると途端に対応に手間取り、全体に影響が出てしまう脆弱なマネージメント体制であった。

・登山ツアーの参加者は登山経験や体力などバラバラで、よく知らないもの同じ隊列を組んで登ることの問題点

・ツアー会社及び参加者のリスクマネージメントの必要性

・ツアー会社、ガイド及び参加者ともに低体温に対しての認識が不足していた。

・高齢者は体力不足を補うために装備品を軽くしようするあまり食料などは軽いインスタント食品が中心となり、行動食を含めてカロリーの摂取量が少なかったことが低体温症の発症を早め、悪化させた。

・風雨に息があり、弱まる時もあったのでずるずると引き返す判断が出来ず遭難を招いた原因のひとつになった。

・気象条件がそれほど悪くなく体力も余裕があれば歩き続けることもよかっただろうが、低温、強風、濡れといった悪条件下の場合は低体温症を起こす可能性が高ので、体力に余裕がある場合は避難小屋に引き返し、余裕がない場合は衣服を着込んで早めにビバークすべきだったと筆者は提言している。

・この日同じ行程で無事下山できたパーティーはトムラウシ登山を想定し、15キロのザックを背負っての日帰り登山3回のノルマを課し、雨の日の登山も積極的に行い、熊よけスプレーの使用実験なども経験させるなど目的の山に対しての周到な準備をしていた。高齢者の場合は体力や対応能力が劣ってきている分、特に山を甘く見ることなく、訓練を含めて準備をおろそかにしてはいけない。

・15日、16日の雨の中の登山決行の判断と歩行不可になった人が出てきた段階で引き返さなかった判断はどうだったのか。引き返すことになると雪渓を下ることになり、そのリスクへの考慮もあったのかも知れない。

・予備日が設定できないというツアーの問題点もあろう。

・夏の北海道での気象状況は本州の3,000m級の山でも同じ状況になり得ることを心すべきである。

・対処出来る装備(テント、トランシーバー、携帯電話)や防寒衣服もあったものの、低体温症のために思考判断能力がすでに低下して使えないまま事態の悪化を招いた。

・風の中無防備で長く腰を下ろしていて、立ち上がった時に冷たい血液が一気に全身に回ったために低温障害を急激に悪化させた。再出発した人たちのうち6名がわずか数キロの間で亡くなった事は強風雨下で無防備でとどまっていたことがいかに急速に事態を悪化させたかを物語っている。

低体温症 体温と症状の段階

36度  寒い 寒気がする
35度 手先の動きが悪くなる 皮膚感覚が麻痺 震えがはじまる 歩行が遅れがちになる
35度から34度 よろめくようになる     筋力の低下を感じる 震えが激しくなる 口ごもるようになる     意味不明の言葉を発する 無関心な表情をする 眠そうにする     軽度の錯乱状態になることがある     判断力ご鈍る
この状態までに対処しないと死に至る
34度から32度 手が使えない     転倒する 真っ直ぐに歩けない     感情がなくなる しどろもどろな会話     意識が薄れる 歩けない 心房細動を起こす
32度から30度 起立不能 思考ができない     錯乱状態になる 震えが止まる 筋肉が硬直する     不整脈が現れる     意識を失う
30度から28度 半昏睡状態 瞳孔が大きくなる     脈が弱い     呼吸が半減     筋肉の硬直が著しくなる
28度から26度  昏睡状態     心臓が停止することが多い

低体温症についての補足

・低体温症でも脳障害が先に来て、震えが伴わないこともある。また、震えを起こすエネルギーさえないということもあるので注意が必要。

・当日はあまり雨が降っていなくても前日の雨で衣服が濡れていたこと、手足が濡れていたことも体温の喪失を助長させた。濡れているものでも重ね着することが大切だとされる。スボンを履かないで直接雨具のスボンを履くと熱が奪われやすい。雨や汗などで濡れた下着などは着乾かすのではなく必ず取り替えることが必要。

・風速20mだと1.5倍から2倍のスピードで歩いたのと同等の疲労になり、風自体が熱を奪い体力を消耗させるということをということをしっかり認識しておくことが必要。

・詳細な食料計画、防寒対策、訓練登山の実施など用意周到な計画の元に同じ時に同じ場所を登山していた65歳平均6名の別パーティーがあったが、1名の低体温症を出したものの仲間の介助もあり回復し、無事下山している。お湯を飲んだ事、行動食を食べた事、ダウンジャケットを重ね着した事が回復させた要因と考えられた。濡れている衣服であっても重ね着することは保温効果をもたらす。

・脳の機能障害は震えによって筋肉に沢山の血液を送る必要があり、脳細胞に血液が回わらなくなることによって引き起こされる。これは満腹時には消化のために大量の血液が使われるために脳に血液が回らなくなるために眠たくなるのと同様の原因である。転倒、無関心、眠気、朦朧、錯乱、奇声を発する、感覚の喪失などの症状が現れる。おかしいなと思った時にはすでに思考・判断力が落ちていて適切な対処ができない事態に陥ってしまっている可能性があり、早めに判断対処しなければならないということを心すべきである 。これは熱中症についても同じことが言えるのだろう。(乾きを感じてからでは遅かったりする場合もある。)ちなみに、この遭難事故では奇声をあげた人全員が死亡している。

亡くなられた参加者での女性の割合が多かったが、小柄な女性の場合は体の熱発生の表面積が小さいことから低体温症の影響が大きかったかも知れないとの分析がある。基礎体力の差もあったのかも知れない。

ツアー会社の体制

アミューズ社のガイドはメインガイド、サブガイド、ポーターに職種が分けられていた。ガイドは社員ではなく専属というの縛りはあるものの1ツアーごとの契約で、支払いも1回ごとで日当は1,1500円程度であったようだ。ガイドの規定も研修などもなく、雇用保険もないというものでガイドにとってはガイドとしての権限も権利も十分なものではなく、仕事をもらうためには運営上のことで強いことを言える立場にはなかったようだ。今回のツアーではガイド協会の資格を持っているものが添乗員も兼ねていたのでツアー全体を取り仕切っていたようだ。3人のガイドはともに面識がなく、当日初めて顔を合わせており、打ち合わせなどもできていなかったようだ。

アミューズ社はトムラウシ遭難事故を起こしたことにより51日間の営業停止処分を受けた。さらに、営業停止処分中に新規顧客をツアーに参加させたとして厳重注意を受けている。その後、売り上げが減少していたが、2012年11月に中国の万里の長城付近の山を巡るツアーで安全対策が何も取られていないまま3名が低体温症で死亡する遭難事故を再度起こし旅行業登録を取り消しの処分を受けている。

   昭和47年卒     手島達雄

私とスポーツ 生田 哲

自分がスポーツと再会したのは、唯単純な一言でした。20年程前に大学の友人のH先生曰く「そのままだとブタになるよ」大学生の時にはスカッシュ、スキー、スキューバダイビングなどをしておりました。卒業後仕事の忙しさにかまけて、歩き方は腹を突き出し、写真は3重あご、奇態ををさらすことになっていました。

当時、アマチュアのトライアスロンに参加していたH先生に誘われましたが、3種類は無理なので、3人の子供たちとも一緒に出来る水泳(400m〜1500m)陸上(3km〜5km)を続け、アクアスロンに参加するために上井草スポーツセンターに通うようになりました。

最初は、がむしゃらに力を入れただけで、その年の武蔵野市の大会ではたる惨憺たる成績でした。その後、センターで知り合った仲間たちから水泳は技術だと教えられ、フォームを改善し、また地下のトレーニングルームでは筋肉トレーニングを1日置きにするようにしました。また、40歳を過ぎた中高年は180から自分の年齢を引いた数(たとえば50歳ならば180-50=130)を最大脈拍数として、それを越えない範囲で20分以上運動すれば脂肪は筋肉に置換するという「マフェトン」論理に基づいて始めました。

また、コーチたちから走り方のチェックもしてもらいました。そのおかげで昨年と一昨年の武蔵野市大会では40歳で2年連続優勝し、練馬区の大会では銀メダルでした。また3人の子供たちも他地区の大会で上位に入賞しました。

現在、私は歯学のなかで「噛み合わせと全身との関係」を研究していますが、スポーツの分野ではスピード・スケートの清水宏保選手や大相撲の力士たちが。口の中にマウスピースを入れて世界記録をだしたり、好成績をおさめています。

歯科医師をしておりますと、つくづく本当の健康とは自分の目でものを見て、自分の歯でものを食べて自分の足で好きな所へ行けるという最低の3つの条件が揃わなければと思います。

数々のスポーツを通して、自分なりの目標目的を持った方々は生涯現役で衰えることのない若さをたもって行けるのではないでしょうか。

昭和50年卒 生田 哲