「コラム」カテゴリーアーカイブ

高い技術は,一つひとつの基礎の上に作られる 高梨富士三郎

「飯豊連峰」から「北八ツ」までの反省ということだが,実質的には月例山行まで含まれよう。反省となれば、第一に部員の質が問題となるが、部員の質は量と無関係ではない。量的な減少は質に影響する。

かって、高校生では無理と思われた冬季の「高妻山」の成功は過去の栄光であって、それをいまに求めることはできない。それよりか、確実な登山技術を要求したい。山歩きの初歩の技術が重要だ。科学的に充分ねられた計画と、部員相互の話し合いの態勢をつくることだ。

合宿も、夏季は7日間、冬季は5日間。その期間を形式的に終わらせているような態勢や考え方では進歩はない。消極的で形式的な取り組み方だ。不満である。いくつか問題点を列挙してみよう。

第一に練習法だ。日本の登山事故で特に多いのは転落だ。私たちの部にもこの危険はある。バランス、足のおき方・・・、これはある程度、練習でも消化できる。練習には体力をつけるのに重点を置いてはどうか。部員の体力低下は著しい。

第二に食料、第三に団体装備と個人装備だ。これについては、ザックのパックが完全にできていなければならない。不充分である。同時に団体装備の取り扱い方だ。これは部員の意欲の問題とも関係する。

反省というのは口先だけの反省はだれでもできる。必要なのは、身体での反省だ。全体としては危険に対する注意力がない。山行において、団体を解かさせ、目的地まで個人個人に歩かせたら、幾人が目的地まで達することができるだろうか・・・。

高い技術は、一つひとつの基礎の上に作られることを知るべきである。   1968年3月21日

DWV顧問 高梨富士三郎

あらゆる面で“山は学校”である… 飯島義信

ジャン・フランコという登山家は「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」と言っている。数年前の山日記に載っていたものを手帳に書き写しておいて覚えていたのだが、この人物のことも、この言葉のいわれも詳しいことは知らない。ただ、自分なりに解釈して、好きな言葉のひとつに数えているに過ぎない。そして時々、山に向かう姿勢を省みるよすがとしているのである。最近やや下火になったとはいえ、相変わらず大勢の人々が山に行くという。その一人ひとりの登山の目的はまた多種多様であろうが、共通して言えることは当人が意識するしないに関係なく、山は学校だということだ。
山は高きに登ることのためにのみあるのではない。登頂のみが目的であるならば、なにも重い荷物を背負って遠くまで出かけることはない。この過程と不可分に山には山の植物や動物、風や雲、雪や岩、またそういった自然全てを含めての美しくも厳しい山のただずまいといった魅力があって、われわれを強くひきつけるのである。そして、われわれがその山の自然を享受するには、それ相当の労をつまねばならない。山行にあたっては、それこそ根気強く勤勉に、また沈着に行動し、最後まであきらめずに、投げ出さずに頑張らねばならない。そして、山行を重ねていけば、われわれはいつの間にかこういった努力を惜しまぬ態度を身につけることができる。
初めて山らしい山に登ったのは、高校2年生の夏で、八ヶ岳を稲子湯から中山峠に登り。南に天狗岳、夏沢峠、硫黄岳、横岳、赤岳と縦走し、力尽きて県境尾根を清里に下りた。力尽きたのは、単独行だったので用心し過ぎて装備が重くなったこと、ペースの配分がよくわからず炎天下を力にまかせて、ほとんど休まずに歩き続けたことによるものと思われる。中山峠に泊まった翌日,赤岳まで行き,荷を置いて阿弥陀岳を往復する途中で,軽い日射病にかかり鼻血を出してフラフラになってしまったのである。幸い岩陰で小1時間ほど休んでいる間に元気を取り戻したからよかったもの,心細い限りだった。それで,編笠岳への縦走を取りやめたわけだが,後は病みつきになって山行を繰り返している。

しかし今頃になって,同年代の仲間も山に行かなくなると,ふと何故山へ行くのかと自問することがある。すると思い出すのがはじめの言葉で,山に向かう人間の真摯な心が読み取れ,励みを覚えるのである。      1967年

DWV顧問      飯島義信

栃木県茶臼岳(那須岳)での雪崩遭難事故について

今回の雪崩遭難事故は栃木県高校体育連盟主催の2泊3日のテント泊による「春山安全登山講習会」で起こった。講習会参加者は大田原高校をはじめ県内の高校8校で、生徒51名と教員11名の合計62名であった。教員の登山経験については委員長他20年以上のベテランもいたが、死亡した教員については冬山経験はゼロだったということもあり、引率教員の雪山経験値についてはばらつきがあったようだ。

事故当日は講習会の最終日にあたり、茶臼岳の登山が予定されていた。本来、県内高校の山岳部などが冬季に標高1,500メートル以上の山を登る場合は事前に計画書の提出を受けて県の山岳連盟や山岳遭難防止対策協議会、高校体育連盟、県警などで構成する県設置の「登山計画審査会」の事前審査を受けることになっていたが、春山安全登山講習会ということで審査は経ていなかった。

事故当日の朝、前日からの積雪は30センチ以上にもなっており視界も悪いことから、経験豊富な委員長、副委員長と他の教員1名の判断で茶臼岳の登山は中止になり、同時に那須温泉ファミリーゲレンデの上部斜面でのラッセル訓練に切り替えられることになった。生徒5名はゲーターを持参していなかったので、ラッセル訓練には参加せず、結局このラッセル訓練に参加したのは生徒46人と教師9人の計55人であった。

ラッセル訓練は那須温泉ファミリースキー場の上部樹林帯の斜面で学校ごとにまとまった形で5班に編成されて実施された。先頭の1班は登山大会等での実力校であった大田原高の生徒12名で教員が2名、2班は真岡高生徒8名と教員1名、3班は矢板東高生徒5名及び那須清峰高生徒4名と教員3名、4班は宇都宮高生徒8名及び矢板中央高生徒3名と教員2名、5班は真岡女子高生徒4名及び矢板東高生徒(女子)2名と教員1名で構成されていた。雪崩発生当時、先頭の1班はすでに樹林帯を抜けた尾根上にあり、下方に2班。3班と4班は1班の後方にあり、5班はゲレンデ近くで待機中であった。

雪崩は午前8時半ごろ、尾根上部の大岩がある「天狗の鼻」あたりで発生し、森林限界を超えた尾根で凍結した下部の弱層に前日からの降雪が30センチ以上あり、160mにわたり滑り落ちた表層雪崩だったことが分かっている。雪崩発生後、本部への報告は後方で待機していた5班の教員が2班の教員からの連絡を受け、9時過ぎに本部である旅館に直接駆け込んで事故を報告している。本部は9時20分に警察に通報することになる。通報を受けた警察が救助隊を編成して現場に到着したのは雪崩発生からすでに3時間半を過ぎていた。

救助隊が現場に到着した時にはまだ雪に埋まっていた被害者もいたようだが、事故発生から救助隊が到着するまでの詳しい状況は警察の捜査が入っていることからか生徒等の精神的な配慮からか報道を通しては伝わってきていない。

死傷者は1班の大田原高校の12名のうち7名が死亡、引率教員2名のうち1名が死亡、他班を含めて残りのほぼ全員が重軽傷を負っていた。うち、骨折など重症者は7人出ている。1班が雪崩本体に巻き込まれ、下方にいた2班が派生した雪崩に巻き込まれたようである。

この研修会への参加は5月にに行われる大会に参加できる必須条件になっており、春山安全登山を学ぶためのものだったこともあり、研修会責任担当が雪崩を予見できなかったかという業務上過失の容疑の捜査が続けられている。

ビーコンやゾンデ棒などの装備上の必要性はともかく、雪崩に対しての予知や巻き込まれた場合の対処の仕方を指導教員は理解し指導に当たれていたのか、また春山安全登山に必要な研修なされていたのかも問われる部分である。

責任者の記者会見では「絶対安全だと判断していた。」とは言うものの、登山経験も豊富な指導者であり生徒や保護者からも信頼されている教師でもあったことから、少なからずリスクや判断の不確かさは感じていたものの、組織としての責任を問われるということになればそのようにしか答えられなかったのかも知れない。いずれにしても、教員個人としては教え子を死なせてしまった責任は逃れられないことは自覚していたであろう。

後の捜査で、責任者は今回ラッセル訓練をしたエリアでの雪崩は起きないものと認識していたというが、今回雪崩が発生したエリアでもかつて雪崩が発生していたという地元の方の証言もあった。また今回の研修会にも参加している教員が7年前に同様の研修で怪我はなかったものの雪崩に巻き込まれている事故が発生していることも分かってきている。

「絶対安全だと判断していた」という指導者の言も、新たな事実によって本当に防げなかった事故なのかと遺族・保護者の心は揺れているのではないかと思われる。

ややもすると経験則に頼りがちなベテラン指導者と経験不足のまま生徒を指導しなくてはならない顧問教員、高校生の雪山登山の是非、安全登山に必要とされる装備品などの問題も考えて行かなければならないのだろう。

文部省はこの事故を受けて「冬山登山の事故防止に関する緊急通知」として高校生以下の冬山登山を原則禁止することを改めて都道府県知事と各都道府県教育委員会に所轄の私立高校並びに公立高等学校、関係山岳団体にその旨を周知させ徹底指導するよう通知を出した。ただし、冬山登山という漠然としたくくりで、時期、対象地区、活動範囲等については規定していないようだ。しかし、単に高校生の雪山を禁止して済ませるわけにはいかない。本当に安全登山に必要な技能と知識をどう伝え、実践させて行くか問われるところである。(HP管理人)


正確を期すべく得られた複数の一般的な情報を元に記述しましたが、不正確な部分も含んでいるかもしれないことをお断りしておきます。ぜひ、更に正確な情報をお調べいただけるようお願いします。

事故に巻き込まれて亡くなられた被害者のご冥福をお祈りするとともに遺族の方々にお悔やみ申し上げます。

遭難者にヘリコプター使用の手数料徴収化決定(埼玉県)

先にメールマガジン2月号でもご案内しました埼玉県において防災ヘリによる山岳救助の場合、遭難者からヘリの燃料費を手数料として5万円程度徴収するという「県防災航空隊の緊急運航業務に関する条例」改正案が2月定例県議会で議員提案され、最大会派・自民党県議団などの賛成多数で可決されました。2018年1月1日をもって施行されるということです。

無謀な登山の抑止を目的とし、県の防災ヘリが県内の山岳で遭難した登山者(林業従事者や山岳救助隊員を除く)を救助した場合に手数料を徴収するというものですが、「受益者負担の原則」「自己責任」を前面に打ち出したということだと思われますが、徴収することで無謀な登山を抑止するという目的にかなったものだとは到底考えられないように思われます。他県の動向も気になるところです。

HP管理者

積丹岳事故裁判について

積丹岳遭難事故裁判について

【裁判の経緯】

2009年1月北海道の積丹岳(1255m)で遭難したスノーボーダーが警察の救助活動中に死亡に至った事故に対して、遭難者の父親を原告、救助隊の警察を被告とした損害賠償請求裁判の最高裁での判決が山岳救助のあり方に対して問題視されている。

遺族は北海道に対して8,600万円の損害賠償を求めて札幌地裁に提訴し、2011年11月19日に遭難者に8割の自己責任、道警察に2割の落ち度を認め、道警察に1,200万円の賠償を命じる判決が下りた。その後、控訴し高等裁判所で争われることになる。

2015年3月26日、高等裁判所では遭難者の過失割合が7割に下げられ、警察に対する損害賠償額が1,800万円に引き上げさせる判決が下りた。北海道は高裁判決を不服とし上告、最高裁で争われることになる。

そして2016年11月29日、最高裁は二審を支持して警察の上告を退ける決定を下し、判決が確定された。

最終的には遭難者に対しては7割の過失責任を認定し、救助活動中の事故とは言え道警に対して遭難者が死亡に至たった落ち度を3割として過失相殺し1,800万円の損害賠償を命じたわけである。

もちろん救助隊の警察官は職務上の行為であって個人対する賠償責任ではなく、あくまでも行政に対しての賠償責任を負わせたものである。民間による救助の場合であってほとんどの場合、個人が責任を負うことはないということである。


【死亡に至る事故の概要】

1月31日、遭難者はスノーボードで友人2人と入山します。遭難者は午後友人とはぐれ道に迷ってしまい、山頂付近でビバークすることになります。友人は警察にGPSで位置を知らせて救助を要請します。翌日の2月1日、早朝より北海道警察の山岳救助隊は捜索を開始します。この時、警察はGPSの位置情報を誤り、400m以上もポイントを間違えてしまったために2時間以上も別の所を捜索することになります。男性が発見されたのは正午ごろになります。救助された時、遭難者はすでに低体温症で意識も朦朧としており、救助隊は遭難者を抱えて下山を開始します。しかし、遭難者と救助隊2名は雪庇を踏み抜き、200mほど滑落します。その結果、さらに状態が悪くなった遭難者はソリに固定され、崖の上に引き上げるべく救助隊員の作業が進められます。しかし、長引く引き上げ作業で隊員は疲労し、交代のためにソリをハイマツに固定し、その場を離れることになります。その時、ソリを固定していたハイマツが折れ(実際にはザイルが抜け落ちたということが分かったようです)遭難者を乗せたソリは下方に滑落して行ってしまいます。救助隊は天候悪化で雪崩等の二次遭難の危険もあるために、捜索を断念します。翌2日の朝、救助隊は200mほど下方のソリ上で凍死している遭難者を発見することになります。


救助隊は遭難者を一旦は救助しながら帰路で事故を起こし、遭難者を見失い死亡させてしまったことになります。しかし、自ら危険な中に身を置いて必死の救助活動をした救助隊に対して賠償責任を負わせることの是非が問われる所です。冬期にスノーボードで登山するということは、ある程度危険を承知した上での入山と考えられ、事故責任ではないかとも考えられます。救助活動の成果で損害賠償が問われることになれば、救助に対して消極的になってしまう風潮を生むのではないかと心配されています。

しかし、遺族の訴えを調べてみるとまた別の側面が見えてきます。

【遭難者遺族の訴えの要旨】

原告は下記の事柄についてその是非について疑問を呈しています。

  • 低体温状態の要救助者を救助隊員が抱えて下山させたこと。
  • 警察のGPSの計測不備から捜査開始から発見まで余分な時間を要したこと。
  • 救助隊は50mのザイルは1本のみ、ピッケルも持っていたのは1名の隊員のみ、ビバーク用のツェルト、ストーブも持参していなかったということで救助隊としての装備が不備だったこと。
  • ソリのハイマツへの固定が十分ではなかったこと。
  • 要救助者のソリだけを残して隊員全員がその場を離れていたこと。
  • 滑落後ソリ跡がはっきり残っているのに滑落から30分後にはすでに捜索中止を判断したこと。

【警察側の主張】

山岳遭難救助活動は警察の任意の裁量によって行われる活動であり、出動要請を受けた山岳遭難救助活動に対して警察官は出勤し救助をしなければならない法的義務はないとの主張です。


■裁判の結果

【高等裁判所で認定された遭難者の遭難の死亡に至る落ち度】

  • 登山当日は天気が崩れる可能性が高く、遭難者はそれを認識していながら登頂を敢行した。
  • 積丹岳は天候の急変することを知っていながら天気予報を十分確認していなかった。
  • ビバークに適さない頂上付近でビバークしたこと。
  • 冬期ビバークには不十分なツェルトを使用したこと。
  • 雪庇に近い場所でビバークしたため救助隊が雪庇を踏み抜く過失を誘発した。
  • 下山方向を誤ったこと。

【高等裁判所で認定された救助隊の遭難者死亡に至る落ち度】

  • 遭難者の発見場所付近に雪庇があることを認識しながら、適切な下山方法を取らなかったこと。
  • 雪庇を踏み抜き滑落したことにより、遭難者の健康状態が著しく悪化し、その後適切にソリが引き上げられていたとしても死亡した可能性が高いこと。

私感・・・・・・・・・・・

・積雪期の救助に出向く場合に救助隊全体でピッケルを持っていた者が1名のみで、ザイルは1本だけ、ストーブもツェルトもなしでどれだけのことが出来るのか?

・意識も朦朧とした低体温症の遭難者を抱えて下山したという遭難者に対する処置はどうだったのか?

・崖下からのソリの上げ方やビレーの仕方などは適切だったのか?

など、遺族のみならず救助隊に対するいろいろな疑問が残る。全ての救助隊が高い専門性を有しているとは限らない状況であろうが、救助隊としての最低限のノウハウと技能、装備を確保すべく行政は体制を整えるべきではないか。救助隊の未熟さは要救助者の命を左右するだけでなく、救助隊自身の命も危険にさらすことに他ならない。

スキルを高め自らの安全を確保しつつ、確実で効率的に救助活動ができるよう行政は隊員の資質の向上や救助体制の確率と環境整備を図ることが求められているのではないか。裁判の結果は行政に対して救助隊と要救助者の命を守るためにどうあるべきなのか、その責任を負わせたものではないだろうか。 サイト管理人

ワンゲル部と私  菅野則一

今から56年前、獨協中学2年生の夏休み、知り合いの大学生に連れられて北アルプスの銀座通りを歩き大自然の雄大さに感動しました。翌年の夏には八ヶ岳を登り少年なりに山の魅力を知りました。

獨協高校に進みワンダーフォーゲル部に入部、当時は同期が10名ほどいて先輩も多く今思うとワンゲル部の最盛期だったのでしょう。その頃日本の登山人口は500万人と聞いた覚えがあります。

その夏初めての合宿は私にとって大変過酷なものでした。ひ弱でガリガリの少年は50㌔近いキスリングを背負い上野駅のホームに辿りつくまでに、へばってしまいました(学校から上野駅までキスリングは山田先輩がトラックで運んでくれたのですが)。自分の体重と同じキスリングは1度降ろしたら最後、自力では2度と立ち上がれませんでした。こんなことで朝日連峰の縦走なんて・・・不安で夜行列車では殆ど眠れませんでした。

翌朝歩き始めると不安は現実となりました。特に登りはヘロヘロで高梨先生、飯島先生、藤田リーダー等の叱咤激励の声も虚ろに聞こえ、意識は朦朧としてきます・・・もう二度と山なんかに来るものか!合宿が終わったら直ぐに退部しよう!と思いながらひたすら耐えました。

ところがそれほど疲労困憊しても、雄大な東北の山懐に抱かれているとなんとも不思議な感覚を覚えたのです。この感覚はその後も山に入る度に感じました。山を降りて数日もすると苦しさを忘れ再び何処かの山へ行きたくなる、こうした繰り返しでした。

飯島先生や常盤先輩などと行った春の金峰山・瑞牆山。八ヶ岳は好天に恵まれすばらしい雪山を楽しむことが出来て益々山にのめり込みました。

 

獨協大学に入り高校の先輩達が創部した山岳部に入部し、新人歓迎山行には参加したものの根性無しの私には続きませんでした。甘い気持ちでワンゲル部に移り2年ほど在籍しました。ところがワンゲル部では物足りなく山岳部ではハード過ぎる、この中間位がいいな・・・なんと我が儘な!

高校ワンゲル部のOBとして現役に随行して山へ行くこともよくありました。その頃の獨大ワンゲル部は冬山は禁止でした。これも歯がゆく結局はそのワンゲル部も退部してしまい、社会人となるまでの間、自由で気ままな山歩きをしていました。

たった10年のこんな登山歴でしたが、ワンゲル部のおかげでひ弱だった少年は健康になり(今もガリガリですが)、登山の楽しさ、自然の魅力友達の有難さなどを知り、私の人間形成に大いにプラスとなりました。

お世話になった故・高梨先生、飯島先生その他先輩、同輩後輩にはとても感謝しております。

残念なことは同期だった坂井格君、大成哲君、山中和雄君が60半ばで他界してしまったことです。            平成29年1月

 昭和41年卒      菅野則一


1963(昭和39)年の朝日連峰の夏合宿は7月26日から8月1日に行われました。山行写真はこちらからご覧いただけます。

OBとしてDWV冬山合宿に参加した時の思い出

打矢 之威(ゆきとし)

私は1954年 (昭和29年)独協高校1年生の時、同級生の森本(故人)加藤(故人)、丸山、赤瀬の4人と独協高校ワンダーフォーグル部創設に関わりました。その1年後(1955年)、 井上、植村 (故人)、滝川、若井、牧田の諸氏が入部し、さらに1956年に南(故人)、千野(故人)が加わりDWVの基礎ができました。当時英語の講師として早稲田大学の渡辺英太郎先生(W大WV部監督)、日本史の皆川完―先生(日本山岳会会員)等、そうそうたる山の専門家が独協で教鞭をとられており、また大田 資、奥貫 晴弘、高梨 三郎等の諸先生もWV活動に関心を待たれていたので創部初期から指導者に恵まれていたと思います。さらには理科授業の助手であつた東京理科大山岳部在席の金子雄一郎氏も幾多の山行に同行されたと思います。

私は浪人後早稲田大学商学部に入学し我慢していた山登りを再開、早速早稲田大学山の会に入部して本格的に山登りを楽しんでいました。確か大学3年の冬、最も山登りが充実し経験も技量も積んだころ、奥貫先生からお誘いを受けDWVの冬合宿にコーチとして参加することになりました。

目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、 SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。

戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。

その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出は始めたが、多分晦日の30日。 その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル(*注)。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。

やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。

平成28年12月1日  昭和31年度卒業  打矢 之威 記


注 スタカットラッセルとは

冬山歩行の安全確保のため、前者がラッセルしている間後者は停止して前者の安全話確保し、一定まで進んだら前者は停止し後者前進の安全を確保するという尺取り虫が進むような登攀技術のことをいう。スタカットに対して両者が同時に登攀をすることをコンティニュアスという。


✳︎1960年12月の高妻山の記録写真はこちらから

1960年 冬合宿 戸隠 高妻山

皆川先生のご冥福をお祈りします  飯島義信

皆川完一先生は平成23年10月旅先にて急逝されました。享年83歳でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

先生は、昭和28~32年の5年間獨協学園で日本史講師として在職され、退職後は東京大学史料編纂所教授、愛知学院大学教授、中央大学教授を歴任されました。正倉院文書研究の泰斗だったそうです。

先生は獨協在職中、ワンダーフォーゲル部(昭和30年創部)の顧問として北村良三先生とともに学生指導に当たられました。

ワンダーフォーゲル部創部の前年(昭和29年)12月末に、当時本高校2年の金子隆司 君と戸山高校生(伊豆野英二君、島田敏彦君、今井康彦君)の計4名 が北アルプス・西穂高岳で遭難する事故があり、北村、皆川、金子助手(歴代顧問)の3先生が現地で遭難対策作業にあたられました。皆川先生が記された所感 と北村先生の報告は学園文芸誌に乗っていましたので転載してありますので参照ください。

DWV顧問 飯島義信

坂井 格君のこと  岸 房孝

獨協ワンダーフォーゲル部OBのみなさんへ

 僭越ですが私昭和41年卒で岸と申します。いつもOB会に出席出来ず申し訳ありません。残念です。
 昨年、坂井格が亡くなるまでの経緯をご説明させて頂きます。私、坂井格と同期の者です。 昨年9月4日に、私、広尾の日赤医療センターに入院して胃の一部を切除しました。そこで 坂井格が以前から同じ日赤に入院してたので、病院で会えると思って電話をした折、4日前に退 院して自宅に戻ってました。たまたま9月9日、格が病院に外来として来ると云う事で再会 することが出来ました。格も会う3日前までは体がきつかったそうです。9月9日の日はえらい 元気な姿で娘と一緒に来ました。本人曰く、余命半年と言ってました。そこで私と格の病院 で撮った写真を同期のみんなに送った所、それでは早いうちにみんなで会おうと10月16日(日) 格の近くの仙川で8人同期会をすることが出来ました。久しぶりに格を囲み楽しいひと時 でした。その後8人で2.3回会えると思ってた矢先11月12日(土)に亡くなりました。
11月16日通夜、17日告別式でした。ムードメーカーの格がいなくなり誠に残念です。
以上の事をOBの皆様にお伝えくださいませ。

昭和41年卒 岸 房孝

ワンダーフォーゲル部 顧問 新村三千夫

ワンダーフォーゲル部は総勢十数人の小さな運動部だ。「ザックを背負って校舎の階段を上り下りしている変な人たち」とか「獨協祭でアイスを売る部活」と一般生徒から誤解を受けている向きもあるが、規模こそ小さいものの登山技術と部員の士気は高く、月1回の山行と年に3回の合宿を中心に活発な活動を続けている。
中でも夏合宿は、一昨年の南アルプス塩見岳縦走、昨年の北アルプス剣岳-剣沢縦走と難易度の高いコースを中学生を含めたパーティーで踏破し、経験と実力を蓄えてきた。創部50周年にあたる今年の夏合宿は、日頃から後援をいただいているワンダーフォーゲル部OB会の協力のもとに北海道大雪連峰の縦走を計画し、成功させることができた。強風の吹く最高峰旭岳の山頂で,現役隊とOB隊が邂逅した瞬間の感動は忘れがたい。

活動の中でしばしば強烈に感じること、それは「自然こそが最高の教師」という一言に尽きる。自然は美しいけれども相手にするとなかなか手ごわい.自分のわがままは通用しないし、甘えたり馴れ合ったりもできない。雨が降れば濡れ雪が降れば凍える。
道は歩きやすい時もあれば最悪の時もある。衣食住の全てを自分たちで背負い、足りない分は我慢するしかない。判断行動の誤りは自分たちにはね返ってくる。道具を正しく扱うこと、五感使って情報を捉えることの大切さがわかる。
バーチャルな環境に囲まれて育ってきた今の子供達にとっては「キツイ」部活には違いない。家でゴロゴロしていたほうが楽だから。それでも時おり入部希望者はやってくる。今後も少数派でいいから充実した活動を続けていければと思う。

最後になりましたが理解し支えてくださる保護者の方々にはお礼の言葉もありません。安全面には気をつけてやっていますので、今後ともよろしくお願いいたします.

DWV顧問 新村三千夫


『獨協PTA会報 第59号平成16・3・10』獨協中学・高等学校P.T.A 発行「クラブ紹介」より転載