「紀行文」カテゴリーアーカイブ

北イタリア湖水地方とドロミテ街道


2023年7月12日〜19日 

阪急交通社主催の「美しき北イタリア湖水地方とドロミテ街道」ツアーに参加し、ドロミテ山群やモンブランやマッターホルンなどのヨーロッパアルブスを堪能してきました。

ルフトハンザ航空で羽田からドイツ南部のミュンヘンに向けて出発しました。

ミュンヘンに到着し、まずはビールで・・・。

ミュンヘン国際空港

ミュンヘンからはベネチア行きの乗り継ぎ便が荒天で欠航したためにミュンヘンの空港での野宿を強いられました。ブランケットはルフトハンザから提供されました。

翌日は料金は阪急交通社持ちのタクシーで市内観光。

ステラタクシーはスケルトンの天井でした。
ミュンヘンのホフブロイハウスにて本場のビールを堪能。
ミュンヘンのマリエン広場
ミュンヘン旧市庁舎
ミュンヘンのシュロスパークのニンフェンブルグ宮殿

ミュンヘンからは空路でアルプスを越えて、イタリア北部のベネチアへ向かいました。予定ではベネチアから古都シルミオーネ見学が組まれていましたが、潰れてしまったのでベネチアからそのままトレヴイーソへ移動しました。

いよいよドロミティー山岳地帯へ突入。

ドロミテのガイスラー山群
カラルツォ・ディ・カドーレ

ホテル ソラピス ミスリーナ

トレヴィーソではドロミテ山群を代表するトレ・チーメを望むミズリーナ湖を見学し、冬季オリンピックでも有名なリゾート地のコルチナダンペッツォへ。

ミスリーナ湖

ミズリーナ湖は冬季オリンピックではスピードスケートの会場にもなった湖です。

モンテ・ピアーナ
ラストーニ・ディ・フォミオン

途中、ジャウ峠にて迫力あるドロミテの山々を堪能しました。

ジアウ峠

ドロミテ観光の中心になっているのがコルチナダンペッツォです。コルチナダンペッツォでは1953年に冬季オリンピックが開かれています。当時トニーザイラーが回転と大回転、そして滑降の全てで金メダルを取り、その後数々の映画にも出演するなど名を馳せた地でもあります。

コルチナダンペッツォの街並み
ポルドイ峠からドロミテティー最高峰のマルモラーダ山を望む

コルチナダンペッツォからボルツァーノの区間がドロミテ街道と呼ばれています。

カレッツァ湖とラテマール山

カレッツァ湖はエメラルドグリーンの湖面の美しい湖で、ドロミテの宝石とも呼ばれています。

ヤナギランのよう?
牧歌的なサンマッダレーナ村

ドロミテの最奥フネス谷にあるサンマッダレーナ村はヨーロッパの美しい村30選に選ばれている美しい村です。エベレストの無酸素単独登頂を果たした登山家メスナーの出身地でもあります。

サン・マッダレーナ協会
ティラーノ駅舎

ティラーノからベルニナ急行でスイスのポスキアーヴォまで。ティラーノはスイスのサンモリッツへ抜けるレーテッシュ鉄道ベルニナ線の終着地になります。

レーティッシュ鉄道ベルニナ線

ポスキアーヴォ湖

ポスキアーヴォからルガノ、そしてリゾート地のコモへ。コモではコモ湖を遊覧しました。

コモ湖の遊覧

コモのドゥオーモ

コモからはミラノへ向かい、ヨーロッバアルプス山麓のクールマイヨールへ。

モンテ・ビアンコ(モンブラン)や針峰群をスカイウェイ(ロープウェイ)でエルブロンネ展望台から見学しました。

エギーユ・デュ・ジュアンは巨人のは(ダン・デュ・ジュアン)の異名を持つ山です。「

「スカイウェイ・モンテ・ビアンコ」

スカイウェイ(ロープウェイ)乗り場

丸いスカイウェイのゴンドラはぐるっと回転しながら動いていきます。

エルブロンネ展望台駅

雪を頂くモンブラン山頂(4,810m)はわずかにガスがかかって残念。

中間駅には高山植物を集めたボタニカルガーデンがありす。

ボタニコ・アルピーノ・サウッスレア庭園(高山植物園)

エギーユ・ディ・ミディとグランドジョラス

左端に角のように突き出ているのが「巨人の歯」と呼ばれるデンテ・デル・ジガンテ(4014m)、右に続くのがエギュイユ・デュ・ロシュフォール(標高4001m)、奥の雪がかかった山が4,206mのグランド・ジョラス(標高4206m)になります。

山の名前を記した展示版
モンテ・ビアンコ(モンブラン)をバックに3,466mの展望台

中間にあるシアター

クールマイヨールからはチェルビニアへ向かい、モンテ・チェルピーノ(マッターホルンを)見学します。

チェルビニアのブルー湖からのマッターホルン(モンテ・チェルビー)の眺め

マッターホルンの初登頂を狙うクライマーの多くは斜度が緩いイタリア側からの登頂を目指していました。しかし、なかなか登頂することができなかった中、イギリスの登山家のウインパーらが1865年7月14日、スイス側からの登頂に成功させました。このウインパー隊の初登頂は7人のうち4人が下山中に滑落死するなどの事故を起こしています。イタリア側からはこの初登頂から遅れること3日、登山ガイドのカレルが登頂に成功しています。

丁度見学したこの日は7月17日なので、イタリア側からの初登頂は158年前のこの日だったということになります。

初登頂後のウインパーの事故についての記事を過去にHPでアップしていますので、参照ください。

「ウインパーの切れたのロープの謎」

ブールー湖畔に立ち、正面にモンテ・チェルビーノを望む

バスターミナルからのモンテ・チェルビーノ(マッターホルン)

ドロミテやアルプス山群、そして湖水地方の見学をすべて終え、ミラノへ。

ミラノのトラム

ミラのからはフランクフルトを経由して帰国の途へ。

羽田に無事到着し、旅行を終えました。

付録 旅行中の食事についてはこちらからご覧ください。

 

S44年卒 田中廣明


コースDAT

行 程

羽田空港 ミュンヘン空港泊 ミュンヘン市内観光 ベネチア空港 トレヴィーソ泊 ミズリーナ湖 トレ・チーメ見学 コルチナダンペッツォ泊 ドロミテ街道 カレッツァ湖 ジアウ峠 ボルドイ峠 サンタ・マッダレーナ村 ガイスラー山群見学 トレント泊 ディラノ ベルニナ急行 ポスキアーポ ポスキアーポ湖 コモ コモ湖 ミラノ泊 クールマイヨール エルブロンネ展望台 モンテ・ブランコ(モン・ブラン見学) ボタニカルガーデン チェルビニア ブルー湖 モンテ・チェルビーノ(マッターホルン)見学 ミラノ泊 フランクフルト 機内泊 羽田空港

打矢 之威のヒマラヤトレッキング Vol.2

タムジュンへの途上

エベレスト街道トレッキングとネパール大地震見聞記

昨年4月上旬アンナプルナ方面でトレッキングを楽しんだ直後ネパール東部は大地震に見舞われ、我々老トレカーは悪運強くも直前に帰国帰国しており、幸運を天に感謝した次第です。

しかし一緒に旅した現地のボッカ達は大なり小なり被害を受け、何らかの支援を期待したようです。そこで参加者に募り多少の現金を送金しましたが、やはり自分の目で直接現地の実情を確かめたいとの衝動に駆られていました。

9月アラスカマッキンレー地域のトレックに行ったときの無理が原因か、10月上旬から全身に発疹が出て、近所の皮膚科の医者から”帯状疱疹”と診断されました。11月のネパール行きは無理だと忠告されましたが、生まれつき能天気な私はネパール行きの衝動を抑えきれず、11月5日羽田発の深夜便に乗る大学時代のOB OG仲間に合流しました。

私はトーメン時代、中東駐在員としてベイルートに4年間勤務しましたが、所轄地域の一つであるシリアにはよく出張、人の好いアラブ人やアルメニア人たちと交流していましたので、シリアは心の故郷の一つでした。しかし、昨今のアラブ社会世界の混乱ぶりには心を痛めており、特にシリアの内戦で避難民になっている都市住民や部落民はいかに過ごしているだろうか、当時の代理店のハキム一家は無事だろうかと心配していました。いずれ機会を見て、ベイルートやダマスカスの難民部落に何か持っていこうと息子や家内や姉嫁たちの古着、日常雑貨品などトランク二つに詰めて、いつでも出発できる状態にしていたのです。しかしISなどが跋扈している状態では今行くのは無謀だろうと中止することにしました。それで、これらの救援物資はネパールの難民に渡せば良いと考えた次第です。

昔、レバノンとシリアはフランスの統治下であり、レバントと言われ、ベイルートやダマスカスはヨーロッパ的雰囲気で、上流階級の美男美女は流暢なフランス語を話し、快適な気候と美味しい料理が堪能できる華やかな国際社会の一面がありました。それがイスラム原理主義への回帰傾向が強まり、中世的戒律社会に戻ったようになってしまいました。そして宗教的内紛(スンニとシーア)やアメリカ、ロシアに代表される大国の思惑に翻弄される泥沼内戦に発展し、一般国民の生活はめっちゃになっています。しかし混乱が少しでも収まれば機会を見て中近東には行こうと思っています。

さて、今回のネパール行きは11月5日から18日までの2週間、そのうちエベレスト街道トレックは10日間、後はカトマンズの被災地視察やネパール人の友人宅訪問等で過ごしました。持参したトランク2個と登山道具の入ったキスリングは同行の後輩女性に分散して預け、無事チェックイン。航空貨物もエクストラ料金がかからず、後はカトマンズ空港で受け取るだけとすんなりとネパールに持ち込めました。

救援物資は出迎えのシェルパのパダム親分と旅行社を経営しているラジブ社長に早速手渡し、彼らから山岳部の被災地に直接手渡すよう繰り返し依頼しました。

ネパールは山岳部の道路などインフラが整っておらず、また人道も崩れたり橋が落ちたりと、スムーズな物流も期待できません。それに横領、横流しなども頻発しているので、直接渡すのが最も目的に理にかなっています。幸いポッカ達はは60Kgから70Kgの荷物は平気で稼ぎますので、私のトランクなど軽いものです。

タメル地区のホテルに投宿後、ラジブ氏の案内で中心部にあるダルパール広場の世界遺産建築物(寺院、旧王宮、図書館など)を見に行きましたが、至るところ瓦礫の山で、傾いた寺院は木材でつっかい棒で応急処置を施しているなど生々しい状況でした。貧しい国なので元々復旧予算も潤沢になく、国際的支援金もとりあえず被災民の日用物資調達に使われ、復旧どころではないのが実情のようです。さらに王政転覆からの後遺障害で、政府の体制も整っておらず政治行政が試行錯誤。そこにネパール共産党毛沢東派が台頭し、まさに混迷度が増している様子です。

私の短い滞在中にもタクシーのストライキ、ガソリン、燃料の不足など、至る所でバイクや車が動けなくなっており、それにインドからのガソリン供給がストップして民間の航空機燃料まで調達できず、ルクラに飛ぶコミューターも間引き飛行になる始末でした。

さて懸案の救援物資問題が片付き、地震の被害も見たので肩の荷を下ろした心境になり、後はエベレストを見るだけと勇躍カトマンズ空港からルクラ(エベレスト街道の出発地)まで小型機で飛びました。

ルクラは山岳部の谷間の上部に無理して作った極小空港で、岸壁に向かって上向きに傾斜した滑走路があり、駐機場は4機で満杯。着陸すると待ち構えた乗客10数名を大急ぎで載せ、トンボ返りで飛び立ちます。まるで航空母艦を離発着する戦闘機の様相です。スリル満点で、気流が悪いとひやひやします。

初日はルクラからバクデンまでの行程2840mの高度から緩やかに谷沿いにバクデン(2610m)まで上がったり下がったりの歩きなので高度順応には都合が良いのですが、私の様子オカシイ。腹に力が入らずフラフラする。先行組についていけず100m歩いてはヒィヒィ、ハーハーと休まざるを得ない。そのうち大キジの気配頻繁になり、岩陰、崖っぷちにしゃがみ込むことになって、まさに大下痢状態になってしまいました。パダム親分は心配して行ったり来たり。

原因はルクラでとった昼食だろうと推定しました。喉が乾いていたので、ナムチャの中に大量にヤクの乳を入れたのが悪かったと後悔しましたが、後の祭り。それからは瀕死の思いでバクデンに着来ましたが、寒い上に暖房のない部屋の木製ベッドに寝袋を広げるのが精一杯。倒れ込むように横になりました。

忠実な従者?

翌朝も動けませんでしたが、一行は予定通り出発しました。私も後を追いましたが、途中のモンジョ(2835メートル)でダウン。一人、見知らぬ民宿に転がり込みました。途上、崩壊した民家など散見しましたが、ゆっくり見る余裕もなく、この寒空にどこでいかに過ごしているのかとやたらと想像するのみで、最悪の山登りでした。夕食は無論とれず、水分をとれば即座に出てしまいます。明日のナムチェバザール(3440メートル)約800メートルの垂直上りを考えると唖然としました。

3日目、やっとの思いでナムチェ(2835m)に到着し、一行に追いつ来ました。高度順応のためナムチェで2泊して私を待っていてくれたとのことでしたが、何とも私の状態が悪いのを見て、リーダーの森さんがこれ以上無理だろうとのご託宣、最終目的地のコンデベースキャンプ(4910メートル)までは雪あり、氷結した長い斜面のトラバースありで、ザイルも握れずアイゼンも満足に着けられない身体状態では遭難もか考えられるし、他の参加者にも迷惑をかけるとコンコンと説得されました。私もこれ以上年寄りの我儘は老害そのものと納得し、別行動をとることにしました。

翌日一行が出発した後、ゆっくり休養し、徐々にお粥程度のものがとれるようになると不思議なもので体にも力が出てくるや、よし行くぞと気力もわいてきました。

右はアマダブラム、中はローチェ、左はエベレスト

そこで何としてもエベレストに少しでも近寄って写真を撮ろうと、エベレストビューホテル方面に向けて出発しました。3880mのクムジュンに向いました。途中、チョルクンの丘にあるネパールの英雄テンジン・ノルゲ(ヒラリーと共にエベレストを初登頂したシェルパ)の黄金のスタチューやシェルパ文化博物館を見学。シェルパ(シェル=東、パ =人) でネパールの「東方の人」すなわち日本で言う東北人を意味しています。シェルパは我慢強く黙ってよく働くそして誠実な性格、日本の東北人によく似ています。

ポッカの”シャパン”と荷物 真ん中の黒いザックは打矢の荷物

途中で見たエベレスト(8850m)は圧巻でした。右にローチェ(8510m)を控え、前方にアマダブラム(6856m)の名峰を侍らせ、堂々たる姿でした。山登りを一生の趣味としてきた私としては大満足、至福のひとときを過ごしました。

後は戻るのみ。3日後、無事コンデに登った本隊とバクテンで合流、好天に恵まれゆっくりルクラまで下山しました。しかしルクラでは飛行機が来ず、来ても爆音のみ。悪天候で上空を旋回しては着陸せず、カトマンズに引っ返してしまいました。

48時間宿屋と空港を行ったり来たり、久しぶりに焦ってもなるようになるやとの心境になりました。ベイルート時代スーダンの田舎空港で1週間いつ来るか分からないBOAC(当時の英国海外航空)のコメット機を待った経験を思い出しました。砂漠の遥か彼方に一点の機影がみるみる大きくなり、土煙を上げて着陸した時、文明から使者が来たあの時の気持ちでした。

その後、私は無事機中の人となりました。

2015年11月  打矢  之威(S31年卒)

打矢 之威のヒマラヤトレッキング Vol.1

地震で崩壊したタダペニ部落

ヒマラヤトレッキングとネパール大地震

私は平成27年3月24日から3週間ほどブータンとネパールの山岳トレッキングを楽しみました。トーメン時代の大先輩の成田さん、同僚の藤原さん、朽津さんなどの経験談に触発され、77歳となったのを機会に72歳と73歳の後期高齢者予備軍だがタフな後輩2人とのチンタラ道中でした。後半VOG(ベリーオールドガールズ)が加わり、稲山会( 早稲田大学山の会)OBヒマラヤ山行になった次第です。

前半は国民総幸福の国ブータンにカトマンズから往復しましたが、ブータン紀行記は次の機会に譲るとして、今回大地震(2015年4月25日)が発生したネパールの地震前後の状態を思いつくままに書きます。

2週間ほど前にあの地震が発生していたら我々はヒマラヤ山中で雪崩、土砂崩れや岩石の落下、あるいは宿泊地での家屋の崩壊に巻き込まれていたかと、悪運強いVOB(ベリーオールドボーイズ)は信仰心の希薄な私も含めて神様、仏様サンキューと胸を胸をなで下ろしています。

地震直前のカトマンズ旧市街

とにかく世界遺産寺院が町中に点在し、古い町並みのカトマンズ、観光地のボカラのホテル、ヒマラヤ山岳博物館などなじみの建物、ダンプス、タダバニ、コレバニなど山岳地帯の民宿、サランコットの古いホテルなど如何なる被害を受けたのだろうか。それにも増して、友人のラジブ一家や今回案内してくれたボッカのパダム親分やポーターたちは無事かと心配で何日もメールを送った次第です。数日後、短い返事があり、全員無事。しかし、家屋は傾き、余震が頻発。怖くて外で野営しているとのことでした。水、食料、医薬品などが払拭。何とかしてくれとの逼迫した様子でした。若者たちは続々故郷に向けてカトマンズを脱出。交通手段がないので、歩いているとのことでした。田舎には少なくとも食物あり、屋根の下で寝られるだろうとの願望で行くのだということでした。

アンナプルナ(8,091m)

今回のトレックは中部ネパールのダウラギリガーキ地域の8000メートル級ダウラギリ、アンナプルナ諸峰、マチャプチュレ等を左右に見ながら、高度1500mから3100mの縦走と深い渓谷を遡行したり、満開の真紅やピンクのシャクナゲが群生する森林地帯の横断、雨あり、風雪あり、雹あり、晴天ありと変化に富んだ10日間でした。

山間部の村落は斜面にへばり付き、わずかな畑と家畜が散見され、貧しい生活が想像されました。子供たちは着たきり雀の極貧状態。あどけない顔を向け、汚い手を差し出し、何かをねだる。ついついポケットの飴玉や非常食の板チョコなど手渡しますと、”ナマステ”とつぶやきながら、うれしそうに下を向く仕草についほろりとしてしまいます。

家屋は素焼きレンガを積み、屋根はトタンを石で抑えたり、瓦代わりの板石を乗せただけ。これでは地震に対する耐震性は低いと思いました。屋内を垣間見ると、粗末な食器や寝具のみ。調度品に類する家財道具は見られず、50年前の日本の寒村状態と同じだと思いました。比較的大都市のカトマンズでも日中頻繁に停電、水も出なくなります。まして山間部の孤立した村落では電気、水道、車道などの基本的インフラが整備されておらず、薪、ランプ、徒歩とロバによる物流など、生活基盤がまだまだ未完成だと思いました。

アンナプル南峰を背景に3人のVOB

中でも困惑したのはトレック途上、10日間は汗だらけの体は濡らしたタオルで拭くだけ。泊まった民宿は基本的に粗末なベッドが置かれているだけでした。持参したシュラフに潜り、枕がわりにサブザックを使い、暖房もなくひたすら体を動かして暖を取る原始生活。「学生時代の合宿だね」と笑った次第です。最年長者の私には個室が使えると嬉しい話、ところが2畳位の小窓のついた監獄部屋。ベニヤで仕切った隣の大部屋からは大いびきの合唱。眠れずに懐中電灯片手に外に出ると、目の前に白雪に覆われた神の山マチャプチュレが眼前と聳えていました。7000メートル級の鋭峰で、圧倒的存在感がある山です。その形から愛称FISHTAILと呼ばれ、聖山として一般の登山は禁止とのことでした。

マチャプチチュレとトレッキング姿の打矢

宿泊は慣れてくると何も感じませんでしたが、往生したのはしゃがむ方式の便所です。ウォシュレット付洋式便所に慣れた身には、しゃがむ用足しは苦痛そのもの。ひっくり返ってしまうので、便所の壁にしゃがみ付く難行苦行。落とし紙はなく、バケツに貯めた水をヒシャクで流すだけ。こんな状態では女性の方が適応性があるのではないかと感心する始末。

そこで外で用足しと、夜中部屋を出てマチュピチュへの鋭峰を目前に、悠々と小雉打ちの風流な気持ちになりました。まるで北ア槍ヶ岳を夜中に遠望しながらの光景を思い出しました。

同行のボッカの若者 40Kgを背負う

トレック中の我々は老人扱いで、サブザックには個人装備と非常食のみ。先行するボッカは35Kgから40kgの大荷物を前頭部に引っ掛けた細身の帯を使い、器用に担いでスタスタ登って行きます。学生時代、南アの強化合宿で10日分ぐらいの団体装備と個人装備や食料を持たされ、先輩にしごかれヒーヒー泣いたキスリングの重さを思い出し、彼等山岳民族の強靭さは驚くばかりです。

今回の地震ではインフラの未整備な山岳部の集落の被害状況が気になるところですが、何しろヘリでないと近寄れない場所も多く、何が損壊し、何人死んだり行方不明になったのか、怪我人の状態は、と不明なことだらけ。日が経つにつれ事情が判明し、愕然となるのではないでしょうか。現在8000人近い犠牲者が確認されていますが、これは都市部の数字で、これから僻地の実態がわかると思います。素焼きレンガのもろい家屋、登山道であり生活道路でもある狭い山道は人間とロバがかろうじて通行できるだけで、ひとたび崩れたらこれからも通行不可になります。孤立した山村部を考えると、どうか生きていてくれると祈るばかりです。

偶然とは言え、ボッカ達の粗末な服装や靴などを見て、ボカラで別れる時、日本より持参したゴアテックスの防寒具、トレッキングシューズ、ユニクロのシャツ、靴下、非常食、懐中電灯、サブザックなど彼らに進呈しました。地震の被害に少しでも役立つかなと、せめてもの慰めになっています。

現地にすぐにでも戻りたい心境ですが、飛行場、ホテル、道路、電気、水などのインフラの被害などわからないままに闇雲に押し掛けて救援の気持ちを示してもかえって迷惑かもしれず、焦るばかり。東日本大震災に指摘する大震災ですが、国情は最悪で、日本のように素早く救援、復興に取り掛かれる国とは大違い、すべてが遅々として進まないと思います。その間にも満足に手当てされない怪我人の死亡も多くなるのでしょう。非衛生の環境の下での伝染病の蔓延、食糧不足による餓死、テントよこせ、医療器具や薬剤不足への不満など不安要素が山積している状態でしょう。

略奪、暴動、人身売買も横行するかもしれません。数年前ネパール毛沢東派の台頭で王政が崩壊、現在新憲法も制定されず国上が不安定です。ネパールを挟んでインドとの国境の綱引き、チベット(ダライラマの追放)など中国の覇権主義が影を落としています。この混乱に乗じて甘言を持って接近するのは中国共産党の常套手段。日本としては迅速に人道支援、インフラ整備に協力することが期待されています。もともと敬虔な仏教徒、ヒンズー教徒、ラマ教とが共存している温厚な民族で、日本に好感を持っているネパール人を救援して東日本大震災で国際的に日本を支えた友好国に恩返しなければバチが当たります。

私の提案は日本政府の迅速な救援の救助の実行と相俟って民間でもできる事はする。例えば生死の地獄絵を見たネパール人を日本にできるだけ多く受け入れる。特に我々満ち足りた物質生活をしているが精神的には孤独な老人たちはネパールの震災孤児を養子にする。そのため日本政府は国籍取得の条件を緩和する。少子高齢化した日本を元気にするには純血主義はダメです。究極には絶滅民族になります。アメリカは毎年50,000人の移民を全世界から受け入れているので元気で、世代継承もスムーズです。資産の有効利用にもなります。社会を活性化するには多血主義が有効です。ヒマラヤの山中でブータンと並んでネパールも友好国なる絶好のチャンスです。

ネパールの友人達と交信して特に感じたことを書きました。

2015年4月 打矢  之威(S31年卒)


注)ネパール大地震は現地時間2015年4月25日の午前11時56分、カトマンズの北西77kmで深さ15Kmを震源として発生しました。マグニチュード7.8という極めて大きな地震で、建物の倒壊、雪崩、土砂災害などにより甚大な被害が発生しました。ネパールでは8460人を超える死者を出し、ネパールの人口の約30%にあたる約800万人が被災したとされています。エベレストのベースキャンプでも雪崩が発生し、登山客18人の死者を出すなどしています。

野川源流を訪ねて

2018年4月1日

野川の源流は荒川や多摩川と違い、山奥にはありません。

古多摩川の侵食によって現在の多摩川からはかなり離れていますが、かつて多摩川の左岸だった所に国分寺崖線(ハケ)と呼ばれる河岸段丘が立川から大田区あたりまで続いています。水はけ良い台地の水は粘土質の難透水層に当たって崖下から染み出して流れとなります。

野川の源流はそんな国分寺崖線から染み出す湧水群が源流になっています。その代表的な源流が国分寺駅の北にある日立中央研究所に端を発します。研究所内にあるために年に春と秋の2回だけ一般に開放されており、今年は4月1日(4月の第1日曜日)が公開日だったので野川の源流になる3箇所の遊水池を訪ねてみました。

駅から見学者とみられるたくさんの人が歩いてきます。

日立の中央研究所は広い敷地面積の中にあり、豊かな武蔵野の自然が保全されています。国分寺崖線に位置していて、敷地内に複数の遊水池があり、そのうちの1箇所を公開しています。敷地内の湧水は元々湿地帯だったところを造成し湧水は大池に集められて中央線の線路をくぐって谷筋を流れて行くいくことになります。

直線部分が中央線線路でその右の窪地が中央研究所の大池
右側の線が国分寺崖線

水源地

底は粘土状原土

数カ所の湧水が元は湿地帯だった大池に集められ、水門から中央線の線路下を通って徐々に太い流れとなって下って行きます。

二つの流れが合流する水門

第二の湧水群 真姿の池からお鷹の道 そして野川

中央研究所からの流れは線路の下をくぐって住宅地の中を通って行きますが、真姿の池のからの湧水と不動橋の所で合流し国分寺崖線に沿って小金井方面に流れていきます。

湧水は真姿の池に集められます。

お鷹の道(解放されている私有地)

不動橋

第三の湧水地になっている都立殿ヶ谷戸公園

殿ヶ谷戸庭園は崖線に位置して高低差をうまく利用して庭園が造られています。ここにも崖の途中に水が湧き出しており、池に注いで行きます。

崖の北向きの斜面にはカタクリの群生地があります。カタクリは夏場の地中温度が高くなると夏越しできないので水を集めて地中温度が高くならない斜面に群生します。カタクリは開花するまで7〜8年かかりますが、それほど広い面積ではないものの発芽したての1年生(マツの葉のような1本棒)から1枚葉などのいろいろなステージのカタクリが見られました。

駅ビルで遅い昼食を食べて、今回の野川源流紀行は終わりです。次の日立中央研究所の公開日は11月18日(日)になります。

S47年卒 手島達雄


コースDATA

国分寺駅11:15 日立中央研究所(見学)11:30  12:10     真姿の池12:50 お鷹の道12:55 殿ヶ谷戸庭園(見学)13:25 13:55    国分寺駅14:00

お散歩

ハイキングに行くだけの時間がなかったので、先だって改装工事が終わったという東京駅丸の内広場を見に行ってみようと自宅からの半日散歩。

自宅から西日暮里駅までは15分。開成中学・高校を前に見ながら西日暮里駅を千駄木方向に歩いてすぐの坂を上り、諏訪台に。諏方神社、新築されたビルでもう富士山が見えなくなってしまった富士見坂を経由して谷中銀座(ゆうやけだんだん上)、経王寺、朝倉彫塑館を経て和風モダンな風情のある寺町を行きます。

池之端からは湯島天神、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂(拝観時間は午後1時から)と神社や教会を拝観して東京駅丸の内広場に至ります。急ぎ足で回って歩いたら2時間から3時間いうところでしょうか。(寺町美術館は浮世絵が何十枚かという感じ。 朝倉彫塑館は和風モダンな建築と彫塑多数で見学には時間がかかります。建物だけでも見学価値は高いです。)

西日暮里駅頭
諏方神社
富士見坂

経王寺
ゆうやけ段々
朝倉彫塑館

不忍池 弁天堂

湯島神社 女坂

神田明神 裏参道
神田明神 神馬の「あかりちゃん」お散歩中

湯島聖堂

聖橋
ニコライ堂(東京復活大聖堂)

東京駅

47年卒 手島


西日暮里駅 諏方神社 富士見坂 シャレー・スイス・ミニ(caffe) 夕焼けだんだん入り口 経王寺 朝倉彫塑館 観音寺築地壁 長安寺 スベース小倉屋 寺町美術館 ギャラリー茶屋町三番地 森鴎外旧居跡 横山大観旧宅及び庭園 旧岩崎邸 池之端一丁目 天神下 湯島天神女坂 湯島天神 三組坂 立爪坂 神田明神 湯島聖堂 聖橋 ニコライ堂 淡路町 神田 鎌倉橋 大手町 東京駅

紀行「スペイン巡礼の旅」ロングトレイル踏破 1/3 ・打矢之威

<1回/3回>   「プロローグ」

馬齢79年10ヶ月重ね、そろそろ終活の一環として念願のキリスト教聖地巡礼を実行することにした。

:2017年9月28日―10月4日(8日間)

ルート:スペインのガリシア州サリアよりサンチャゴ・デ・コンポステーラ(カミーノデサンチャゴ)寺院までの120キロの徒歩旅行

カミーノ・デ・サンチャゴはスペインの大西洋カンタブリコ海岸近くの聖ヤコブの聖地である。ヤコブ(スペイン名サンチャゴ)はキリストの12使徒の一人で、イエルサレムで断首された殉教者。弟子二人が遺体を隠し、流れ流れてスペインのガリシア地域に埋葬された。その地にサンチャゴ大聖堂が西暦813年に建立され、以後イエルサレム、バチカンと並びキリスト教の3大聖地の一つとなった。

私は叔母が関係するフランスのルルド辺りからピレネー山脈を越えて300キロの巡礼旅を計画していたが、1年半ほど前ネパールのエベレストトレッキング中、胸の苦しさなど身体の変調を体験し、高山病だろうと安易に考えていたところ、狭心症の前兆であることが判った。2度ステント設置の手術を受け、リハビリに努めたのでソロソロ巡礼旅を実行しないとその前にあの世行きになると焦り、主治医に相談したら「あんたはダメと言っても聞かないだろう。せめて盛大に保険をかけて行きなさい。救援費用、遺体搬送費も含めておくように。」と冷たい返事であった。

巡礼旅のフィナーレはサンチャゴ寺院から巡礼証明書(クレデンシャル)を発行してもらうことで終了する。其の為には最低115キロ歩くことが絶対条件である。途上、各地の教会、アルベルグ(公営簡易宿泊所)、バル(食堂付き雑貨店)等から一日最低2か所のスタンプを押してもらうことが必要である。

サリアはスぺインのガリシア州の小都市で、ここからサンチャゴ・デ・コンポステーラまで陸路120キロほどの道のりである。スペインでも貧しい農村が散在し、丘陵地帯(500-600m)と森林地帯が交互に現れる。ルート上の要所要所には巡礼路の標識である黄金色のホタテ貝の印が石柱に埋め込まれているのでほとんど迷うことはないが、早朝は暗いので何度か間違え脇道にそれたこともあった。

10月の始めとはいえ朝晩は寒いので、ウンドーブレーカーは必帯。その他2,000m級のトレッキング装備が必要であった。途上の民宿は共同シャワー、蚕棚のベッド、寝具は毛布又は持参の寝袋。巡礼者は男女雑魚寝、隣の鼾がうるさいのでウイスキーをひっかけて眠る。世界中から巡礼者が集まるので訳の分からない外国語がいたるところで聞こえる。

同行者は学生時代の同級生伊藤義明氏とその友人の河合宏、妙子夫妻、伊藤氏は私と同年、河合夫妻は60代後半、いずれも山歩きは慣れているので心強い同伴者であっが、足がそろわないので私は遅れがち。結局独り歩きになり、途中のバルやその夜の民宿で合流することになった。

当初一日当り平均25キロの行程で実働5日間と1日の予備日を取ったが、9月27日成田発予定のイベリヤ航空機が機体不備で1日順延、結局9月28日からの出発で1日短縮せざるを得なかった。従い平均1日30キロの強行軍となった。幸い天候には恵まれ、雨天はなくどんより曇っていたが涼しいので歩くのには好都合であった。

次回に続く

紀行「スペイン巡礼の旅」ロングトレイル踏破 2/3 打矢之威

<2回/3回>   「旅のスタート」

9月28日(木) マドリッド空港泊

9月29日(金) マドリッドからサリアまでスペイン国鉄で移動(約6時間)サリアの民宿泊(EL MALECON HOSTAL,一泊30ユーロ)
宿番の女性二人は8時ごろからいなくなり、無人宿、宿前の飯屋の路上で夕食。ガリヤ名物のタコの油揚げを食う。美味)

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9月30日(土) 早朝サリア出発。真暗な中、懐中電灯を頼りに進むが市内の道が複雑で何度も迷う。オランダ人の二人が大股でスイスイ歩く。

夫人らしき女性が懐中電灯でホタテ印を発見。しばらくついて行ったがあきらめた。郊外に出ると辺りも明るくなり田舎の一本道となる。サリア7時30分発、レンタ10時、ペルスカロ10:50分、モルガーデ12:00、メルカドイロ2:40分、ポルトマリン4:50分。サリアは標高400m、道中丘の起伏の最高地点600m、栗やドングリの林を抜ける。実があちこち落ちている。

今宵の宿、PORTOMARINE郊外のアルベルグ(公営民宿)まで25キロ弱、まだ調子が出ない。O.MIRADOR 民宿一泊10ユーロ約1250円、途中のバルや教会で巡礼手帳にスタンプをぺたぺた。(注)スぺインは緯度の関係でこの時期朝8時過ぎに明るくなる。

夜は7時頃ほの暗くなる。したがい10時間ぐらいはライトなしで歩ける。

 

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10月1日(日) PORTOMARINE-CASANOVA(30.4キロ)400mからSIERRA LIGANDEまでの登り720m迄がきつい。最高地点の750mまで丘陵地帯を登ったり下ったりの連続、消耗する。先行組についていけず脱落する。次々と外国人巡礼者に追い抜かれる。皆一様にカミ―ノ(こんにちは)という。途上胸が痛くなり、休止、休止の連続。このままくたばるかと一瞬空を仰ぐ。

先行組とは全く会えず追い付きようもないので、バルに駆け込み緊急に車を手配してもらおうかと逡巡する。よく考えると昼食時喉の乾くままに一人ビールを飲んだのが心臓ドキドキに繋がったと思いついた。大休止すると鼓動も収まってきた。やれやれ自分のうかつさにあきれる。夕方、カサノバの手前の階段で伊藤組が待っていてくれた。そこから宿まで急階段を最後のしごきとあえぎあえぎ登る。今宵のアールベルグはBOLBORETA。一泊素泊まり27ユーロ(3500円)清潔で4名一部屋を独占す。夜中おしゃべりしていたら隣からうるさいと怒鳴られた。(ドイツ語らしいが意味不明)

 次回に続く

紀行「スペイン巡礼の旅」ロングトレイル踏破 3/3 打矢之威

3回/3回 最終回 「ロングトレイル踏破」

10月2日 (月)   汗だらけの下着は前夜手洗いしておいたので、今朝は快適。調子も戻り、今日は距離を稼ぐと勇躍出発。CASANOVA-AZURA(30キロ) 今日も独り歩き。3ヶ目で快調になってきた。休憩場所ではいろいろな国籍の巡礼者と声を交わす。アメリカ、ドイツ、デンマーク、オランダ、カナダ、パナマ、スペイン等々世界中のキリスト教徒が聖地を目指す。相当な高齢者から若い男女まで千差万別。今日は韓国の若い女性二人と道ずれになったが置いて行かれた。途中のバルで追いついたので、伊藤氏など先行組に何とか歩いていると伝言したが伝わったか不明。彼女たちとは最終日サンチャゴに入る前に再会した。道に迷って迂回していた由。今日の行程はCASANOVAからARZUAの5キロほど先の寒村ACALZADAにあるアールベルグCamino Dos Ocas。全行程33キロ。電話で連絡すると山中わかり難いところにあるので途中まで迎えに来るという。しかし到着が遅いので夕食はない。それでは手前のアールベルグで食べようとしたが其処も不可。困り果てていたら宿前に休んでいた若い男女(イギリス人、スイス人、デンマーク人の混成部隊―途中で3人仲良くなった由)がなけなしのでかいフランスパンを恵んでくれた。巡礼のよしみで皆親切。ところが、宿に着いたら夕食を出すという。女将らしき小母さんがてきぱきとご馳走を作ってくれた。どうもスペイン人は江戸っ子と同じ性格で辛口だが根はお人好のようだ。

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10月3日(火)今日は最終日何としてもサンチャゴの大聖堂に着かねばならない。約33キロの長丁場。しかしサンチャゴ・デ・コンポステーラに近づくにつれ、人家も多く、市街地らしくなってきた。古い落ち着きのある家並みが散在する。遠方には通過地の教会の屋根があちこち見える。なんだか日本の奈良か京都の風情である。前夜泊まった宿を明るくなってから出発。SALCEDA 8:50分、SANTAIRENE 10:45分、AMENAI 13:10分、VIRAMAIOR 15:33分、MONTE DEL GOZO 17:00分、SANTAGO DE COMPSTELAサンチャゴ・デ ・コンポステーラ大聖堂前の広場近くのホテルPazo De Altamira着18:45分到着。ところが3人が到着していないという。どこで追い抜いたかあるいは彼らは道に迷い遅れているのか心配になった。夜9時になっても投宿しない。腹は減るし、全行程120キロ走破の虚脱感からロビーでぼうーっとしていると、レセプションの女性が目の前にうまい魚料理を食わせるレストランがあると教えてくれた。空腹に耐えきれず一人シャングリラで乾杯。生ハム、パエリヤ、魚のムニエルなどスペイン料理を盛大に食べた。後で聞くと巡礼終了証明書(クレデンシャル)を一刻も早く入手するため2時間も待って大聖堂裏のPILGRIM’S OFFICEで待機していた由。私は翌4日早朝、巡礼事務所に行き1時間ほどで無事入所した。

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10月4日(水)午後3時のマドリッド行き急行に乗るまで市内見物。大聖堂、広場前のマーケット、土産物屋、青天井の魚レストラン(ガリシヤ州は魚が旨い)どれも珍しい。夜遅くマドリッドのホテルでポートランドから来た家内と合流。後半はイタリヤのCOSTA ラインの地中海船旅(バルセロナ マルセイユ サボナ ナポリ シシリー島 マルタ島)を楽しんだ。1年ぶりの家内との長旅である。来年は若いころ駐在した中近東、特にイエルサレム巡礼を計画している。キリスト教3大聖地巡りをすれば神様も生前の不善行もお許しになるであろう。

終わり

 

打矢 之威  2017年10月27日 記

養沢毛針専用釣り場釣行

4月13日(2017年)

4、5年振りにあきる野市にあるトーマス・ブレークモア養沢毛針専用釣り場に行って来ました。養沢川は大岳山の綾広の滝、七代の滝の流れや御岳山からの流れの下流にあたる川です。上養沢からは上高岩山を経由して大岳山へ至るコースもあります。

ふライフ一シングでの釣行になりますが、残念ながらドライフライには全然反応がありませんでした。釣果はニンフでレインボーが7匹、ヤマメ1匹が本日の全てでした。他の人もドライには出てこなかったそうです。出て来たのはウグイだけだったということでした。

タックルはシマノのFREESTONE   SCL #3   8’3″  リールは同じくシマノの FREESTONE  LA3-4 ラインはDT-3F

養沢毛針専用釣り場ホームページ

レインボートラウト(ニジマス)

ヤマメ
FREESTONE SCL #3 8’3″
ラインはDT-3F
フライはこんなものでした。手作りと市販のものが半々です。

八坂神社
エリアの終点地点の大岳橋
上養沢にある養沢神社
神社前に立つ個人が寄贈したという雌雄の龍像

養沢毛針専用釣り場 エリアMAP


S47年卒 手島

レインボープロムナード&台場公園

東京散歩 レインボーブリッジを渡り台場公園へ

車では何回も通っているレインボーブリッジですが、歩いても渡れるということを聞いたので行ってみることにしました。

JR新橋駅から「ゆりかもめ」で芝浦ふ頭駅で降りて、レインボーブリッジ方面に歩いて10分くらいで登り口に着きます。「ゆりかもめ」は右に大きくカープしていきますが、歩道を行くには逆に左の海寄りに曲がって行きます。大きなビルの下に着いたらビルに入って、7階までエレベーターで登って行きます。

エレベーターを降りると都心方面の北ルートと臨海地帯の南ルートに分かれます。台場公園口近くまで入れ替わることができないし、一般自動車道と軌道で反対側の景観は妨げられてしまうのでどちら側の景色を眺めたいのかその時点でルートを選ぶ必要があります。

橋長の2/3くらいまで安全のためネットがかかっていますが、何箇所か展望のきく所がありますので十分写真などもそこで十分撮れます。

左に竹芝桟橋や日の出桟橋、浜離宮、中央に晴海埠頭、右手に豊洲、有明と見晴らしも良好です。話題の新しい豊洲の市場もよく見えます。

台場公園口近くになるとネットもなくなり眺望が良くなります。徐々に高度が下がってきて、歩き始めた芝浦口方面のレインボーブリッジも綺麗に見えます。

台場公園近くになると反対側に渡る通路が右手に現れます。そのまま進んでもしばらく行くと公園側に合流して降り口になります。

夏場は20:30まで入れるので夜景も綺麗だと思います。台場公園口からでも芝浦ふ頭口のどちらからでも渡ることができますし当初は有料だったようですが現在は無料です。所用時間は20〜30分くらいになります。

今回芝浦ふ頭から入ったので降り口は台場公園になります。ここまで来たので、台場の砲台跡に行ってみることにしました。砂州のように砂浜が広がり、都会の喧騒をまるで感じさせない別世界が広がっています。陣屋跡、弾薬庫跡、砲台跡など独特な感じのする所です。

降り口近くからは町田駅とフジテレビ方面に行くバスも出ていますし、15分ぐらい行くと「ゆりかもめの」台場公園駅があります。ダイバーシティーやバレットタウンあたりでお昼を食べて帰るのもいいでしょう。半日の東京散歩です。(昭和47年卒手島)