「コラム」カテゴリーアーカイブ

熱中症と一過性脳虚血性発作との違い(再掲載)

先日、北奥千丈岳の頂上で休んでいたところ少し離れた所で食事休憩をしていたご婦人が「気持ち悪い」とご主人に言っていたかと思ったら、立ち上がり際に倒れ顔面を岩に当てて出血されました。
すかさず近くで昼食の準備をしていた30代の男女が意識や両手足のしびれなどを確認し熱中症と判断しててきぱきと救急処置をしている様子に感心させられました。
聞こえて来た様子では二人は医者でも看護師でもなく、トレランをやっているだけですよと言っていました。
大勢で対処してもしょうがないかもと思ってこちらは見守っていただけでしたが、今にして思えば途中交代してあげるなどいろいろ出来ることがあったと思い反省しきりです。
さて、山でも中高年が多いこともあって病気などで倒れたりするケースも多くなっているようです。
4月の鍋割山の頂上でも心停止された人がいて、ヘリで緊急搬送している現場に遭遇しました。
これからの季節は熱中症で倒れたりするケースも多いのではないかと思われます。しかし、中高年の場合は特に同じような症状でも暑さと水分不足からくる熱中症ではなく、脳梗塞による一過性脳虚血性発作であるケースもあるようです。
症状がよく似ているということで熱中症と間違われ、手当が遅れて重大なことになる場合もあるようです。
熱中症なのか脳梗塞による一過性脳虚血性発作なのかを的確に判断し、対処する必要が求められます。
すでに意識がないよう場合については呼吸や脈を確認し、必要に応じて心肺蘇生をしなければならないでしょうが、意識がある場合についてホームページに「熱中症と一過性脳虚血性発作との違いの見分け方と対処の仕方」を掲載しましたのでご覧いただければと思います。
(2018年7月14日の記事を再掲載しました。)

今年の富士登山は?

3月24日、富士山の標高2100mの大沢崩れで降雨によって雪が溶けて土砂を巻き込んで流れ下るスラッシュ雪崩が発生し、山梨側の麓と5合目を結ぶ有料道路「富士スバルライン」の4~5合目間4カ所の計325メートルに土砂が流入しました。

雪解けとともに例年発生しているスラッシュ雪崩ですが、急に暖かくなったせいでしょうか、今年のような複数回の目立ったスラッシュ雪崩は2018年以来ということです。

さて、昨年は新型コロナの感染防止のために全ての山小屋が休業し登山道が閉鎖されてしまいましたが、今年はどうなるのでしょうか。

富士山の山小屋や関係団体は今年は夏山を開く事で準備を進めいるようですが、夏山シーズンに向けて国や山梨と静岡の両県、それに富士山のふもとの市町村などで構成する「富士山における適正利用推進協議会」はコロナ禍にあっての富士山を登る際のマナーを策定しました。(With コロナ時代の新しい富士登山マナー)

  1. 発熱・症状のある時は登山を行わない
  2. なるべく住居を共にしている少人数で登山
  3. 混雑する日や時間帯を避ける
  4. 山小屋は必ず事前予約
  5. 宿泊をともなわないご来光目的の夜間登山は行わない
  6. 最新情報をよく確認し、安全に配慮した余裕のある登山計画を立てる
  7. 感染対策グッズを準備
  8. 同行者以外の人とはソーシャルディスタンスを確保
  9. 必要に応じてマスクや手ぬぐいなどで鼻と口を覆う
  10. 登山道の渋滞時には交互登下山に協力を
  11. 呼吸を荒げないよう、自分のペースを維持
  12. 同行者以外との物品の共有、杭やロープへの接触は避ける
  13. トイレや売店を利用した後は、必ず手指消毒
  14. ゴミや吐物は密閉式の袋に入れて持ち帰る
  15. 体調不良時等は速やかに登山を中止して下山

それぞれの山小屋ではコロナ禍での開業に向けて、人数制限と予約の徹底、各所へのアルコール配置、食堂や寝床などの各部屋内を分けるためのパーティションの設置、使い捨てシーツの活用、換気システムの導入、寝床のスペースの改良など対策を進めているようです。

関係者はスバルラインの夜間営業停止や検温の周知徹底、観光バスやタクシー、マイカー利用者はスバルライン料金所で検温や体調確認の書類提出し、協力しない場合は通行させないことを求めるなどの要望を山梨県に求めているようです。

富士山の開山については5月に決定するということのようです。

「ナラ枯れ」が深刻になっています

コナラやコナラをはじめマテバシイなどドングリを実らせるナラ、シイ、カシなどのブナ科の樹木にカビの仲間である「ナラ菌」が入り込むことにより枯死する現象を「ナラ枯れ」と呼んでいます。

この「ナラ枯れ」は日本海側で顕著だった現象ですが、温暖化の影響もあると言われていますが、今や日本全国の里山や奥山に広がりを見せています。令和2年度には、42都府県で発生し、被害量は令和元年度から13万立方メートル増加して18.5万立方メートルとなってい流という事です。
実はこのナラを枯死させる原因菌になる「ナラ菌」はカシノナガキクイムシという5mmくらいの甲虫が元々持っていて、この虫がナラの木に穴を開けて住み着き、木の中でナラ菌を増殖させそれを食物にして生きているのです。


ナラに入り込んだカシノナガキクイムシはフェロモンで仲間を大量に招き寄せ、卵を産んで集中攻撃を開始します。穴を開けられたナラは樹皮から樹液を流し、次第にナラ菌自体によって水枯れを起こして夏場に枯死してしまうことになります。
次から次へ、山全体が茶色く枯れてしまうとうことにもなっています。また、大木ほど集中攻撃を受けることが多いようです。


多摩市などの都市部でも去年までに公園緑地の樹木で293本、街路樹で15本、学校の樹木9本の被害が報告されています。「明治神宮御苑」の森でも被害が出てきており、対策としてストラップを設置したり、ラップで包んで虫が入り込まないような対策を講じていますが、森林などでは十分な対策が取られないこともあって被害は深刻化しています。


以下の画像は「明治神宮御苑」の森に仕掛けられた捕殺用ストラップの様子です。

ラップで包んでキクイムシの侵入を防ぎます
キクイムシの捕殺用ストラップ
一番下の容器に集められます

「明治神宮御苑」はたくさんの人がお参りに訪れる賑やかな明治神宮の一角にあって、静かで落ち着いた佇まいのオアシス的な庭園です。

もともと熊本藩主の加藤家、後に彦根藩主の井伊家の下屋敷があった庭園で、明治時代になって宮内省の所管になりました。池や菖蒲園もあり、最奥には清正が作ったとされる珍しい横穴方式の井戸があり、バワースポットとしても有名になっています。

清正の井

ウインパーの切れたロープの謎

 
当時、「魔の山」と恐れられ、登るのも躊躇われていたヨーロッパアルブスで唯一未踏峰だったマッターホルン(4478m)が初登頂されたのは1865年7月のことでした。テントの形式にもその名を残しているエドワード・ウインパー(25歳)ら7人によるものでした。初登頂は同時に下山時に4人が滑落し、1400m下の氷河に墜落して死亡するという悲劇でもありました。
 
このマッターホルンの初登頂を記録したウインパー著の岩波文庫アルプス登攀記」は高校生の頃に読み、挿絵なども印象に残っています。
 
「悲劇のロープはなぜ切れてしまったか。」
「ウインパーのアルプス登攀記に記されたことは事実なのか。」
 
関係者の子孫や地元ツェルマットの人たちは疑問に思っているようです。ウインパーの切れたロープの謎についてもう一度読み返しながら考えてみましたので、ご紹介したいと思います。
 
当時マッターホルンはイタリア側のツムット稜の方がスイス側のヘルンリ稜より傾斜が緩いので、挑戦者たちはイタリア側からの初登頂を目指していました。その一人であった英国人のウインパーはすでに何回も挑戦していましたが、なかなか攻略できないでいました。同じようにイタリ人のジャン・アントワーヌ・カレルもイタリア側から国の威信をかけて初登頂を狙っていました。
 
すでにカレル達はイタリア側から登頂を目指して出発していたので、遅れをとったウインパーはスイス側のヘルンリ綾の方が登りやすいかもしれないと、スイス側から初登頂を狙ってアタックすることになりました。
 
ウインパーのメンバーは18歳のスコットランド貴族のフランシス・ダグラス卿、英国人の牧師で37歳のチャールズ・ハドソン氏、その友人で19歳のダグラス・ロバート・ハドウ氏と、シャモニーの名ガイドで35歳のミッシェル・クロ、スイス・ツェルマットのガイドで45歳のペーター・タウクヴァルターシニアとその息子の22歳のペーター・タウクヴァルタージュニアの7人でした。
 
ヘルンリ綾からのアタックは経験の浅いハドウ氏をサポートしながらも順調に進み、登頂を目前にしてウインバーはロープを外して競うように頂上を目指したそうです。無事、7人全員は登頂を果たすことができました。ウインパーは眼下にカレルたちの姿を確認し、大声で叫んだものの聞こえなかったので、岩を落として分からせたということがアルプス登攀記に書かれています。カレルたちは初登頂出来ないことが分かり、途中で下山してしまいました。しかし、3日後にやはりイタリア側からの登頂を果たしているということです。
 
さて、一行はは歓喜に浸った後、下山の準備に取り掛かりますが、挿絵画家でもあるウインパーは頂上からの風景をスケッチに手間取っている間にハドソンと相談して決めたいた順番でクロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿、タウクヴァルターシニアはロープを結び準備を済ませていました。ウインパーが登頂者の名前を瓶に詰めて残すという作業をしている間に一行は下山を始めていました。後を追ってウインバーとジュニアはロープで結び合って下山を開始し、二手に別れて下山していきました。
 
途中でダグラス卿から、誰かが足を滑らせたらタウクヴァルター・シニアは持ち堪えられないだろうから、ウインパーたちとロープで繋いで欲しいという申し出があり、7人は全員がロープで結ばれることになりました。
 
しばらくして、登山経験が浅く、体力的にもかなり弱ってきていたセカンドのハドウが足を滑らせて先頭だったクロにぶつかって二人は滑落してしまいます。ロープにつながれている後を行く二人がそれに巻き込まれて墜落してしまいます。タウクヴァルター・シニアとウインパーは岩にへばりついてロープを受け止めましたが、ロープはタウクヴァルター・シニアの前でプツンと切れて、4人は1400m下の氷河に墜落してしまいました。
 
「アルプス登攀記」には、ガイドのタウクヴァルター親子は取り乱し、泣き叫んでしばらく何も出来ない状態だったと書かれています。事故後、生き残った3人は何とかツェルマットまでたどり着くことが出来ました。
 
3人の遺体は氷河の上で発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は見つかっていません。
 
事故後、何故ロープが切れて4人が滑落してしまったのか取り沙汰されることになります。
 
「アルプス登攀記」ではウインパーは切れたロープは、持って行った3本のロープのうち古くて一番弱いもので予備として持っていったロープであったということ、ロープはぴんと張りきったままで切れたもので切れる前に傷がついた形跡も見当たらなかったと書かれています。
 
ウインパーは自分やガイド二人に落ち度はなかったと言っていたようですが、ガイドのタウクヴァルター・シニアの前でロープが切れたことで、タウクヴァルター ・シニアが自分たちの命を守るために意図的にロープを切ったのではないかと嫌疑がかけられ、検証が行われることになります。
 
結果はロープは意図的に切られたものではないとされましたが、ツェルマットで一番のガイドのキャリアは吹っ飛んでしまい、親子の評判は回復することなく、親子はしばらくアメリカに逃れることになります。
 
英国に戻ったウインバーも同様に世間から非難を浴びることになり、その弁明もあって「アルプス登攀記」を出版することになります。アルプス登攀記はウインパー自身の描いた挿絵も効果があって、ベストセラーになったそうです。ウインパーは当初ガイドには責任はないと言っていたようですが、時間が経つと次第にロープを選択したのは自分ではなく、なぜガイドが細いロープを選択したのか分からないと言い始めたそうです。本の出版によって評判を回復したウインパーは、初登頂を争ったカレルとその後も一緒にいろいろな山を登っていたそうです。
 
タウクヴァルター親子は英語が分からなかったので、ウインパーの主張や「アルプス登攀記」に書かれている内容が分からず、反論することもなかったようです。しかし、英語が分かるようになったタウクヴァルター・ジュニアは事故後に泣いて取り乱したのは逆にウインパーの方だったと言っています。
 
「悲劇の切れたロープ」はツェルマットのマッターホルン博物館に展示されています。スイスの登山用品メーカーのマムートはマッターホルン初登頂140周年の際に、切れたロープの強度試験を行い、耐荷重は300kgであり、そのロープではやはり4人の体重を支えることは出来なかっただろうと検証しています。
 
ウインパーによれば、墜落してしまった遺体は2番強度の長いロープに繋がれていたということで、切れてしまったのは3番強度の短いロープ、途中でウインパーがタウクヴァルター・シニアと繋ぐことになったのは1番強度の短いロープ、ウインパーとタウクヴァルタージュニアを繋いでいたのも1番強度の短いロープとなりますので、切れたロープだけに負担が集中してしまったと考えられます。ではなぜ、強度の弱かったロープを使うことになったのでしょうか。
 
最初に滑落した若者の子孫は当時の記録を調べ、事故のずいぶん後にウィンパー自身が「登頂前にロープを切った気がする」と書かれた文章を見つけ、これを事実として地元などではウインパーは登頂を競った時にロープを外したのではなく、切ってしまったので、帰りに結ぶだけの長さが足りずガイドは仕方なく予備のロープを継ぎ足さざるを得なかったのではないかという説が有力になっているようです。
タウクヴァルター・シニアがなぜ自分とダグラス卿の間だけ予備のロープを使ったのか、あるいは使わざるを得なかったのか明らかにされていませんので、真実は闇の中にしまわれたままです。
 
ウインパーは体調を悪くした晩年、見納めにとアルプスを訪れます。ツェルマットの再訪は登頂(事故)から46年も経っていました。彼にとってマッターホルンは「栄光の岩壁」ではなかったのではないでしょうか。
 
その足でモンブランの麓のシャモニーも訪れますが、その宿で心臓麻痺で亡くなり、その地の墓地に埋葬されました。シャモニーの名ガイトのミッシェル・クロはツェルマットの墓地に葬られていますが、シャモニーにはミッシェル・クロと名付けられた通りがあります。
タウクヴァルター親子はツェルマットに戻り、タウクヴァルター家と子孫はその後もツェルマットのガイドとして活躍しているそうです。プロの山岳写真家に転向した白川議員はリッフェル湖から見たマッターホルンの朝焼けに彼岸を見て、6年間通い詰めてアルプスの写真集を発表します。マッターホルンに登頂して山頂からの写真も撮りますが、その時にガイドしてお世話になったのはタウクヴァルターの子孫だったということです。

書評    河野  啓著「デス・ゾーン」

書評 河野 啓著「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」


「冒険や夢の共有」をテーマに「単独無酸素7大陸最高峰登頂」を標榜し、登山をLIVE配信していた栗城史多氏は2018年に8度目のエベレスト初登頂を目指すも途中敗退を宣言し、下山中に滑落遭難死(35歳没)しました。
 
栗城氏は当初は「お笑い」を目指すも転身して大学に入学し、3年生の時に強い興味はなかったものの、他学の山岳部に所属します。在学中に地元北海道で1週間程度の冬季峠越えをする程度の経験だけで奇跡的にマッキンリーの登頂を果たします。その後スポンサーを見つけながら、アコンカグア、エルブルース、キリマンジャロと各大陸最高峰を踏破していきます。
 
卒業後、プロの登山家としてカルステンツ・ピラミッドを登頂し、「ニートのアルピニスト」「単独無酸素7大陸最高峰登頂」のキャッチコピーでマスメディアでも取り上げられれる中チョ・オユー、ビンソンマシフなども登頂し、2007年にはエベレストのみが残されていました。
 
そして、2009年からは2018年まで8回に渡りLIVE配信によるエベレストと他の高所登頂に挑戦しています。しかし、実力が伴わない挑戦だったのでしょうか、登頂成功したのはダウラギリとブロード・ピークの2回だけで、彼の挑戦はどんどん破綻していき、終わりを迎えることになります。ちなみに後述するネパール人のプルジャ氏と栗城氏は同い年のようです。登山のあり方や言動には賛否が別れる登山家でもありました。
 
昨年、「デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」という河野  啓 著の本が出たので読んでみることにしました。
 
河野氏は栗城氏を早い段階で取材し、番組も作っていた北海道放送のディレクターで、この著作は「開高  健ノンフィクション賞」を受賞しています。
 
著者は「単独無酸素」というのは本当だったのか、登頂を果たせなかったのにより困難なルートに挑戦していったのはどうしてなのか、なぜ9本の手の指を失ってもエベレストに挑戦したのか、本当に滑落死は事故だったのかなど、彼にまつわる多くの疑問を投げかけています。周囲の人からの多くの取材を通して「栗城史多氏のエベレスへの挑戦」はマスメディアの人間や一般人を観客に、巧妙な演出でスポンサーや大衆を惹きつけた虚構のエベレスト劇場であったのではないか、そして、「夢や冒険の共有」は大衆の熱狂と鎮静を経て、儚く破綻へと突き進んでいったのではないかと投げかけているように思いました。
 
著作中の「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」という著者の質問に対して栗城氏は即座に「それならエベレストには行きません」と明言したということから、栗城氏の登山が何だったのか示しているようです。
 
ただ、著作は多くの取材から栗城氏の虚像を暴いているようですが、栗城氏の本質に迫るまでのノンフィクションにはなっていないのではないかと感じました。逆に著者が関係者であっただけに主観が強く、言い訳のような著者自身の思いを感じさせられました栗城氏のインチキを暴き、死者に鞭打つだけに終わってしまったのでは真のノンフィクションとは言えないのではないでしょうか。
 
高所登山に生き甲斐を見つけ、LIVE配信という手段に活路を見出し、そして破綻していった一人の若者の心情や内面に迫り、このような若者が出現した社会的背景、「夢や冒険の共有」に群がる大衆の熱狂と鎮静、そしてマスメディアやネットの功罪のなど現代の社会性に迫っていって欲しかったと思いました。
 
共有(シェア)という上部だけの薄っぺらな繋がりは人の人生や生死すらを左右しかねません。ドラマでも見ているかのように大衆は、ポチッと押しただけでお金や冒険・夢を共有できる現代社会の光と闇。自分を客観視できず承認欲求だけが強くなっていく若者の問題。リアリティー番組と称して番組を作り、動物園の檻の中を覗くかのように他人の生活を覗き見させ、言いたい放題言わせて自殺に追い込んで行くようなマスメディアやネットの功罪など。
 
栗城氏の35年の生涯から何を学ばなければいけないのでしょうか。一読してみて下さい。
河野  啓著「デスゾーン」栗城史多のエベレスト劇場 集英社 2020年発行

冬季K2の初登頂なる

 
国の威信をかけたネパールの登山家チームが16日、世界第2位の高峰K2(8611メートル)の冬季登頂に初めて成功しました。
 
K2はカラコルム山脈にあり、登頂には高度の技術を要するとともに冬季はマイナス50度の気温と風速50mにもなる強風のために、困難かつ危険な「非常の山」と称され、標高8000メートル級の14峰の中で唯一冬季登頂が達成されていませんでした。
 
登頂に成功したのは数日前から登頂を目指す2つのチームが合同し、協力し合って成し遂げたものでした。
 
チームの一つはニルマル・プルジャ氏(37歳)が率いる6人です。プルジャ氏は2019年に8000m級14座を約半年で完全制覇していて、現在世界最高と評価されている登山家です。
 
もう一つのチームはミンマ・G・シェルパ氏(34歳)が率いる3人で、それにセブン・サミット・トレックス (SST) 社の公募隊チームに所属するソナ・シェルパ氏(25歳)が加わりました。
 
10人全員ネパール人で、プルジャ氏以外はシェルパ族出身でしたこれまで多く登山隊のために荷役やサポートをしてきた地元の登山家や山岳民族出身の登山家がスポンサーやソーシャルメディア、クラウドファンディングなどで調達した資金と積み重ねてきた経験で高所登山を成功させました。
 
プルジャ氏は18歳で英国陸軍のグルカ兵になって6年間従軍し、その後厳しい試験をパスして英国海兵隊所属のエリート部隊である特殊舟艇部隊SBS(Special Boat Service)に所属しました。SBSは機密偵察・急襲を専門としており、SAS(特殊空挺部隊)と並んで英国最高レベルの精鋭部隊だそうです。グルカ兵はネパールの山岳民族から構成される極めて強靭とされる戦闘集団で、英国軍のスカウト部隊が現地を巡回して集めているそうです。フォークランド紛争時にはグルカ兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すアルゼンチン部隊もあったということです。
 
16年間従軍した後、軍を離れてプロの高所登山家となり、8,000m14座を7カ月以内にすべて登頂して世界最速記録更新を目指す」という大胆なプロジェクトを打ち立てて高所登山に挑んていくことになります。
 
「グルカと特殊部隊メンバーは、決して如何なる人も置き去りにしない」トライヤル中にデスゾーンで何回ものレスキューにも加わっています。
 
シェルパや酸素など使えるものは何でも使い、不遜な物言いもしているので批判もされていもいますが、軍出身だけにタフで実行力が全ての新しいタイプの登山家のようです。
 
プルシャ氏とその支援チームはエベレスト、ローツェ、マカルーの3座をたったの2日と30分で登頂しています。昨年エベレストでの渋滞写真が話題となりましたが、プルジャ氏もこの渋滞に巻き込まれて、7時間も身動きが取れなかったそうです。投稿され拡散されたエベレストの渋滞写真もプルジャ氏が撮ったものでした。
 
ちなみに、今回のK2ではプルシャ氏は無酸素で登頂を果たしています。この時、純粋主義登山(酸素や他の力を借りないで登る高所登山形式)のスペイン人登山家のセルジ・ミンゴテ(Sergi Mingote)氏はベースキャンプへの下山中に転落事故で死亡しています。

古(いにしえ)の登山者

剱岳と満月

2019年7月号のメールマガジンから転載した記事になります。


剱岳は1906(明治39)年、陸軍参謀本部陸地測量部(現国土地理院)の測量隊が「点の記」を記すべく史上初の登頂を果たしましたが、頂上直下に奈良時代か平安時代の修験者が持っていたと思われる錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖を発見して持ち帰っていることが知られています。そんな昔に剱岳を登っていたなんて信じられない気もしますが、本当に大昔から人は山に登っていたのですね。

立山開山縁起によると立山は越中国司の息子の佐伯有頼によって飛鳥時代の701年に開山されたといわれています。また、白山は奈良時代の717年に修験道の泰澄という僧が登頂を果たし、今年開山1300年を迎えています。

平安時代には富士山などもすでに登られていたようですし、戦国時代の1584年には越中富山の城主の佐々成政が秀吉を倒す相談のために富山から厳冬期(12月)の立山のザラ峠、針ノ木峠を越え信濃路を通って浜松の徳川家康に会いに行き、再び往路を帰っていったという伝説が残っています。

槍ヶ岳は播隆上人によって1828年に登頂され、1640年に加賀藩によって組織された黒部奥山廻り役の役人は1870年まで藩林保護のために北アルプスの主峰のほとんどを登って回っていたといいます。

1820年前後にはおおよその名だたる山が踏破されていたようです。1820年代は江戸時代の文政年間にあたり、シーボルトが登場してくる時代であります。情報も装備も十分ではなかった時代に登頂を果たそうという思いとはどんなものだったのでしょうか。

ジョージ・マロリーの挑戦

先だって前号のメールマガジンでもご紹介した日本山岳会主催の「登山史上最大のミステリー マロリーとアーヴィンを探して」と題したZoomによるオンラインセミナーを拝聴しました。講師のジャック・ノートン氏は1999年にエベレストでマロリーの遺体を発見した「マロリー捜索隊」のメンバーでした。このセミナーを基にマロリーのエベレスト挑戦と遺体発見についてご紹介します。

マロリーの最後の挑戦となったのは1924年の第3次英国エベレスト遠征隊で、マロリーは登山経験は少なかったものの若く、酸素ボンベの扱い能力も高いアーヴィンをパートナーに選んでアタックに臨みました。

当時エベレストは北東稜からの挑戦でしたが、難関は頂上直下の第2ステップでした。二人は8,600m付近までは登って来ていることが確認されているものの、その後行方不明になり、そして帰らぬ人になってしまいました。

エベレストの初登頂は南東陵から1953年に英国で組織されたエベレスト探検隊のオーストラリア出身のヒラリーとシェルパのテンジンによって登頂されましたが、マロリーとアーヴィンが登頂を果たしたのかどうかが話題になっていました。

そこで、1999年にイギリスとアメリカの放送局の共同企画として「マロリー捜索隊」が組織されました。今回講師のノートン氏もアメリカ人登山家として捜索隊に参加していました。

マロリーたちの死後75年を経て、捜索隊は8,160m付近でうつ伏せになった大理石の彫像のようなマロリーの遺体を発見しました。うつ伏せになった下部の衣服は残っていたものの、紫外線にさらされた上部の衣服は失い、肌が露出した状態で発見されました。残った衣服からはマロリーの名前が確認されています。

片足は砕けていましたが遺体の損傷は少なく、片足は登山靴が履かれた状態でしたが、靴鋲は一部剥がれていたそうです。体には数メートルのザイルが結ばれたままになっており、アーヴィンとアンザイレンした状態で滑落したことが伺えました。彼のポケットにはゴーグルが仕舞われており、暗くなっていたか下山中だったのではないかと考えられました。また、持ち物の中には登頂した時に頂上に埋めると約束していた妻の写真は見つからず、登頂した可能性が残りました。

第2ステップは3回のエベレスト登頂を果たしている講師のノートン氏も登ることが出来なかったほど困難な箇所で、マロリー当時の装備やフリーの技術では到底超えることは出来なかったのではないかと思われるということです。エベレストの単独無酸素登頂を果たしているラインフォルト・メスナーも著書「マロリーは2度死んだ」の中で同じことを述べています。

その後、第2ステップは1960年に中国隊の人界戦術によって「はしご」が掛けられて、初めて北東陵からの登頂が成し遂げられました。北東陵は現在もそのはしごを利用して登られているようです。

また、酸素ボンベの残量が記載されているメモが遺体から発見されていますが、それによると酸素は下山するまでの残量はなかったということでした。

その後も数回にわたってアーヴィンの遺体の捜索が行われましたが、アーヴィンの遺体も登頂時を写すために持っていったコダックのカメラもまだ発見されていません。今後、衛星写真の解析でアーヴィンの遺体も発見できる可能性もあるとのことでした。

現在、エベレストには200体以上の遺体が放置されており、発見されたマロリーの遺体も危険を冒して回収することはしないでその地で静かに眠らせておいて欲しいという妻の意向もあり、簡単な葬儀をして礫土をかけてそのまま残されています。

マダニの感染症の罹患者数が100人超え

2019年12月のメールマガジンから転載した記事になります。


国立感染症研究所は2019年12月17日マダニが媒介する致死率の高い感染症である「重症熱性血小板減少症候群」(SFTS)の今年の感染報告者数が初めて100人を超えたと発表しました。(うち4人が死亡) 注1

SFTSはウイルスを持ったダニにかまれると6日~2週間で発症し、発熱や倦怠感、筋肉、発疹、関節痛、腹痛、下痢ななどの症状が出ます。有効なワクチンや薬がなく、重症化すると死に至ることもあるということです。

2009年に中国で発症が確認されたのを初めとして、東京での1例を除いて九州、四国や関西北陸など西日本を中心に発症が報告されています。患者総数492人の約14%に当たる69人が死亡しています。注 2   猫などの発症したペットからの感染も報告されています。

近年シカやイノシシなどが増えてきていることもあり、ダニやヒルが多くなってきているようです。増草むらなどに入る機会が多い場合は袖口を絞れる長袖や長ズボンを着用するとか防虫スプレーをかけておくなど注意が必要なようです。

また、服などに入っても直ぐにはかまないのでよく確認し、かまれた場合は無理に引き抜くとマダニの口の一部が皮膚内に残る可能性があるため、ダニが付いていたらといって慌てて払ったりすると大変なことになります。冷静な対応が必要です。皮膚科で取ってもらうのがいいと言われますが、受診するまでダニを付けたままでいるということは物理的にも精神的にも現実的ではありません。虫を口を中心に回すようにすると上手く抜くことが出来るということですが、ピンセットでもなければ難しいと思われます。やはり、防虫スプレーか防虫テープでの予防が現実的のようです。通販でも「Tick Twister」というプラスチックの小さな釘抜のような専用ダニ取り器が販売されています。値段も安いので非常用バックに加えておくのもいいかもしれません。


2020年5月現在での状況

注1:2019年内の最終罹患者数は102例で、死亡例は5例となっています。

注2: 2020年5月現在の罹患者数は517例で死亡例は70例で死亡率は13.5%になります。6月以降のデータについては国立感染症研究所の発表はありません。

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登山に適した栄養の取り方

2018年8月のメールマガジンから転載された記事になります。


【登山前のスタミナ食は筋グリコーゲン】

「さあ、明日は山だからスタミナつけなくちゃ。」と登山を前にして、ご飯も食べないで焼肉をもりもり食べるのはNG。

肉類中心の脂肪やタンパク質が多い食事はダメで、糖質中心のご飯や蕎麦などの穀類、魚や肉などのタンパク質源、野菜というバランス食が効果的なようです。

糖質は体内に入るとブドウ糖になり、筋肉と肝臓に取り込まれ、多くが筋グリコーゲンとして蓄えられます。

ご飯を抜いたような脂肪や高タンパク食では筋グリコーゲンは普通食の約1/3に低下してしまうそうです。ポテトサラダやカボチャなどの煮物を加えた高糖質食の場合の筋グリコーゲンは約2倍になるのだそうです。

筋グリコーゲンは筋肉を動かすエネルギー源で、この量が多いほど長く運動が継続できバテにくいとされます。

また、消耗した筋グリコーゲンは運動直後に糖質を補うことで2時間後には急激につくり出されるそうです。

したがって、連泊するような場合にも夕飯には筋グリコーゲンを十分摂ることが翌日の行動に影響を与えるようです。

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【山の行動食にはドライフルーツが効果的】

山行中の行動食も筋グリコーゲンを源とする甘い飴や羊羹、チョコレートなど糖質が多く含まれているものを摂取する必要があます。山行中は1日3食という概念は捨てて、お腹が減ってきたら適時補給することが必要のようです。

エネルギー不足が急激に疲労につながるいわゆる「シャリバテ」にもなりますので、簡単に補給できるものを用意し、こまめに補給することが必要となります。

昔の山行では、氷砂糖や羊羹、飴やレモンなどを行動食として使ってきましたが、近年はドライフルーツを用いることも多くなっています。

果物の甘味は果糖で羊羹やアメなどに含まれる砂糖に比べ3倍も早く吸収されるそうです。また、果物の酸味にあたるクエン酸とビタミンは疲労回復させる成分で、乳酸を取り除く効果が期待できます。

果物の中でもグレープフルーツ、オレンジ、ミカン、ネクタリン、リンゴなどは特に酸味が強く効果的ですが、重たかったりかさばったりするためにそのままでは山に持っていく気はしません。

しかし、近頃はドライフルーツになったものがスーパーなどでもたくさん並べられるようになってきたので、容易にミックスしたものを持っていくことができます。

また、干しブドウ、プルーン、アンズ、リンゴ、パナナ、イチヂクなどのドライフルーツと「ナッツ」や「柿の種」などを組み合わせたものを行動食とするのもいいようです。

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【登山者にお勧めのアミノ酸系サプリの摂り】

夏場の水分やミネラルの補給に「ポカリスエット」や「アクエリアス」などの各社から出されているいろいろなスポーツ飲料が一般化しています。また、ゼリー状のスポーツエネルギー補給剤なども近年多く用いられています。

加えて最近はコンビニやドラッグストアでもアミノ酸系サプリが目につく棚に並んでいます。

さて、アミノ酸系サプリとはどんなものなのでしょうか。

マラソンや自転車などの持久力系のスポーツも盛んになってきたせいでしょうか、スポーツ時の筋力や持久力をアップさせる働きや疲労回復の効果が期待できるということでアミノ酸系サプリが広まってきています。

アミノ酸は乳酸の発生を抑制させる働きがあり、また披露した筋線維を修復させる効果があります。久しぶりに山登りに出かける人や、下山した翌日の筋肉痛などを軽減させる効果効果が期待できるようです。

ただし、使うタイミングがあります。アミノ酸サブリは体内に入ってから2時間程度しか効果が持続できないので、登り始める30分前に飲むのが効果的だということです。

また、下山した直後に飲むことで翌日の筋肉痛を和らげることができるとうことです。

ゼリータイプや水に溶かして使うタイプ、タブレットなど形状も様々ですし、同じメーカーから同じ商品ブランドでも成分やバランスを変えて何種類もの商品が販売されています。

何がどう違うのかよく分からないで使ったりすることも多いようですが、タイプと使い方に違いがあるので表示をよく確かめて物と時を選んで使うとより効果的なようです。

例えば「味の素」のamino VITALのゼリータイプで言えば、運動前には「SUPER SPORTS」、運動中にはエネルギー補給も兼ねた「パーフェクトエネルギー」、運動後には「GOLD」という具合に使い方を想定して作られているようです。