「山で歌った歌」カテゴリーアーカイブ

山で歌った歌 「北帰行」

1     今日も静かに暮れて ヒュッテに灯火ともる

いろり囲み 想い果てなし

明日は いずこの峰か

 

2    あわれ はかなき旅よ 人はみな旅人か

何を嘆き 何をかいたむ

憧れの峰越えて

 

3    夢は 昔に帰り えにし 山川をなし

そぞろ一人 うきねの旅路

明日は いずこの峰ぞ

 

※高梨先生のノートには「旅」というタイトルで小林旭が歌っていた「北帰行」とは違う歌詞の「北帰行」が記載されていました。元歌は旧制旅順高等学校の寮歌で、戦後山の歌として歌詞を変えて歌われていたようです。その他には「もずが枯れ木で」と「アルプス一万尺」も載っていました。

1955年作成「ワンゲル歌集」

独協学園ワンゲル部創立当時、ワンゲル部として山で歌うための「歌集」が作られていたということです。この歌集の作成にたずさわったS32年卒の若井永氏が所蔵していたものをご紹介します。

ご覧の通りまだ「獨逸協会学園ワンダーフォーゲル部」という名称で作成されています。独協学園の沿革を見ると名称は1948年に中・高等学校に変わったとありますが、当時も依然として旧名称が使われていたようです。校歌も同様で現在は3番しかありませんが、当時は下記のように5番まであったようで、それが載せられています。さて、他にはどんな歌を歌っていたのでしょうか。

 

山で歌った歌 「四季の歌」

作詞作曲 荒木とよひさ

1.春を愛する人は こころ清き人
スミレの花のような
ぼくの友だち

2.夏を愛する人は こころ強き人
岩をくだく波のような
ぼくの父親

3.秋を愛する人は こころ深き人
愛を語る ハイネのような
ぼくの恋人

4.冬を愛する人は こころ広き人
雪をとかす 大地のような
ぼくの母親

山で歌った歌 「雪山賛歌」

作詞 西堀栄三郎  アメリカ民謡

1.雪よ岩よ われらが宿り
俺たちゃ 町には住めないからに

2.シールはずして パイプの煙
輝く尾根に 春風そよぐ

3.煙い小屋でも 黄金のご殿
早く行こうよ 谷間の小屋へ

4.テントの中でも 月見は できる
雨が降ったら 濡れればいいさ

5.吹雪の日には 本当に辛い
ピッケル にぎる手がこごえるよ

6.荒れて狂うは 吹雪か雪崩
俺達 そんなもの 恐れはせぬぞ

7.雪の間に間に キラキラ光る
明日は 登ろうよ あの頂に

8.朝日に輝く 新雪踏んで
今日も行こうよ あの山超えて

9.山よサヨナラご機嫌よろしゅう
また来る時にも 笑っておくれ

 

山で歌った歌 「山賊の歌」

作詞 田島 弘(3番まで) 作曲 小島祐嘉

1.雨が降れは 小川ができ
風が吹けば 山ができる
ヤッホ- ヤホホホ
淋しいところ
ヤッホ- ヤホホホ
淋しいところ

2.夜になれば 空には星
月が出れば おいらの世界
ヤッホ- ヤホホホ
みんなを呼ベ
ヤッホ- ヤホホホ
みんなを呼べ

3.肩をくんだら明かりをつけろ
眠いカラスは起こすじゃないぞ
ヤッホ ヤッホホホ
夜明けはまだだ
ヤッホ ヤッホホホ
夜明けはまだだ

4.天道さまが東に出れば
西の空に雲が すっとぶ
ヤッホ ヤッホホホ
おいらは山賊
ヤッホ ヤッホホホ
おいらは山賊

5.嵐が吹けば波が立ち
波が立てば舟は沈む
ウッシ ウッシシシ
人のものは
ウッシウッシシシ
おいらのものさ
(おしまい)

山で歌った歌 「ノーエ(農兵)節」 民謡

高梨冨士三郎先生の十八番 ノーエ節です

富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ 白雪ゃ朝日で溶ける  (そりゃ)

とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ

三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い (そりゃ)

お化粧長けりゃノーエ  お化粧長けりゃノーエ
お化粧サイサイ 長けりゃお客がこまる

お客こまればノーエ  お客こまればノーエ
お客サイサイ こまれば石の地蔵さん   (そりゃ)

石の地蔵さんはノーエ  石の地蔵さんはノーエ
石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い

頭丸けりゃノーエ  頭丸けりゃノーエ
頭サイサイ 丸けりゃカラスがとまる   (そりゃ)
カラスとまればノーエ  カラスとまればノーエ
カラスサイサイ とまれば娘島田

娘島田はノーエ  娘島田はノーエ
娘サイサイ 島田は情でとける (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ

山で歌った歌 「もずが枯れ木で」

【作詞】サトウ ハチロー(1935<昭和10年>作)
【作曲】徳富 繁

1.もずが枯木で鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさん
コットン水車も 廻ってる

2.みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ

3.兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ

 


合宿最後の晩。
全員車座のなか❝梨さん(高梨先生)❞からみなにウィスキーがふるまわられる。
「角瓶」(サントリー)だ。
で,歌が………。口火を切るのはもちろん梨さん。
♪モ~ズが枯れ木でないている/あんさは……。
*
帰りの夜汽車。
あの歌ってなんですか?とオレは梨さんに聞いた。 長瀬オサム

 

 

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部部歌?

「山が僕らに教えてくれた事、たかがホモサピエンスの僕らにね。」    作詞・作曲…副部長:石鍋健太

 

よく「なんで山なんかに登るのか」と聞かれるけど、

アホに説明しても無駄だから適当に答えている。

だけど、本当はお前らに考える事が出来るなら、

こう言ってやりたいんだ。

オマエらに想像できるか、

山に流れる水の色が匂いが、

オマエらに想像できるか

あの頂上の景色が、

こんなに疲れて

こんなに汗かいて

こんなに上まで

こんなに来たのに

上を見れば僕らなんかの手の届かない所に空はある

僕は山で知った

僕らの存在の小ささを

はやくオマエらも気付いてくれ

手遅れになる前に、

でないとこんな歌歌い続けなければならない

さぁ行こう。我々と、

我々は、獨協高校ワンダーフォーゲル部

山で歌った歌 「獨協中学・高等学校校歌」

校歌

ワンゲルでは山行の折にテントの中でいろいろな歌を歌うのが長年引き継がれてきていた。校歌もよく歌っていた歌のひとつである。現在は下記のとおりであるが、かつての校歌は5番まであったようだ。

schoo_song_img_01


 

1957年卒の若井永所蔵

独協学園の沿革を見ると1948年に中学・高等学校に名称が変わっているはずであるが、1955年に山で歌うためにワンゲル部で作成された「山で歌う歌集」は獨逸協会学園ワンダーフォーゲル部の名称で下記の古い歌詞が載せられているのをみると当時まだ旧体制が引き継がれていたようだ。



歌詞の意味

歌詞に登場する、Lorbeer(ロールベール)とはドイツ語で月桂樹のことです。月桂樹は、古代から神聖な木とされてきました。古代ギリシアでは、葉のついた若枝を編んで「月桂冠」とし、勝利と栄光のシンボルとしてオリンピックの勝者などの頭にかぶせました。

この校歌は、日本の歴史・伝統を大切にしつつ、ドイツをはじめ、西洋の文化・精神を進んで学び、世界に広く視野を持って、主体的に判断し行動できる人間の育成を目指すという、本校の教育理念が表現されています。

▶作曲者・作詞者の紹介

校歌の作曲者・東儀俊龍(1865年~1927年)は、宮内省の雅楽師でした。東儀家は、奈良時代から雅楽を受け継いできた家系です。同じく東儀家の出で、早稲田大学校歌の作曲者としても知られる東儀鉄笛(1869年~1925年)の後任として、本校の音楽教師を務めました。そして、校歌は本校の第4代校長の大村仁太郎の指示で、明治36年(1903)前後に作曲しました。

作詞者は、芳賀矢一(1867年~1926年)ということになっていますが、実は大村仁太郎校長から依頼された、当時、本校の国語教師であった志田義秀(1876年~1946年)が、恩師である芳賀矢一の校閲・補佐を得て、芳賀の名義で発表したものです。芳賀矢一は、のちに東京帝国大学教授や國學院大学学長などを務め、日本国文学の基礎を確立した第一人者として知られています。国語で学ぶ「形容動詞」という品詞の名前も、芳賀矢一の作った用語です。一方、志田義秀はのちに旧制六高教授などを務め、松尾芭蕉の研究家としても知られています。また、芳賀矢一と共に、日本最初の類語辞典として1909年に刊行された『日本類語大辞典』の編者も務めました。

(獨協中・高等学校のHPより転載させていただきました)